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2008年07月10日

縄文の精霊信仰~山岳信仰

今日は、縄文人の精霊信仰を探求してみようと思います。
なんで、自然を対象化したか?
原初的山岳信仰の変遷より、抜粋して探求していきましょう
P61800171.jpg
岩石信仰は現代でも残っている
byさーね
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では、当学問が果たすべきなのは(「信仰」の中でも細別化された)岩石信仰というわけなのですが、それには山岳信仰の問題が切って離せない関係にあります。岩石信仰の淵源は、縄文早期の集石土壙墓の出現あたりから、石に対する特別視が見られるといわれていますが(小野1982)、では、山岳信仰の淵源はいつ頃から見出せるのでしょうか?

 いまだ間接的に推測することしかできないのですが、山岳信仰の初源は縄文中期の頃ぐらいから見え隠れしています。例えば、静岡県富士宮市上条の千居遺跡では、東北にそびえる富士山を明らかに意識した、大掛かりな配石遺構が出土しています。富士山に向かって何重もの列石遺構が並んでおり、ランドスケープ的にも富士山が神聖視されていた可能性は、相当信憑性が高いと言われています。

 

縄文時代における山岳信仰の姿は、概ね平野部において祭祀場を作るという形態で、信仰対象と思われる山岳は、祭祀場から遥か離れた、しかし望視できる位置にあるという形態が多かったようです。山頂の当然のこと、山中に祭祀場らしき遺跡が形成されるということはこの当時にはなく、ほとんどの場合が山岳部とは別個の平野部に分布していました。

…(中略)…

 縄文時代などでは、当時の人々が峻厳な山々を踏破することは至難であり、登ろうものなら決死の覚悟だったことでしょう。そもそも、そこまでして登る必要性に迫られてもいなかったと思います(居住地移動など、差し迫った稀なケースを除き)。
 よって人々は山岳へみだりに登ることはなく、それは次第に、人々へ「山岳が危険で恐ろしい場所である」という漠然なイメージを与えるに至りました。なので、人々は山岳を恐ろしい(畏れ多い)場所とみなして、それを畏怖しました。そう、まず人々は山に「畏怖・畏敬する」ことから始まったのです。いわば、これが人々の抱いた最も原初的な山岳信仰の姿だと思います。

 縄文人はそのうち、万物に生命の働きがあるというアニミズムの観念を成立化していきます。その時、人々に、時には火山噴火などで被害を加えたり、そうでなくとも山の近くで起こる天気の移り変わりや自然の驚異などは、当時の人々に「恐ろしい神霊の存在」を抱かせるにたやすかったと思います。ここから、縄文時代における山岳信仰は漠然ながらスタートしたとみなして良いでしょう。

僕自身も小さい頃「山は危険で怖い場所」という感覚を持った記憶があります。ただ、怖いのですが否定視みたいな感覚はありませんでした。
ここは、物証や根拠はありません。ただ、僕らの実感は縄文人のアニミズムに合っていると思います。
PS:次回も続きを投稿したいと思います。

投稿者 sawatan : 2008年07月10日 List  

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コメント

興味深い説ですね。
再葬は日本でも3~5年後だったのでしょか?
その人の代わりの役割を担う者も育った。もう集団の心配はいらないよ。安心してね。
そういう意識になる頃なのでしょうかね(^^)。

投稿者 さぼてんの花 : 2008年8月12日 19:43

再葬について
再葬は遺骸を仮に埋め、あるいはそのまま洞窟などに放置し、肉と皮が消滅して骨となってからこれをまとめて埋葬したり壺や甕や石棺などに入れて埋める方法である。特に縄文後期から晩期に多い。但し早期にも事例があり、かなり早くから取り入れられていた様式ではないだろうか。
また縄文後期ー晩期には合葬という形も多く見られた。
合葬は成人と子供の骨が同じ場所に埋められるものである。
面白いのは東北地方では男ー小児が多いのに対して九州では女ー小児の結びつきが強いこと。
~以上、日本考古学概要より抜粋
再葬が何のために行われたのか?合葬が何のために行われたのか?さーねさんが言うように再生への祈りだったのか、あるいは安全衛生面の観点からなのか?まだまだ追求していきたいテーマです。

投稿者 tano : 2008年8月13日 17:50

 再葬墓は 熊野の地では 火葬が奨励される前、土葬が行われていた30~40年前まで 一般的に行われておりましたよ。
自ずと土に返ってゆくということが・・ 第一義でしょうが。
決して 人為的に・人工的に 焼いてしまうのではなく。
 再葬墓は 単純な原因があります。
 おんなじ墓地内に再葬墓があったために 再葬しないことには、墓地があっという間に 一杯になってしまいます。
 火葬という行為は 縄文を受け継ぐものには なじみ難かったんでしょうね。
 それ以上に・・・ 
> 再葬墓は、中里遺跡の出現以降に急速に姿を消す。同遺跡はそれまでの関東にない大規模な環濠(かんごう)集落で、この地域の弥生化が劇的に始まったことをうかがわせる。
さらに、瀬戸内東部で作られたと推定される弥生土器の破片が出土。発掘にあたった玉川文化財研究所は「土器70~80個分に相当し、瀬戸内の集団が移住して持ち込んだ」と話す。
 このことが気に掛かります。
 最近 さきたま遺跡群が話題を呼んでおりますが・・・
 中里遺跡の出現・・・ 再葬墓を執り行ったものが 忽然と居なくなる。
 この時期に 瀬戸内東部から 移り住んだものたちは、どういう民族で、何を目的として関東にやってきたのか・・・
興味深いものが感じられます。
よほど 魅力的なものが この地域にはあったんでしょうね!太郎

投稿者 太郎 : 2008年8月13日 19:30

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