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2009年10月20日

東洋人と西洋人との違いは「掠奪闘争による本源集団の破壊度」に規定される

 日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤である「日本人の心の底に残る本源的な共認体質」はどこから来ているのでしょうか。
 東洋人と西洋人との歴史の構造的な違い(掠奪闘争による本源集団の破壊度)を分析、理解することで、その理由が見えてきます。
「るいネット  実現論 第2部 私権時代 ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋) 」 で解説されていますので、紹介します。
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るいネット  実現論 第2部 私権時代 ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=2&t=2#01から、引用します。
   
   

   教科書が「人類の文明発祥の地」として教えるメソポタミア・エジプト・インド・中国は、全て掠奪闘争が繰り広げられた場所であり、それらの国家は、全て掠奪闘争の覇者によって作られた国家である。つまり、今日の「文明」は、全て掠奪闘争によって生み出された文明である。しかも、性闘争や私権闘争や掠奪闘争=戦争、あるいは環境や集団や精神の破壊、更には権力による支配・抑圧・疎外など、人類の罪悪と言われるものの全ては、性的自我(=邪心)を源とする性闘争→掠奪闘争→支配国家が生み出したものである。もちろん、性闘争→掠奪闘争→私権統合国家の流れが人類にとって必然の流れであり、かつこの性闘争・私権闘争系の「文明」が今後も更に進化してゆけるものであるなら、その流れに対して主観的に善悪の判断を下しても無効であり、無意味である。だが、この「文明」の帰結が人類滅亡であるとしたら、人々が戦争や破壊や権力を罪悪視し続けてきたのは基本的には正しかったのであり、それどころか、この「文明」が肯定視されてきたその根幹部そのものの是非が改めて問われることになる。  
   
   この私権「文明」は、人類を含めて全ての生物がその中で育まれ、進化してきた本源集団を破壊した上に築かれている。しかも、自然の摂理から大きく逸脱したその私権原理そのものが、今や機能不全に陥り、人類滅亡の危機が迫ってきた。とすれば、本源集団を破壊して終ったことが、人類の最大の誤りであった可能性が高い。ところが、西洋と東洋では本源集団の破壊度に大きな差がある。従って、この「文明」を見直す上で、西洋と東洋の違いがかなり重要なテーマとして浮上してくる。  
   
   人類最初の掠奪闘争がイラン高原の白人(コーカソイド)遊牧部族によって引き起こされ、それがモンゴル高原の黄人(北方モンゴロイド)遊牧部族に伝播していったことは既に述べたが、両者はその前身も、掠奪闘争の在り様も大きく異なっていた。コーカソイドはもとから狩猟部族でそれが遊牧に移行した人種であるが、北方モンゴロイドは、南方の平和な採集部族(南方モンゴロイド)が北方に移動して狩猟・遊牧に転じた人種である。乾燥期に入った頃、イラン高原にはもともと農耕・牧畜・遊牧などの諸部族が混在していた。しかも、イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥った。従って、遊牧派生の邪心集団による掠奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。従って、仲間を皆殺しにされて一人二人と生き残った者たちは憎悪と警戒心の塊となり、共認基盤を失って終ったことと相俟って、全面的にかつ強く自我収束する。そんな者たちが生き延びる為に寄せ集めの新たな掠奪集団を形成しては他部族を襲うという形で、数百年に亙って掠奪闘争が繰り返された。そんな生き残りの末裔が、西洋人である。それ故に、本源共認の基盤を根こそぎ解体して終った西洋人は、本源的な共認収束力≒集団収束力が極めて貧弱で、自我収束が極めて強い。しかし、自我だけでは共認を形成できない。そこで彼らは、専ら自我に基づく本源風の架空観念に収束し、架空観念で共認を形成する。  
   
   それに対して、モンゴル高原は見渡す限りの大草原であって、そこには同じ遊牧部族しかいない。加えて、イラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての本源性を強く残すことになる。東洋人は、概ねこの遊牧→掠奪の北方モンゴロイドが、採集→農耕の南方モンゴロイドを征服した混血であり、従って東洋人は小氏族(大家族)の本源性を色濃く残しており、西洋人ほど自我を肥大させていない。  
   この様な意識構造の違いは、夫々の思想の違いに典型的に現れている。同じ二六〇〇年前頃に、西洋ではユダヤ教(→その後キリスト教)、東洋では儒教が登場するが、西洋の観念信仰が自我に基づく極めて独善性・排他性の強い唯一絶対神を非現実世界に構築したのに対して、東洋の儒教は残された本源規範に基づく仁・義・信など、現実世界を導く関係規範に収束した。本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(架空観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかったのに対して、本源的集団と本源的共認が残存している東洋人の方は、本源規範を私権秩序と整合させることによって現実世界を律しようとした訳である。  
   
   本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。
~実現論より~

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人類滅亡から免れ得る資質が残されているとしたら、類い稀なる「縄文人的精神基盤」にあるという締めを読んで、ご祖先様に感謝しました。  😀

投稿者 norio : 2009年10月20日 List  

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コメント

>稲作そのものが私権社会の引き金になったというよりは、稲作をもたらした集団のありように私権闘争の引き金を求めた方が論理的には整合しているのではないかと考えます。<
 その方がしっくりきますね。そうなると、「私権闘争の引き金」がなんなのか?これまで培ってきた本源性を解体する程のものだけに気になりますね。

投稿者 ダイ : 2009年12月24日 20:23

>稲作そのものが私権社会の引き金になったというよりは、稲作をもたらした集団のありように私権闘争の引き金を求めた方が論理的には整合しているのではないかと考えます。
生産様式を取り入れたことによって、人の意識が変わるのはやはりおかしいと僕も思います。むしろ、人々が私権意識に移行してから、稲作が富の集中=税収の対象となったという方が整合します。
ダイさん同様、引き金が知りたいですねー

投稿者 さーね : 2009年12月24日 21:21

ダイさん、さーねさん、コメント有り難うございます
問題は私権闘争の「引き金」ですよね
1万年以上に亘って小集団での本源生活をしてきた縄文人が、僅か数百年で私権闘争へと転換していく為の引き金が何だったかと考えて見ました。
縄文人が主たる生活維持の手段として、それまでの狩猟・採集生産に較べて数段生産性の高い稲作を希求し短期間(数百年
)で稲作に転換しようとしたことは充分想像できますね。
実際そうなりました。
しかしだからといって私権闘争の原因(引き金)を生産手段の転換に求めるのは、やはり無理があると思います。
何故なら集団に共通の社会規範(共認)がこれ程の短期間(それまでの1万年に較べて)で劇的に変化するには、明治維新と同様外部からの強烈な圧力(干渉)が働かない限り発生し得ないのではと思われます

投稿者 ryujin : 2010年1月7日 22:59

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