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縄文集落を解明する第2回【縄文を学ぶ位置づけー4】

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☆第1回では縄文時代に見られる環状集落と、この時代の婚姻様式が父系と母系が入り混じった双系社会であったことの相関性について仮設が提示されました。
第2回は環状集落の発展と衰退の事例とその要因について書かれた記事を紹介します
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☆記事は「環状集落(2):発展と衰退 [3]」からです

環状集落の成立は6300年前、早期末から前期初頭の関東・中部地方が発端ですが、その後、気候の変化や海進・海退などの環境変化の影響を大きく受けつつ、長いサイクルで発展と衰退を繰り返しているようです。
神奈川県横浜市港北ニュータウン遺跡の例を追って見ましょう。約5500年前の前期中葉に最初の環状集落の発達が見られます。(中略)ちょうど縄文海進のピーク期にあたります。水産資源に恵まれたことによって、人口が急増したと言われています。(中略)

このあと中期初頭まで、小集落が点在するだけという凋落が続きます。そればかりか、南関東全域から貝塚と集落が消滅。海退による海産資源量の激減が打撃となった、というのが単純に考えつく理由ですが、実態は謎です。
中期中葉の4500年前、再び環状集落はめざましい発達を遂げます。中期後葉にかけては、わずか25平方キロに60の集落遺跡と1300軒以上の竪穴住居跡が見つかっており、大規模な環状集落だけでも14に及ぶという大変な人工稠密ぶりです。前期末と比べると100倍以上に人口が増加したという試算もあります。

ところが中期末になると、またも低迷期に入り、環状集落は解体され、小規模集落に分散しますが、これも関東・中部全体に共通する現象です。人口激減の理由はここでも謎のままです。
最後に環状集落が復活するのが後期前葉から中葉にかけてです。ここでの特徴は、墓群がある中心部に、一般住居とは異なる大規模な住居が見られることです。(中略)このあと環状集落が再び栄えることはありませんでした。

もう一つ他の遺跡の事例です

福島県福島市岡島にある縄文時代の遺跡である宮畑遺跡 [4]でも、縄文時代中期(約4,500 – 4,000年前)、後期(約4,000 – 3,000年前)、晩期(約3,000 – 2,500年前)の3つのムラ(集落)の跡が複合している。晩期のムラ跡からは、掘立柱建物が円形に配置されている遺構が検出されたが、其々の時代の連続性は確認されていない。

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またかの有名な三内丸山遺跡については、こういう意見 [5]もあります

発掘以来縄文時代の巨大遺跡として有名になった三内丸山遺跡の集落規模についても、500人以上の集団が1000年以上に渡って暮らしていたとの見方も有りましたが、それについては異論が多く、500人は多すぎるという意見 [5]が多い。


・当時の自然外圧の大きさから考えても、500人以上の集落が1000~1500年に渡り継続したと考えるには無理があり、やはり盛衰を繰り返したと考える方が事実に近いと思われます。
☆それでは何故縄文の(環状)集落はこのように盛衰を繰り返したのでしょうか?
それについて、考察した“>記事 [6]を紹介します。盛衰の原因「前期末の衰退は、やはり「海退」によるものであり、盛衰ともに自然外圧という外的要因が主因であった。これに対し中期末の衰退は、気候条件の変動を背景としながらも、集落規模がある臨界点を超えたため、集落間、または集落内の同類圧力を止揚するシステムがうまく機能しなくなった、などの内的要因・社会的要因が絡んできているように思われます。」
別の見解を紹介します。「前期の衰退、もう一つの視点「この時期の遺跡から発見される漁労具は多少増加しているけれど、生産具に占める比重は支配的ではないとのこと。つまり、水産資源の開発・依存が大幅に強化されたという考古学的痕跡は観察されていないのです」
「集団の移動と離合集散そして自由な領域開発・多様な資源利用(代替資源への振り替えを含む)を前提とした「開放系のシステム」が、柔軟性を欠いた「閉鎖的なシステム」に変質していたことが第一の要因で、海退は衰退のきっかけになった、あるいはそれに拍車をかけたという面はあっても、直接の原因ではないというのです。」


☆つまり、集落(集団)の盛衰が自然外圧の変化に大きく左右されるのは異論の無いところですが、人間集団の場合には、その集団統合を維持する「
共認機能 [7]」のありようがその集団の拡大規模に大きく影響しているのではないかとの指摘です。
縄文時代は約1万数千年の長い間続いたといわれています。基本的な生業は採集漁労であり、一部には栗の栽培等自然に対する加工の形跡も見られますが、大半は自然の恵みをそのまま享受する生活であり、一つの集落の規模はせいぜい数十人単位と考えるのが妥当でしょう。
しかし、三内丸山や上野原遺跡 [8]のように大規模な集落も形成していた(異論はありますが)と言うことは、ある恵まれた食糧環境の下では一時的にせよ数百人規模の集落も可能であったかも知れません。
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しかし、経験的にも数十人と数百人ではその集団に要求される統合力はまるで異なると思われます。
数百人規模が定住するとなれば恐らくある程度の小集団毎の役割分担も発生したであろうし、もめごとを調整する集団統合機能が必要になったと考えられます。
統合力=共認力とすればこの時代の共認力はなにを核にして成立していたのかが興味の湧くところです。
三内丸山のように「場違い」に大きい構築物もその共認を図るためである可能性が高い。
縄文は奥が深く興味が尽きません。

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