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2008年05月01日

“縄文気質”を考えてみよう-2

“縄文気質”を考えてみよう-1に引き続き、今回も外国人から見た日本人像を紹介したいと思います。
20060619-00.jpg
今回も『ぼやきくっくり』さんの『外国人から見た日本と日本人の姿(1)~(5)』からお借りしました。
今回は前回よりもう少し新しい文献(1920年代~2006年)を紹介します。
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 ■キャサリン・サムソン=イギリス人。外交官の夫と1928年(昭和3年)~1939年(昭和14年)東京で暮らした。
「東京に暮す 1928~1936」より
 イギリス人が地味な服装を好むということは、イギリス人の性格を考えると納得がいきます。特に優秀な人は別として、イギリス人は謙虚さを好み、理想とします。従って自慢とか、謙虚さの無い知識のひけらかしを嫌い、そういう人たちを信用しません。
 この傾向は日本人になるともっと強くなります。だから自慢したり威張ったりする日本人に会うと、私たちの方が驚いてしまいます。
 日本人は非常に謙虚な国民で、慎み深い振舞いや言葉遣いがすっかり身についています。彼らも他の国民のように誇り高いのですが、自慢することを嫌います。日本人としての誇りを持ち、かつ外国人から学ぼうという謙虚な姿勢のために、日本は今日の世界の中で重要な位置を占めるようになったのです。

 ■ダグラス・マッカーサー=アメリカ人。日本占領連合軍最高司令官。
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1951年(昭和26年)5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた証言
 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。

 ■ラジャー・ダト・ノンチック=マレーシア人。南方特別留学生として日本で学び、戦後独立運動に参加。元上院・下院議員。1994年逝去。
「日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した ラジャー・ダト・ノンチックの半生記」(土生良樹)より
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった
アジアのどの国の誰にでも
自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
何千万人もの 人のなかには 少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない
でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや 不愉快さを越えて
おおらかで まじめで 希望に満ち明るかった

戦後の日本人は 自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
まじめに 自分たちの父祖や先輩は
悪いことばかりした残虐無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ
だからアジアの国に行ったら ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
そんな 今の日本人が 心配だ
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて くやしい思いがする
自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか
自分たちだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにする
こんな ひとたちと 本当に仲よくしてゆけるだろうか
どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ
1989年4月 クアラルンプールにて

 ■氏名不詳(インド 地下鉄公団総裁)
「とてつもない日本」(麻生太郎)前書きより
 平成十七(二〇〇五)年の暮れ、外務大臣としてインドを訪問する機会があった。首都ニューデリーに滞在中、できたばかりの地下鉄を視察したのだが、この時インドの方々からうかがった話が今でも忘れられない。
 この地下鉄視察が日程に組み込まれたのは、日本の政府開発援助(ODA)を使って建設されたものだからであった。私たちが訪ねた駅には日本とインドの大きな国旗が掲げられており、日本の援助で作られたということが大きな字で書いてあった。改札口にも大きな円グラフが表示され、「建設費の約七十パーセントが日本の援助である」と分かるように、青で色分けしてあった。その配慮に感激し、私は地下鉄公団の総裁に御礼の言葉を述べた。
 すると、逆にこんなふうな話をしながら、改めて感謝されたのである。
 ――自分は技術屋のトップだが、最初の現場説明の際、集合時間の八時少し前に行ったところ、日本から派遣された技術者はすでに全員作業服を着て並んでいた。我々インドの技術者は、全員揃うのにそれから十分以上かかった。日本の技術者は誰一人文句も言わず、きちんと立っていた。自分が全員揃ったと報告すると「八時集合ということは八時から作業ができるようにするのが当たり前だ」といわれた。
 悔しいので翌日七時四十五分に行ったら、日本人はもう全員揃っていた。以後このプロジェクトが終わるまで、日本人が常に言っていたのが「納期」という言葉だった。決められた工程通り終えられるよう、一日も遅れてはならないと徹底的に説明された。
 いつのまにか我々も「ノーキ」という言葉を使うようになった。これだけ大きなプロジェクトが予定より二か月半も早く完成した。もちろん、そんなことはインドで初めてのことだ。翌日からは、今度は運行担当の人がやってきた。彼らが手にしていたのはストップウォッチ。これで地下鉄を時間通りに運行するよう言われた。秒単位まで意識して運行するために、徹底して毎日訓練を受けた。その結果、数時間遅れも日常茶飯事であるインドの公共交通機関の中で、地下鉄だけが数分の誤差で正確に運行されている。これは凄いことだ。
 我々がこのプロジェクトを通じて日本から得たものは、資金援助や技術援助だけではない。むしろ最も影響を受けたのは、働くことについての価値観、労働の美徳だ。労働に関する自分たちの価値観が根底から覆された。日本の文化そのものが最大のプレゼントだった。今インドではこの地下鉄を「ベスト・アンバサダー(最高の大使)」と呼んでいる――。
 私はこの話にいたく感銘を受けた。
 地下鉄建設に携わった日本人技術者たちの仕事ぶりそのものが、優れた外交官の役割を果たしたのである。彼らはなにも、よそ行きのやり方をやって見せたわけではない。いつものように、日本で普通に行なっているスタイルで仕事をしたに過ぎない。しかしそれが、インドの人々には「価値観が覆るほどの衝撃」だったのだ。

 ■リタ・ゴーン=レバノン人。フランス国籍。日産自動車社長カルロス・ゴーン夫人。
 リシャール・コラス=フランス人。シャネル株式会社(東京)社長。

「文藝春秋」2006年9月号【ゴーン夫人とシャネル社長 ゴーン家の「夫操縦法」教えます】より
ゴーン
「(十七歳で日本に一人旅をしたというコラスに対し)どうしてまた、地球の反対側の日本を旅先に選んだのですか」
コラス
「本当はアマゾンに写真を撮りに行く予定だったのがダメになって、エールフランスの機長をしていた父に『日本は素晴らしい国だから行ってみれば』と勧められたんです。父の日本土産の根付とその包装紙に使われていた浮世絵が家にあって、昔からキレイだなと憧れてもいたんですね。それに、日本に行けば夢にまで見たニコンのカメラを安く買えるかもしれない、と(笑)」
ゴーン
「三十五年前の日本には、まだ外国人も少なかったでしょう」
コラス
「でも、あの頃の日本人は、英語は話せなくても心をこめて迎えてくれました。僕はあのとき、自分が“ガイジン”だという思いをした記憶がまったくない。出会う人、出会う人がみんな親切で『泊まる場所が決まってないなら、うちにおいで』『どこかに連れていってやろう』と言ってくれる。四十日間の旅で、ひと晩ユースホステルに泊まった以外は全部、日本の民家に泊めていただきました。夜行バスの後ろの席に座っていた青年に誘われて、彼の故郷の瀬戸内で盆踊りしたこともあった」
ゴーン
「その精神はいまも変わりませんよ。『日本人は閉鎖的で外国人に冷たい』とよく日本人自身も言いますけれど、私は声を大にして反論したい。日本人こそ本当の意味でオープンな人々です。海外では、話し相手の発音やイントネーションが違うだけで『分かろうともしない、聞こうともしない』人々をたくさん見てきましたが、日本では、日本語の出来ない私が何か伝えようとしても、皆さん一生懸命『分かろう』としてくれます。日本人ほど一生懸命、人の話を聞こうとする人々はいません」
コラス
「日本人の深い理解力、洞察力は、世界中を見渡してもほかにない美点ですよね。いま鎌倉に建設中の新居に、純日本風の離れを造っているんですが、日本の大工さんというのは職人であるとともにアーティストなんです。木材を選ぶのにも『この樹齢七百年の木の声を聴くんですよ』とおっしゃる。私は彼と話すたびに、その森羅万象に耳をすまし、理解しようとする態度に、日本文化の厚みを感じるんです。この深い理解力は、日本企業のビジネスマンの中にも生きているのではないでしょうか」

 ■イビチャ・オシム=旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、指導者。2006年、日本代表監督に就任。
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日経新聞2007年1月31日付インタビュー記事より
 千葉の監督になって驚いたことの一つが、負けチームにサポーターがブーイングではなく“次はがんばれ”と励ますことだった。どうもこの国には結果だけにとらわれない文化がある、ということに気づいた。
(中略)
日本に来てサッカー観が変わった。日本に感化され、同化したという意味ではない。それでは皆さんもつまらないし、私が監督をするメリットもない。ともに働きながら、日本人の面白さに感じ入った、ということです。何というか……日本のアンビバレントなポリバレント性に。民主主義を原則としながら天皇制があるみたいな。みんなを尊重するやり方といいますか。

どうですか?
最後のイビチャ・オシム氏の『アンビバレントなポリバレント性』と言うのは、なかなか上手いこと言うな~と関心しました。一言で言えば『柔軟性』ってことなんでしょうけど・・・。
これまで2回に渉って紹介してきましたが、段々とキーワードが絞れてきましたね。
次回はそのキーワードを纏めてみたいと思います。
ではまた

投稿者 mrran : 2008年05月01日 List  

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コメント

初めまして、アメリカ留学のブログを書いてる者です。今後の記事更新の参考にさせてもらいたいと思って見させてもらいましたけど、普通に楽しんじゃいましたw次の記事更新を楽しみにしてます☆応援してますのでポチッとしておきますw頑張って下さいね。

投稿者 アメリカ留学 : 2008年6月2日 13:37

こんばんは、
興味深い記事ですね。
>「私権成立には掠奪闘争と私有婚の2つの条件が必要」
>確かに争いはあったが、略奪闘争がきっかけになっていないのではないでしょうか。
確かに、メソポタミア→西洋のような皆殺しの略奪闘争は起こっている形跡がないようですね。
一旦略奪闘争がないと仮定すると、もう一方の婚姻制ってどのような状況だったのでしょうか?
(いきなり難しそうな質問ですみませんが・・・・)

投稿者 Hiroshi : 2008年6月2日 19:40

アメリカ留学さん
今後ともよろしく。当たり前ですが、新大陸はアメリカ(北米)だけではありません。中南米、南米とむしろ本来はこっちの方かも知れません。
アメリカ留学を目指す人にも本来のアメリカの歴史を知って欲しいと思います。
Hiroshiさん
>もう一方の婚姻制ってどのような状況だったのでしょうか?
(いきなり難しそうな質問ですみませんが・・・・)<
そうなんです。この辺が難しい。でも、一つ一つ押さえていきますよ。 こうご期待です。

投稿者 dokidoki : 2008年6月3日 13:04

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