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2011年07月02日

縄文晩期とはどのような時代か?~はじめに~

最近の縄文ブログはあまり縄文時代をやっていない!というクレームが聞こえてくるとか来ないとかで今回は久々に縄文時代に焦点を当てたシリーズとしていきたいと思います。
そこで今回の時代ターゲットは縄文時代と弥生時代の境界域を扱っていきます。実はこのシリーズの後に予定しているのが弥生時代以降の日本の支配者の歴史です。今日はその問題意識を扱い、さらになぜ縄文晩期なのか?というところまで(ちょっと強引に?)辿りついて行きたいと思います。
katumoto69.jpgこちらよりお借りしました。
それでは、縄文晩期が気になる方、応援お願いします。
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仮説:日本の支配者の意識

日本も朝鮮半島も巨大帝国中国の存在の元、朝貢関係を結ぶ事で中国からの直接支配を回避し独立国として存在してきた。朝鮮、日本の支配者は歴史貫通的に属国意識に染まっていたのではないかというのが先日のなんでや劇場で提起された基本構造である。この属国意識に捉われ、その意識が支配者の底流にあるが故に日本も朝鮮も非常に窮屈で卑屈な歴史を繰り返してきた。
日本に曳き付ければ奈良時代の中国風の国家建国がそうであり、また明治維新以降に一気に進んだ西洋化がそうである。また、太平洋戦争で敗戦したとはいえあっという間に今度はアメリカ化し、日本の共同性は失われていく。これら大衆の側で見れば柔軟で受け入れ体質に飛んだ縄文気質とも見て取れるが、あっという間に時の強国の配下に組み込まれていく日本の支配者の意識は歴史的に一貫しており、その底流には朝鮮半島から流れてきた敗者故のあるいは弱者故の属国意識があり、それは現在においても変わることなく支配者固有の特性を形成しているのではないかという仮説である。
この仮説が正しければ今後共、日本の政治的リーダーは変わることなく、属国となる明確な軸が失われた現代ではより混迷を深め、収束先を失い蛇行しはじめることになる。その危機的な状況が現れ始めたのが民主党になってからの蛇行政権であり、さらに現在の原発問題というこれ以上ない重要な課題を前にして繰り返さされるお家騒動である。

属国意識をなぜ解明する必要があるのか?
その意味で属国意識とその後形成されたそれぞれの国家の歴史との関係をこれから検証的に見ておく必要があります。歴史上の出来事やその因果関係が朝鮮、日本に共通的な支配者の属国意識という視点で説明すると、どう繋がっていくかという試みです。
これを朝鮮半島、日本、中国とこの3国の関係を軸にそれぞれの国の歴史がどう動いてきたのかを大きくは以下のシリーズでそれぞれの国の位置から見ていきたいと思います。
①継続シリーズ「日本の支配者の意識構造を解明する」~朝鮮半島からみた日本の支配史
②新規シリーズ「日本人の支配者の属国意識と大衆のお上意識」
今回の縄文晩期を探求する意味は上記のテーマを追いかける前の状況を改めて押さえておきたいという問題意識です。
日本は教科書的には縄文時代から弥生時代に稲作や銅器、鉄器の渡来、さらに大量の渡来人と共に急激に社会が変化したとされています。単純に言えば物と人が大量に大陸から持ち込まれ縄文人はそれに飲み込まれて社会もろとも変化したという見方です。その根拠になっているのがこの時代の人口分布の地域の移動や人口増の数字に表れる渡来人の影響です。縄文晩期から弥生時代にかけて人口は10倍に拡大、それまで東日本中心だった人口密集地は一気に西日本に移動、西から伝わった稲作文化と共に弥生社会が形成されていき、全国に拡大したという史観です。
縄文晩期は縄文と弥生を繋ぐ過渡期
果たしてそうであったのか?
2003年、北九州の土器の調査から稲作跡が確認され、弥生時代が500年早まるというニュースがありました。
「500年早まる弥生時代?」これによって弥生時代の始まりはそれまでの2300年前から2800年前に書き換えられ、縄文晩期と言われていた3000年前から2300年前の期間は九州地方ではほとんど弥生時代に組み込まれる考え方が拡がってきました。
しかし、見方によっては縄文時代から弥生時代へと移行する縄文―弥生の中間期が500年間あったという見方もできます。或いは縄文晩期そのものが弥生時代へ転換する準備期間であったという見方もできるかもしれません。縄文時代から弥生時代は一気に変わったのではなく、この縄文晩期を介在させて緩やかに変化したという見方に立って検証してみる事で何か見えてこないのでしょうか。
縄文晩期の社会の変化が弥生以降の文化を受け入れる基盤になっていた。そう考えると この時代の解明はその後の社会を見ていく上で重要になってくると思うのです。
縄文晩期に何が変わったのか?
縄文晩期は縄文後期である4000年前から始る列島の寒冷化に伴う人口後退期です。
この4000年前から2500年前の約1500年間というのは実は大陸の中国でも大きな変化のあった時代です。またちょうど3000年前、朝鮮半島の白頭山の歴史的大噴火によって朝鮮半島から日本列島の東北地方にかけて大きな環境変化を迎えています。
非常に厳しい自然環境に見舞われたこの1500年間の外圧は東アジア全域に変わらず加わった圧力であると見ることができます。当然縄文時代という豊かな環境にあった日本においてもそれは変わらず、戦争こそ起こさないまでも次々と集落が壊滅し、その中で生き延びる為にさまざまな変化が縄文社会にも訪れた事は想像できます。
それが稲作の発展であり、渡来文化への依存であるわけですが、そこに至らないまでもそれ以前の縄文社会がもっていたものが相当変化していたとすればそれは何なんだろうか?その始まりはどのような形で認められるのだろうか?それは土器の形なのかもしれないし、墓の形態かもしれないし、或いは生産様式の変化かもしれない。さらに精神世界そのものである神話や祭祀の形態に現れているかもしれない。
それらを3000年前という時代を中心に追いかけてみようというのが今回の問題意識なのです。
探求の進め方
いつものように精鋭の探求メンバー5人でこのシリーズを繋いでいきます。今回はミニシリーズという事で以降の6回で完結させていく予定です。
1.外圧状況を探る
2.渡来民の動きを追いかける
3.追い詰められた縄文人の精神世界とは
4.社会構造は変わったのか?
5.弥生時代に大量渡来はあったのか?
6.縄文晩期とはどのような時代か?

縄文晩期は果たして弥生時代の準備期間なのか?その答えはまだありません。
この6回のシリーズの最後で明らかにしていきたいと思います。ご期待下さい。

投稿者 tano : 2011年07月02日 List  

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コメント

遊牧民は農民たちを支配すのが至難の業だ。
一時的に農業区に攻め込んでも長く続かない、やがて同化されていった。
風のような民、それは遊牧民国家の宿命なので中国は遊牧民によって作った国だとは中々言えないと思う
古くから南船北馬という言葉があったように交通工具は南に船で、北に馬で使っていた。中原というのは水運と陸運の要所として貿易が栄えたところだ。遊牧民はお茶と塩と穀物を購入して家畜と交換する。つまり遊牧民として交換と貿易が不可欠なものだと思う、中原王朝は貿易が絶つと遊牧民が存亡の危機に晒されるから戦争を起こす、それはいまの世界と同じ構造だと思う。

投稿者 匿名 : 2012年1月23日 15:15

>遊牧民は農民たちを支配すのが至難の業だ。
一時的に農業区に攻め込んでも長く続かない、やがて同化されていった。
風のような民、それは遊牧民国家の宿命なので中国は遊牧民によって作った国だとは中々言えないと思う
このような意見はどのような史実に基づいておられるのでしょう?もし何かありましたらお示し下さい。
遊牧民は騎馬民族となって以降は組織を形成する方法を巧みに作り上げます。また、元来、動物を管理する事を生業にしている遊牧民は同じ手法を使って支配という方法論を早くから見つけ出します。それは農民が共同で生きている手法を早くから作り上げたのと同様に遊牧民が生きる為の方法論だったのでしょう。人を支配する事が生きる為の方法論だった遊牧民。
だから、決して風のような民ではないと思います。

投稿者 匿名 : 2012年1月23日 23:17

匈奴、キタン、柔然、突厥、モンゴルなどの国は200年以上に持たないという史実をご存じていると思うがなぜ反問するかわからない。
家畜管理手法から人間統治に直結する論法は尚更出鱈目だと思う、だから中国思想史などの勉強が必要だと思う、部屋の中の空想は止めてほしい。
黄帝と老子の思想は黄老思想と呼ぶ、それは無為という統治思想、法家、儒家などと同じく中国統治思想の基本になると思うがどれのどこは遊牧民思想なのか?まったく説明にならない。

投稿者 匿名 : 2012年1月24日 01:29

ご指摘ありがとうございます。
>匈奴、キタン、柔然、突厥、モンゴルなどの国は200年以上に持たないという史実をご存じていると思うがなぜ反問するかわからない。
確かに200年程度の長さを短いとするか長いとするかは見方の問題ですね。私は十分に長いと思いますが・・・。
遊牧民国家で最大の短さが隋や秦です。一気に中国をまとめた大国がわずか数十年で終わります。
また、貴方が言うようにモンゴルの帝国は確かに短い。
遊牧民国家が並べて決して長続きしないというのは確かにその通りかもしれませんね。ただ、中国を遊牧民国家とするか、遊牧民が農耕民を支配して実質生産の部分は農耕なので農業国家とするかは微妙な話だと思います。
私がこの記事で明らかにしておきたかったのは、あくまで上に立つ支配者層は中国の場合(また日本の場合も同様かもしれない)は遊牧民の思想体系をもった遊牧民上がりの氏族が立っていたことです。
それについて、異論があれば史実を教えてください。

投稿者 tano : 2012年1月27日 16:35

秦の祖先一族は周王の牧馬人だった(史記による)、この意味では遊牧民出身だと言われても異議がない。しかし秦を変貌させた商鞅と呂不葦の思想は果たして遊牧民思想なのか?井田制の法家と呂氏春秋に集まった思想の多くは天の変化、四季の規律など明らかに農業思想だと思う。
近年の紅山文明の研究では意外に8000年前の内モンゴル地区は農業区だった(温暖期)、そこの人々は中原に進出して黄帝伝説と合致する。思想の源流を辿ればまず生殖信仰(女性)~祖霊信仰~首領信仰~龍信仰の流れだと思う。もちろん商人の思想、遊牧民の思想もある程度存在するだろうけどそもそも
国が出来た以前はお互いに交流もあって身分転換も出来るはず。
まあこういった遊牧論はあくまでも自分は結論を出してそれから都合いい材料で証明していく手法ですから主観性があまり強いから反論するわけ

投稿者 匿名 : 2012年2月1日 17:42

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