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2013年12月08日

女たちの充足力を日本史に探る2~渡来人と進んで和合を求めた縄文女性~巫女の役割

 前回の記事で、定住化によって集団が安定し、そこで女性の充足力が育まれていったこと、そして女の充足力の基盤に集団があることを示しました。
 縄文時代1万年間に維持し、育まれた女性の充足性はその後、どのような道程を辿っていったのでしょう。当然、現在の日本人の中に残ってはいるのですが、弥生時代以降の、動乱の社会の中で、この女の充足力も時に利用され、時に後退し、徐々に男社会の中に見え隠れしていきます。
 これからのシリーズの展開はその過程を追いかけていく事になるのですが、初回は最大の動乱であった渡来人を迎える時の集団の意識、女たちの意識について見ていきたいと思います。
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 画像はこちらこちらからお借りしました。
 縄文時代は温暖化により植生が変化し、自然環境に恵まれた時代だったと言われています。つまり、それまでの狩猟時代に比べて飢餓の圧力が減少した時代に当たります。自然外圧を一定克服したこの時代の男女関係を見る上では実現論の下記のくだりが参考になります。弥生の女達を考える上でもこの時代をおさらいしておく事が重要です。

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実現論の一説より

 東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した。
 何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。

■縄文時代の男女のありかた
 縄文時代は総偶婚によって集団内の男女が分け隔てなく交わり合い、そこでは集団を破壊し、充足を妨げる自我を“完全に”封印したことが特筆されます。いわば、縄文の女とは集団と共にある事で安心も安定も充足も得る事ができたのです。
 中期には温暖化で集団規模も徐々に拡大していましたが、縄文晩期には急速な寒冷化に伴い移動、さらに集団そのものが解体、絶滅する危機に瀕します。弥生時代に登場する巫女の原型は、この外圧が厳しい晩期に登場した可能性があります。外圧低下と同時に自然への同化能力(シャーマン的能力)が徐々に失われていた縄文人は、晩期のこの危機を迎えて、集団の中で最も同化能力の高かった女性を集団の中心に据えて、彼女が聞いた自然の声に全体が導かれていったと考える事ができます。
■巫女の登場
 弥生時代初期には巫女という役割をもった女性が出現します。この巫女という存在は、縄文晩期のシャーマン的な存在の延長線上に位置すると考えられます。では、この巫女という存在は集団の中で、一体どんな役割を担っていたのでしょうか。
 弥生時代初期と言えば、春秋戦国時代での敗北者が、中国大陸や朝鮮半島から、次々と列島に漂着してくる時代です。つまり、先住民である縄文人と複数の渡来民が頻繁に接する時代であったと言えます。
しかし、このような時代であっても、弥生時代に目立った争いの形跡がないことから、これらの集団は何らかの方法で融合していったと考えられます。
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画像はこちらからお借りしました。
 しかし言葉も祖先も異なるこれらの集団がそう簡単に融合したとは思えません。中には武力をちらつかせて制圧しようとした渡来の民もいたでしょうし、見ず知らずの渡来民が来て山奥に逃げ延びた縄文集落もいたでしょう。当然小さな争いは起き、殺し合いはあったと思われます。
 しかし、渡来民が伝えた生産手法、稲作技術だけは互いの利益に適い、やがて大きな集団を作った一派が水争いを制圧し、クニを形成します。そういった中で弥生時代の最大の課題は渡来民と縄文人が争わずに一つになる事でした。
 これらが融合する為に用いられたのが婚姻でしたが、そこでは「誓約」という概念が作られ、その誓約を導く存在が巫女だったのです。
■「誓約」とは
 
 誓約とは性交を通じて民族の和解を忠誠するという概念です。
るいネットにそれをわかりやすく書いた記事がありましたので併せて紹介しておきます。

日本民族の精神の根底にある「誓約(うけい)」という概念。
相手を否定し征服するのではなく、相手を受け入れ和合する事でその安寧を保ってきた日本人のこの精神は、略奪闘争から隔絶された島国ゆえに醸成された独特の文化です。一つの国家内に様々な部族・民族が存在する状況は世界的に見て珍しい事では有りませんが、和合と同化、共同性をもって統合を成し遂げてきた日本のこの考え方はきわめて独特、かつ人類としての普遍性を持っています。「性」を中心に据えた力に頼らない集団統合、この発想の柔軟性には見るべきものがあると思います。

 縄文時代を通じて総偶婚で培った「分け隔てなく」という部分と、晩期の女性シャーマンによって強固になった集団内での女の役割意識、それらが相まって誓約、巫女を生み出したのではないでしょうか。
■渡来人と進んで和合を求めた縄文女性
 異民族の男を受け入れ、その子供を作ること、誰がその任を担うか話し合われたと思いますが、きっと女性の側から、それもリーダー格から進んで役割を買って出たのではないでしょうか?そして縄文集団を組み込みたい、融合したいと念じていた渡来民にとっては、まさに名乗り出た彼女の存在は神々しく女神にすら見えた事かもしれません。
 この時代の巫女の存在を、異集団を融合する為に男側が女性を利用したと見ることもできますが、集団が大きくなり、さらに言語すら通わない異民族を、武力を用いずに統合する上で、必要不可欠な存在として登場した皆に求められた役割ではなかったかと思うのです。
 時代はかなり後になるかもしれませんが邪馬台国の卑弥呼の共立とはまさに求められた結果としての巫女の存在を示していると思います。
「魏志倭人伝」から

倭国の邪馬台国は元々男王が治めていたが、国成立から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。

248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

 巫女とは徹頭徹尾集団の為に存在し、その中心に「性」があった。これはまさに縄文的充足力が弥生時代を通じて活きていた事を示していると思われます。そして神社ネットワークを通じて、巫女は長らく日本の支配者、庶民の狭間に存在し、その役割を変えながらも広く長く繋がってきたのです。
注:神社ネットワークについて別シリーズで詳しく記事にしていますのでそちらをご覧ください。「神社ネットワークの解明」5~神社ネットワークの誕生~

投稿者 hi-ro : 2013年12月08日 List  

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