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2010年04月02日

縄文時代の外圧って何?

「縄文体質って何?」シリーズ、第二回は、「縄文時代の外圧」について考えたいと思います。
 よく、縄文時代は総じて豊かな時代と言われますが、下のグラフで判るように、気候変動が激しく、中期(5千年~4千年前)に約26万人に達した人口が、晩期(3千年~2千5百年前) 約7万6千人にまで減少しています。
 このグラフを見るだけでも、決して安定した生活を送っていたわけではなく、厳しい外圧と闘っていたことが容易に理解できます。


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一,大陸から切り離された地理的状況が縄文人を形づくった。
 まず縄文時代初期の日本が置かれた地理的状況をを抑えておきたいと思います。

 このころ(洪積世初期およそ1万年まえ)の日本の地にはすでに大陸とつながりはきれて四方を海にかこまれた列島になっていた。この海を渡って大陸と往来することは、当時の列島とその周辺の社会の生産力では、まったく不可能でないまでも、きわめて困難であった。 %E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg   2万年前の日本列島

 かくて日本列島の社会は、1万年ほども周辺の社会からほとんど孤立した形で独自の道を歩まねばならなかった。そして8千年ほど前に四国と九州からきれた形となり、その後も太平洋がわの海岸線が後退し、5千~6千年前から日本列島は地形も気候も動植物相も、現在と基本的には同じになっていた。

 この一万年あまりの縄文時代に日本人の特質が形作られ、日本の歴史が始まったと考えられます。それは次の2つの理由によります。
第一に、この時代に日本人の原型が成立したと考えられる。
 縄文時代人は、日本列島が大陸からきりはなされてからは、日本列島の自然の諸条件に適応し、独自の民族的および文化的特徴をうみだした。 彼らの遠い祖先が、大陸方面か東南アジアか、そのいずれに住んでいたか断定はできないが、数千年から一万年も違った自然的および文化的条件のもとで生活しているうちに、日本人の原型となった、と考えられる。
第二に、日本語の核心が縄文時代に成立していたと考えられる。
 言語年代学によれば、いまの日本の本州等の言語と沖縄の言語とは、共通の祖語から、紀元前後に分かれて、それぞれ独自の発達をしたものと推定される。
 そうだとすれば、両語に共通の核心部をもった日本祖語は縄文時代に存在していたとせねばならない。


 こうして縄文時代には、現在の日本人の固有の生活領域である日本列島が形成されており、そこにまわりの諸民族とは違った独自の一民族とその言語、すなわち日本人と日本語の原型が成長し、その人々が未開を突き抜け、文明への道をきりひらいていった。まさに日本人の歴史がはじまったのである。
<参考>
日本婚姻史1~その2:日本人の原型を形作った縄文人を取り巻く環境
井上清氏の縄文史観2~縄文が日本歴史の始まりと言える理由

二.縄文時代を貫く厳しい自然外圧が自然=人間の循環系の文明原理を育んだ。

 縄文時代の自然環境を考える上で、忘れてはならないのが、火山です。環太平洋火山帯の西の果てに位置する日本列島は火山活動も多く、3000年前の富士山の活動が一時停止するまでは列島内でかなり多くの火山活動が観測されています。 fujifunka.jpg
画像はこちらからおかりしました。

今から約6300年ほど前の縄文時代に、九州南方の洋上に位置する屋久島北方の薩摩硫黄島近くの海域で巨大噴火がおこり、大規模な火砕流や降下火砕物が九州本島を襲いました。土器などの考古学的調査によれば、この時南九州を中心に、それまでの縄文文化が絶滅し、かわって朝鮮半島や本州西部から、新たな土器文化をもった人々が渡来してきたことがわかっています。最近でも、雲仙普賢岳火山の噴火では、火砕流が発生して山麓に大きな被害をもたらしましたが、九州本島の住人は、くりかえされるこうした火山被害のたびにそれを乗り越え、火山との共存に成功してきたのです。
 火山は災害をもたらすだけではありません。九州の火山は豊かな温泉や、のびやかに広がる美しい景観など、人びとに多くの恩恵もほどこしてきました。現在、九州はわが国最大の金の産出を誇っていますが、この金鉱床もじつは火山活動がもたらしたものなのです。「九州の火山」より

 火山と縄文遺跡の関係はすでに報告されており、火山灰により肥沃になった土地に植生が安定し、多くの遺跡が集合しています。しかし火山は同時に一気に村を飲み込み、集団を絶滅に追い込みます。言い換えれば火山(爆発)という危険と隣りあわせで生活していたのが縄文人であり、縄文居住域だったのです。
 また、大陸の東の果てにある日本列島にはすでに4000年前から渡来人が海を渡って来ています。大陸の文化や物資を運んだと同時にさまざまな病気も運んできたことと思われます。三内丸山の巨大集落が4000年前に消滅したのは一説では伝染病という説があります。
 縄文時代はこのように激しい気候変動、火山活動、さらに大陸からの病原菌という外圧に晒され、中期には30万人近くいた人口が縄文晩期には10万人を切るまで減少したのです。
 この1万年間の外圧とは、気候変動による外圧、火山など突然環境が変化してしまうことによる外圧、さらに病気という外圧、それら多くの自然外圧に翻弄されていたのが縄文人であったと考えられます。
縄文人はその自然外圧に対してどのように適応していたのでしょうか?
 

狩猟・漁撈・採集活動を生業の基本とした、森の資源、海の資源を極限にまで利用する技術を発展させ、自然=人間循環系の文明原理を有していた。縄文人は自然のリズム、季節のリズム、森の時間や動物の時間に歩調をあわせながら永続的・循環的に生きる組織化された生活様式の装置と制度系を持っていた。それを自然=人間共生系の装置と制度系とよぶこともできる。「縄文文明の環境」 安田喜憲著より

 集団が外圧に晒されるたびに自然をひたすら注視し、自然との対話を試み、生きる為の術をその中から導き出した。この自然=人間という自然との同化能力こそ1万年の縄文時代に培われた能力だと思います。
 このようにして、現代日本人に繋がる仲間へのさらには他集団への同化能力の基礎がこの時代に形成されたと考えられます。

三.縄文人は、初めて直面した同類圧力を集団規範を拡大する事で乗り越えた!
 さらに縄文時代に初めて遭遇した(或いは直面した)人類にとっての全く新しい外圧があります。
 それは、人と人の間で生み出される同類圧力です。
 人口が増え、生活する縄張りが接触し始めると相互に緊張圧力が生じます。
 縄文早期の頃は単位集団は一定はなれて生活していたのが、前期から中期にかけて人口が10万人から30万人に増えています。それも増加した地域は東日本に集中し、三内丸山を抱える東北地方ではその1/3に相当する10万人がいたとされています。(~小山修三氏の人口統計)
 縄文時代は採取生産を生業にしており、その後の農耕生産と異なり一つの集団が生存するには広い食料域が必要でわずか数十人の集団を維持するのに数キロの縄張りが必要になります。たかが10万人とはいえ縄張り同士は当然接触して、相互に緊張圧力が生じました。
 遊牧部族では、食糧事情が悪化し、緊張圧力が高まると略奪闘争が始まり、私権闘争の社会へと変化していきました。
 しかし縄文時代を通して戦争の痕跡はなく、縄文人はその状況を贈与や祭祀、集団間のネットワークという方法で回避していきました。それどころか緩やかな集団間の関係を構築し、単位集団を地域集団という土地に根ざした連合集団を形成していきます。 詳しくは後の投稿に譲りますが、集団内の規範や集団と集団の関係のあり方はおよそこの時代に構築されていったのだと考えられます。
 以上、縄文時代を通して自然外圧と同類圧力、この2つの圧力が強く作用し、それに対して頭を使い、工夫したのが縄文人であり、永続的に生きていくための多くの共同体規範が作り出されていったと考えられます。 
 次回は、縄文時代の生産様式を押さえながら、どのようにこれらの外圧を克服し、集団(規範)を形成したかを見ていきたいと思います。

投稿者 tama : 2010年04月02日 List  

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コメント

婚姻制を押さえる事が集団の本源性が残っているかどうかを判断するひとつの要素ですね。
婚姻制を残せる地域、国家とそうでない国家。その要因はどこにあるのでしょう。侵略部族の私権度合いの強さも影響すると思いますが、支配される側の集団としての結束や制度の強さもあるように思います。
ドラビダ人がすでにインダス文明を作り、アーリア人より高い文明や技術を持っていたとしたら、アーリア人は彼らから多くを学び、得ていく立場にあったのかもしれません。
アーリア人とドラビダ人はそのように単なる征服、被征服の関係だけではない何か(取引?)があったように思えてきます。
だからアーリア人はいち早くカーストなるものを作り、自らの地位を安定したものにする必要があったのではないでしょうか?

投稿者 tano : 2010年6月20日 13:36

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