ポスト近代市場の可能性を日本史に探る~通史的まとめ(前編) |
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2010年05月14日
縄文体質を切開する8~「考えない日本人」とこれからの可能性は
「縄文体質を切開する」というシリーズをこれまで展開してきましたが、その中でどうしても押さえておかなければならない日本人の体質があります。
これは先日のなんでや劇場で語られたことですが、日本人の持つ舶来信仰という中身です。(このシリーズでも第6回で少し触れられています)さらにそこから派生し、垣間見える「考えない日本人」という特質です。
日本は有史以降、大陸の外圧に対応してこれまで3度の大きな変化を繰り返してきました。いずれも集団や制度や文化においてそれ以前の日本と180度変わるくらいの大きな変化です。その対処の方法を見ると日本人の特質が浮き彫りになってきます。
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弥生時代から飛鳥時代にかけての稲作、鉄の伝播に伴う国家黎明期。
この時期には国家制度として中国の制度が取り入れられ、同時に漢字が日本語として定着します。さらに建築や文学、宗教、金属加工、農業技術などが数百年の間に日本列島に伝播し、定着します。この変化は縄文以来1万年続いてきた共同体をベースにした集団の解体の始まりです。後の2つの変化に比べて最大の変化であったと言えます。
江戸末期から明治以降
それまでの鎖国政策を解禁し、西洋文明を積極的に取り入れ制度、文化、市場、医学、工学などさまざまな西洋文化が流入します。明治時代半ばには、ほぼその体制は定着していた事から約30年で転換した事になります。建築に至っては最も西洋建築が乱立したのが明治時代であることから現在より精密に西洋文化を模倣していた事が伺えます。
第2次大戦以降のアメリカ化
戦時中の鬼畜米英という意識が解かれ、アメリカの占領下におかれた日本の大衆は終戦後5年もすると好んでアメリカ文化を受け入れ、大量消費、大量生産を通じて豊かさを求め生活も人々の意識もどんどんアメリカへ傾斜していきました。この時代の変化はさらに短く敗戦直後から変化を受け入れ日本全体が変わるのに10年も経過しなかったと思われます。
この3つ変化はいずれも無血革命です。改革派と保守派が思想的対立を起こすという事なくあっという間に新しい方に為政者も大衆も流れていきます。通常の国ではあまり考えられないこれらの現象を説明する上で舶来信仰という日本人の特性抜きにしては説明がつきません。
すでにこれまでるいネットでこの志向性について鋭く分析された投稿がありますのでまずはその中から紹介していきたいと思います。
■稲作伝播に見る受け入れ体質
水田稲作が渡来人によって北部九州にもたらされて以降、わずか100年で西日本に伝播し、その200年後には関東平野、さらに100年後には津軽平野まで達するスピードの速さは驚異的である。400年で1500kmの移動とすると毎年3.75kmとなり、中国の0.15~0.2kmと比較して約20~25倍のスピードになる。遊牧を伴っていたため加速されたであろうと考えられている西アジアからヨーロッパへの農耕文化の移入にしても、その速度は毎年1kmと推定されている。
(中略)
これら稲作伝播の速度を説明するには縄文人の欠乏だけを推進力に帰するのは困難に感じます。やはり、渡来人の強い先導力(=同類闘争圧力)→それを受けての縄文人の友好を旨とする受け入れ体質、さらにここから派生して形成された進んだ文化に対する舶来信仰という力学構造なしに、世界でも例を見ない稲作の驚異的なスピードでの伝播と定着はなし得なかったと考えられます。本源集団で育まれた受け入れ体質こそが、「可能性収束」と見える所以だと思われます。
元々の問題である縄文人の“友好を旨とする受け入れ体質”の出所は、精霊信仰でも「自然との共生思想(そもそも縄文人はもっていませんが)」でもありません。本源集団(共同体)における仲間の助け合い精神、その原点は外敵に襲われた仲間を助けるという危機救助の精神ではないでしょうか。この単位集団内の共認原理を、他集団の人間に対しても延長適用すると“友好”“受け入れ”となります。
大陸から切り離された地理的要素も無関係で、大陸においても極限人類や採取人類は同様の体質・価値観をもっていたはずです(近年まで現存していた採取部族がそうでした)。地理的要素がその後の日本人の体質に影響するのは、舶来信仰が強いという点です。
舶来信仰は“友好”“受け入れ”体質をベースに形成されましたが(渡来人を敵として戦闘を始めたなら生まれなかった)、世界の僻地故に、大陸からやってきた部族は常に進んだ文化をもっていることから生まれます。その最初が弥生人の渡来文化であり、その後大和、中国、明治の西洋、戦後のアメリカ信仰と、一貫して舶来信仰は働き続けています。
上に紹介した岡本さんの投稿の中で、舶来信仰の中身と出所が押さえられていますが、その本質は縄文時代1万年間の間に断続的に流れてきた渡来民、漂着民の受け入れの歴史です。
日本列島の地理的特徴は大陸の東の最果てという場所でかつ島国であるという特徴です。
縄文人は長い年月を通じて戦闘の意思を持たない渡来民を受け入れてきています。そして彼らから多くの大陸の文化や知識、情報を入手してきました。舶来信仰の中身とは外から来る人・モノ・情報を全て肯定的にまずは受け入れるという積極性であり、警戒心のなさであり、好奇心の強さでもあります。
この時代、中国での文化は一歩も二歩も進んでいました。それらの受け取りを断続的に繰り返すうちに大陸文化=得がたいものというように舶来志向は舶来信仰へと上昇していきます。
さらに舶来化に拍車をかけたのが縄文人の贈与体質です。良い物は進んで受け入れて回りに与えていく。その事によって舶来の品々や情報はあっという間に広がっていきます。すでに縄文時代晩期に形成されていた贈与ネットワークを通じて大陸の情報は大衆レベルであっという間に伝播して言ったのだと思います。
この間、縄文人は何を考えたのでしょうか?日本人は何を考えたのでしょうか?
いかに進んで舶来のよいものを取り入れ、真似をし、伝えていくか。一歩でも一時でも早くそれらを取り入れたものが優位に立つ。その繰り返しで、日本をどうする?とか日本とは何か?などを正面から考える事はなかったのではないかと思います。幕末の攘夷思想がそれに相当しますが、それとて、所詮縄張り争いの道具に過ぎません。第2次大戦の国家戦略にしても海軍と陸軍の縄張り争いに終始し、本当の敵(アメリカ)に対してどうする?は誰もまともに考えていませんでした。だから信じられないような戦局で壊滅的な敗戦をしました。
その意味では日本人は、所属する集団をどうすると考えるのが限界で、縄文時代の集団統合観念を時々に適用させていたに過ぎないと思います。
何か事あれば受け入れ体質―舶来信仰で国家間の外圧に対峙してきた日本は、一度も本気で「どうする?」を考えた事がない稀有な民族かもしれません。
これまで一度も”考えた事がない”日本人。これからの四回目の変化はもう真似る対象がいません。その意味ではここで初めて考える必要に迫られた状況が登場しました。ひとつの可能性としてるいねっとの上記岡本さんの投稿の最後の部分を紹介しておきたいと思います。
>受け入れ体質の奥にあるどれだけ受け入れても決して変らない強いものがあるのではないかと思うのです。
「変わらない強いもの」の究極の正体は、現在『社会統合』で議論されているところの、様々な外圧に対する“当事者意識”が長く残存したことではないでしょうか。社会圧力=私権闘争圧力に関してのみは当事者ではなかったでしょうが、それ以外の自然圧力、村内のもめ事、隣接する村とのいざこざなどあらゆることを自分たちで解決する(支配者層は関知しない)自治権を持っていたことが大きいと思われます。勿論、村(集団)内は本源共認が残存していたことが前提になります。
縄文人の本源性解明が“当事者論”とつながる予感がしています。
「当事者論」・・・岡本さんのこれらのヒントも加えながら”考えない日本人”はどのようにすれば「考える日本人」に変わっていけるか?をこれから考えていきたいと思います。私にはこの日本の「舶来信仰」の歴史を識り、四回目はないという事で覚悟を決めるところから始まるように思います。
その為に必要なのが「受け入れる」日本人がこれまでしてこなかった「外への発信」にあるのだと思います。この縄文―古代ブログを通じて一人でも多くの人とその発信を共にしていきたいと考えています。このシリーズは今回で終わりですが、また何度でも別の視点からでも日本人とは何?を追求していきたいと思います。
長らくのお付き合い、ありがとうございました。
付録「縄文体質とは」
安定・充足基調である女原理に根ざした集団肯定・男女の役割肯定を基本となし、自然の摂理、サイクルの中で与え得られる恵みを感謝の念で受け入れた。肯定性、集団性、平和友好志向が縄文体質の根幹である。
さらに島国かつ、大陸最果ての地理的立地ゆえ“受け入れ体質”さらには“舶来信仰”に特化しており、それ一本で大陸からの外圧を乗り切ってきた。そのため本気で日本どうする?を考えてこなかった。“考えない日本人”も縄文体質のもう一つの側面である。
投稿者 tano : 2010年05月14日 TweetList
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