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2010年07月12日

縄文集落を解明する第2回【縄文を学ぶ位置づけー4】

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☆第1回では縄文時代に見られる環状集落と、この時代の婚姻様式が父系と母系が入り混じった双系社会であったことの相関性について仮設が提示されました。
第2回は環状集落の発展と衰退の事例とその要因について書かれた記事を紹介します
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☆記事は「環状集落(2):発展と衰退」からです

環状集落の成立は6300年前、早期末から前期初頭の関東・中部地方が発端ですが、その後、気候の変化や海進・海退などの環境変化の影響を大きく受けつつ、長いサイクルで発展と衰退を繰り返しているようです。
神奈川県横浜市港北ニュータウン遺跡の例を追って見ましょう。約5500年前の前期中葉に最初の環状集落の発達が見られます。(中略)ちょうど縄文海進のピーク期にあたります。水産資源に恵まれたことによって、人口が急増したと言われています。(中略)

このあと中期初頭まで、小集落が点在するだけという凋落が続きます。そればかりか、南関東全域から貝塚と集落が消滅。海退による海産資源量の激減が打撃となった、というのが単純に考えつく理由ですが、実態は謎です。
中期中葉の4500年前、再び環状集落はめざましい発達を遂げます。中期後葉にかけては、わずか25平方キロに60の集落遺跡と1300軒以上の竪穴住居跡が見つかっており、大規模な環状集落だけでも14に及ぶという大変な人工稠密ぶりです。前期末と比べると100倍以上に人口が増加したという試算もあります。

ところが中期末になると、またも低迷期に入り、環状集落は解体され、小規模集落に分散しますが、これも関東・中部全体に共通する現象です。人口激減の理由はここでも謎のままです。
最後に環状集落が復活するのが後期前葉から中葉にかけてです。ここでの特徴は、墓群がある中心部に、一般住居とは異なる大規模な住居が見られることです。(中略)このあと環状集落が再び栄えることはありませんでした。

もう一つ他の遺跡の事例です

福島県福島市岡島にある縄文時代の遺跡である宮畑遺跡でも、縄文時代中期(約4,500 – 4,000年前)、後期(約4,000 – 3,000年前)、晩期(約3,000 – 2,500年前)の3つのムラ(集落)の跡が複合している。晩期のムラ跡からは、掘立柱建物が円形に配置されている遺構が検出されたが、其々の時代の連続性は確認されていない。

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またかの有名な三内丸山遺跡については、こういう意見もあります

発掘以来縄文時代の巨大遺跡として有名になった三内丸山遺跡の集落規模についても、500人以上の集団が1000年以上に渡って暮らしていたとの見方も有りましたが、それについては異論が多く、500人は多すぎるという意見が多い。


・当時の自然外圧の大きさから考えても、500人以上の集落が1000~1500年に渡り継続したと考えるには無理があり、やはり盛衰を繰り返したと考える方が事実に近いと思われます。
☆それでは何故縄文の(環状)集落はこのように盛衰を繰り返したのでしょうか?
それについて、考察した“>記事を紹介します。盛衰の原因「前期末の衰退は、やはり「海退」によるものであり、盛衰ともに自然外圧という外的要因が主因であった。これに対し中期末の衰退は、気候条件の変動を背景としながらも、集落規模がある臨界点を超えたため、集落間、または集落内の同類圧力を止揚するシステムがうまく機能しなくなった、などの内的要因・社会的要因が絡んできているように思われます。」
別の見解を紹介します。「前期の衰退、もう一つの視点「この時期の遺跡から発見される漁労具は多少増加しているけれど、生産具に占める比重は支配的ではないとのこと。つまり、水産資源の開発・依存が大幅に強化されたという考古学的痕跡は観察されていないのです」
「集団の移動と離合集散そして自由な領域開発・多様な資源利用(代替資源への振り替えを含む)を前提とした「開放系のシステム」が、柔軟性を欠いた「閉鎖的なシステム」に変質していたことが第一の要因で、海退は衰退のきっかけになった、あるいはそれに拍車をかけたという面はあっても、直接の原因ではないというのです。」


☆つまり、集落(集団)の盛衰が自然外圧の変化に大きく左右されるのは異論の無いところですが、人間集団の場合には、その集団統合を維持する「
共認機能」のありようがその集団の拡大規模に大きく影響しているのではないかとの指摘です。
縄文時代は約1万数千年の長い間続いたといわれています。基本的な生業は採集漁労であり、一部には栗の栽培等自然に対する加工の形跡も見られますが、大半は自然の恵みをそのまま享受する生活であり、一つの集落の規模はせいぜい数十人単位と考えるのが妥当でしょう。
しかし、三内丸山や上野原遺跡のように大規模な集落も形成していた(異論はありますが)と言うことは、ある恵まれた食糧環境の下では一時的にせよ数百人規模の集落も可能であったかも知れません。
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しかし、経験的にも数十人と数百人ではその集団に要求される統合力はまるで異なると思われます。
数百人規模が定住するとなれば恐らくある程度の小集団毎の役割分担も発生したであろうし、もめごとを調整する集団統合機能が必要になったと考えられます。
統合力=共認力とすればこの時代の共認力はなにを核にして成立していたのかが興味の湧くところです。
三内丸山のように「場違い」に大きい構築物もその共認を図るためである可能性が高い。
縄文は奥が深く興味が尽きません。

投稿者 ryujin : 2010年07月12日 List  

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コメント

>万葉仮名の発見から、「漢字」と「ひらがな」のドッキングまでに、約500年を費やしています。
日本に漢字がもたらされたのが、1~2世紀ごろと言われていたと思いますが、とすると日本人が漢字を見てから7世紀頃の万葉仮名の発明まで5~600年かかっていることになります。
すると漢字伝来から、現在の日本語の表記方法に至るまで千年くらいかかっていることになりますね。
通常文字は、支配→租税徴収のためというところが世界では多いと思いますが、日本ではゆっくりと時間をかけて、潜在思念と結びつけながら吸収していったのですね。
またそれだけ、古代日本語(縄文語?)は話ことばとして確立していたとも考えらます。異物の漢字を千年かけて飲み込んだ感じもします。

投稿者 Hiroshi : 2010年10月9日 14:10

以前、私は大学の第2外国語で中国語を選択して学んだ経験が少しだけあるのですが、動機は単純で、漢字を使う外国語ならドイツ語やフランス語より楽に単位が取れるだろうという邪心の計算からでした。
で、勉強した経験からわかった事は、中国語と日本語は漢字という記号は同じでも文法も語彙も全く異なるという事です。
単位は無事取る事ができましたが、私にとっては中国語は決して容易いものではなく、未だに中国語の漢字の嵐(列記)を目にすると怯んでしまいます。
それくらい日本語と漢字の本家中国語は似ても似つかないモノになっているのだと思います。
いわば、漢字という記号を使ってそれまでの日本語を記録できるように総意工夫したのが日本語獲得にいたる格闘劇だと思います。いずれにしても500年という期間は言葉という観念領域の共認形成を計る上で必要、適正な期間と理解していおいたほうがよいかもしれません。
しかしそれを手にした日本はその後、飛躍的に文化を作り出し世界に冠たる文字立国になっていきました。この漢字の日本語への編纂力は日本人の持つ高い能力であると密かに自負したい歴史ですね。

投稿者 tano : 2010年10月9日 14:36

Hiroshiさん
こんばんわ。
白川静説ですが、
文字は、国家統合の必然=異民族統合の必然が
生じたところに誕生する、というのがあります。
慧眼!
日本には、長らく文字をつくりだす必然がなかった、
異民族は入ってきたが、征服→統合ではなく、
共存共栄だったのではないか、それが伝達手段
としての文字誕生に時間が要した理由ではないか?
と思います。

投稿者 うらら : 2010年10月9日 22:19

tanoさん
こんばんわ。
中国語が肌に合わなかったということですね?
カクカクした文字が果てしなく続いていると、
それだけで読む気が失せますよね。
漢字とひらがな・カタカナの組み合わせこそ、
日本人が誇るべき「大発見」だと思います。
ところで。
>総意工夫
う~む。
せっかく漢字の記事へのコメントなので、
間違えないでくださいネ。

投稿者 うらら : 2010年10月9日 22:31

うららさん、がんばっておられますね。
世界に誇れる日本の国語。大いに賛同したいのですが、掲示していただいた「史記」と「徒然草」をすらすらとは読めないワタクシは、日本語の将来に希望はあるか?となると、気持ちを上向きにはできないのです。
たしかに、過去の変革期には、万葉集から明治の言文一致運動まで、上も下も一斉に取り組んで、成功しました。
外から襲いかかってくる巨大な文明を受け入れて、みずからを変容させながらも感性の領域には免疫システムを働かせて、「自我(←皆さまの大嫌いな言葉)」を護ったんですね。
次回は江戸中期の国学とのこと。最後の女性天皇の後桜町天皇の時代ですね。その甥の後桃園が若くで亡くなったので、傍系の光格天皇が出てくるわけでして、古代の継体出現と「意識の連鎖」が起こったのでしょう。ま、「意識の連鎖」は団体さんが使うと危ないので、自己責任ということで、濫用は避けます。
とりあえず、うららさんの元気をもらいたい。

投稿者 タツ : 2010年10月10日 14:19

タツさん、
いつもながらのヒネリの効いたコメント
ありがとうございます。
水村美苗さんは、その大著「日本語が亡びるとき」の
中で、
日本では平安時代に一時科挙制度を導入しようとしたが、
長続きせず、この失敗が結果的には幸いした。
日本は科挙制度から自由であったがゆえに、
二重言語者の男たち、しかもことに頭脳明晰な男たちが、
漢文の優秀な使い手となるための熾烈な競い合いを
繰り広げる必要がなかったからである。
日本の二重言語者の男たちは<普遍語>で読み書き
しながらも、自然に<現地語>でも読み書きする
ようになった。
というようなことを著しておられます。
その恩恵を被っている現代人、日本語を大事にして
いきたいデスネ。
国学は、やはり正攻法=本居宣長からかな~、と
思っていますが・・。どうなることやら・・。
オタノシミニ!

投稿者 うらら : 2010年10月12日 21:04

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