| メイン |

2011年05月07日

「南から見た縄文」7~江南地方に縄文の源流を探る

縄文文化は一言で表現すれば漁労採取民が土器を擁して定住化した文化と言えます。
日本列島の縄文文化はこれまでこのシリーズで見てきたように、最初は南九州の照葉樹林帯から定住化が始ります。この南九州に起きた最初の定住集落は落葉樹の北上と共に東北地方で適応したいわゆる、縄(なわ)状の縄文土器の民とは異なった文化をもっていました。
土器の作り方がまったく違うのです。
北方に適応した民は縄状の土器模様を付けて煮炊きを中心に縄文文化を形成していきました。一方、南方の土器は縄状の模様を持たず、貝の形の模様や爪型の模様を土器表面に付けていました。南方では土器は煮炊きというより、初期には食材の保存や水甕に使っていた可能性があります。(これは私の仮説です)
縄文時代はこのように、縄文中期までこの南九州の縄文文化と東北の縄文文化という大きく異なる2つの流れがあったと思われます。それらを一旦海洋漁労型縄文文化と採取型縄文文化と呼んでおきたいと思います。この2つの縄文文化は6300年前の鬼界カルデラの噴火と共に逃げ延びた南方の海洋民が東海から関東地方に移住し、南の文化を関東、さらには東北地方に広げることになりました。ここまでは前回見てきた南からの縄文文化の流れです。
さて、今回紹介するのが約6000年前、そこに加わったのが完成された中国の文明です。弥生時代に朝鮮半島や中国から稲作と共に文明が入ってきたのは周知のことですが、すでにそれから4000年前に既に長江文明が縄文社会に影響を与えていたのです。
300px-Xiling-Gorge-west-of-Maoping-4976.jpg
こちらよりお借りしました
明らかにそれまでの縄文文化とは異質で高度な文化は、日本列島にとって最初の舶来文化として迎え入れられ広く定着していったのだと思います。
長江文明を知っている人、知りたい人、応援クリックをお願いします↓
Blog Ranking
にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


この長江の文化が最初に入ったのが日本海側、福井県の鳥浜貝塚です。鳥浜貝塚はすでに縄文早期に集落が確認されていますが、この地域は温暖化がピークになった6500年前に植生がそれまでの落葉樹林帯から照葉樹林帯に急変しています。
この時代から、長江文明に特徴的な漆、玉、貝、エゴマ、ヒエ、アサの栽培といった文化が移動しそれまでの縄文時代にはなかった要素が各地に登場する事になります。これは長江文明の最も長く安定的だった最初の文明、河姆渡遺跡からの渡来民、交易民の影響を受けていると思われます。⇒長江文明資料~HP「中国的こころ」より
この事はHP「ブナ林と古代史」の中の以下のような記述を基にしています。

>私は、日本海側の縄文遺跡、舞鶴の浦入遺跡・三方町の鳥浜貝塚・能登半島の真脇遺跡・富山の桜町遺跡を探索しましたが、丸木舟や楔状耳飾、漆は勿論、高床式建物や建築方式などが弥生時代よりも以前に縄文時代に使用され開発されていたことが分かってきました。又、三内丸山遺跡では、クリの他、ゴボウ・マメ・ヒョウタン等の日本でないものやアサ・エゴマ・ウルシ・ヒエなどが栽培されていたのではないかと
kinki201.jpgkuwanoiseki_no_syutudohinn380.jpgd2057613de968f124dcbb7ffacead6dc.jpg
こちらからお借りしました
日本の玉器文化(縄文時代中期)と長江文明として日本の玉器文化は約6.000年前の馬家浜文化で、河姆渡から引き継いでの玉器が多く発見され、良渚文化で最高水準の玉器の文化ができた。 
 縄文人は、三内丸山遺跡の六本柱の大型建物や、大湯遺跡の環状列石に代表されるように、太陽を崇拝した可能性が高い。太陽が昇り沈む山が聖なるものとして崇拝されたようだ。又、玉を産出する北アルプス連山を代表する立山が、信仰の対象になったのも、遠く縄文時代にまで遡るのではないか、言われている。
 楔状耳飾とは、円環の一部に切り目を入れてC字形とした耳飾りで、耳たぶに開けた穴に切り目から差し込んで垂下するものである。北海道から鹿児島県(沖縄県はまだ未発見)まで、全国500ヶ所を越える縄文前期の遺跡から出土している。
 「長江下流域先史文化の日本列島への影響」で安 志敏氏は、玉楔が長江(揚子江)中・下流域において最も早く出現し、日本の縄文時代前期の楔状耳飾が長江流域の影響を直接受けたとしている。更に、福井県鳥浜貝塚の漆製品も長江流域の漆器文化と密接に関連しているとされた。

このように長江文明は古代からさまざまな物質的影響を日本列島に残していることがわかります。
それでは長江文明とはどのような文明だったのでしょうか?
そこにも簡単に触れておきたいと思います。
世界の4大文明と言われるエジプト、メソポタミア、黄河、インダスの文明はいずれも畑・麦の文明です。また、インダスを除いては牧畜や遊牧の民が文明に関与しています。つまり、麦とヤギ、羊の文明が4大文明なのです。
長江文明を加えて5大文明と呼ぶ事もできますが、ほぼ同時期かあるいはもっと古く誕生した長江文明はそれらの文明に比較して大きな違いを備えています。
大河の辺に登場したのは同じですが、長江文明は稲の文明として登場しました。長江文明での水田稲作は既に7000年前頃に確認されています。麦が一般に乾燥地帯でも育ち、手をあまり加えなくても成長するのに対して、水田稲作は多くの手を擁し、複雑な技術を必要とします。
当然初期の稲作は現在のような品種改良をされた種でない為、生育には限界があったとは思われますが、既に7000年前の水田の跡があったことから、かなり早期に稲作の技術は確立されていた可能性が高いと思われます。
稲作によって豊かさがもたらされた長江中流域は約6500年前には都市的文明を作り出しています。照葉樹林帯で既に1万5千年以上前から土器を発明し定住化を勧めていた長江流域の民は約7000年前の稲作の発明と共に中流域から下流域までの広域文明を作り出し、その文明は河姆渡文明その後の良渚文明と連綿と中国での文明の起源を作り上げていきました。この長江文明は文字を持たず、戦争も人の支配も行なっていません。代わりに豊作を祈る祭祀の発達と多くの民を統合する神殿の構築が特徴的となっています。
1990年代に長江文明を発見し、その後日中の合同発掘で長江文明の存在を明らかにした安田喜憲氏は長江文明を以下のように語っています。
umeharaA-0011.jpg

城頭山遺跡の城壁はすでに6400年前に出現している。これはこれまで中国最古の城壁であった。その城内から城壁で囲まれた空間全体のうち160分の1にあたる小面積の水田とそのかたわらから祭壇が発見された。
城頭山遺跡からは中国最古の城壁、水田、祭壇が発見されている。城頭山遺跡は東と南北に門を持ち、計画的プランをもつ城壁によって周囲の空間と隔離されており、都市と呼べる要素を備えている。長江流域では武力や交易などこれまで一般的に指摘されてきた都市を成立させるための要因以外に、稲作の豊穣の儀礼といった稲作の生業活動と密接にかかわった祭祀と儀礼が人々を都市へと集中させ、王権を誕生させる一つの大きな要因であったということである。

人類文明史には2つの大きな都市文明の系譜があるというのが、最近の私の仮説である。これまで私たちが都市文明とみなしてきたのものはこの畑作(麦作)牧畜社会において発展してきた都市文明のみを古代文明とよんできたにすぎない。
人類文明史には、畑作牧畜型の都市文明とはまったく異質のもう一つの都市文明が存在した。それが稲作漁労型の都市文明である。
その都市を形成する重要な要素は稲作の生業と密接に関連した祭祀や儀礼であった。畑作牧畜型の都市が「交易・消費センター」として誕生したのに対して稲作漁労型の都市は、種籾の分配や豊穣の儀礼、さらには灌漑水のコントロールといった生業に密接にかかわった「祭祀・生産のセンター」として誕生した。ここに稲作漁労型の都市文明と畑作牧畜型の都市文明の大きな相違点がある。そして畑作牧畜型の都市のネットワークは、牧畜民による陸上交易であった。これに対して稲作漁労型の都市のネットワークを担ったのは漁労民による水上交易であった。
「交易・消費のセンター」としての都市の支配者となった畑作牧畜型の都市文明の王は武力と富で支配権を確立した。これに対し「祭祀、生産のセンター」としての都市の支配者となった稲作漁労型の都市文明の王は、権威と豊かさで支配権を確立することになる。武力と富で支配権を確立する為には武器を作る金属器と契約文書を作る文字が必要だった。しかし、権威と豊かさで支配権を確立した稲作漁労型の都市にとっては、人を殺す金属器の武器は必要でなかったし、約束を守らせるための契約書も必要なかった。必要なのは豊かな大地の恵みを獲得するための知恵であった。
前者が「力と闘争の文明」を構築したのに対し、後者は「美と慈悲の文明」を発展させたのである。豊かな大地の恵みを獲得し、豊かな大地を生み出すことに全力を傾けた文明、それが稲作型漁労文明なのである

~著書「長江文明の探求」より抜粋
長江文明は4000年前からの急激な寒冷化で黄河流域の畑作民が南下、それによって従来の土着の稲作民は方々へ分散し、それぞれでその文明の技術を継いでいくことになります。
一部は中国国境を越えて東南アジアへ、一部は長江上流域の雲南へ、一部は朝鮮、そして一部は日本列島に辿り着いています。今日のタイ、インドネシア、ミャンマー、朝鮮、台湾、日本、いずれも長江の稲作文明を引き継いだ国々です。
miyaozokuA-0031.jpg
こちらからお借りしました
この長江文明が既に6000年前に日本に伝来していたのです。多くは長江文明が滅亡したと言われる4000年前以降に人も含めて移動してきたと思われますが、移動する以前から文化が先行して伝播してきている点は注目です。
三内丸山の多くの玉や高床の見張り台、日本海側に点在する耳飾は全て長江文明からの伝承です。唯一伝わらなかったのが稲作という事ですが、伝わらなかったというより、伝わったけど日本では適応しなかったと見るほうが自然かもしれません。
理由はさまざまに言われていますが、食料となる植生が日本の場合豊富だった為、稲作転換の必要がなかったという点、又は6500年前のカルデラの噴火灰で稲作がしばらくできなかったとする説などありますが、長江文明で(なぜか)伝わらなかったのが稲作というくらい長江からの影響を多く受けているのです。
弥生時代の稲作の広がりは他の地域にないほどのスピードで日本列島を北上し、青森に伝わったのはかなり早かったという点を見ても、既に稲作そのものの存在は縄文時代に伝わっており、その土台の上に技術が広がったと見るとその早すぎる伝播も説明が付くかと思います。また、稲作文明社会がその後朝鮮半島を経由して弥生時代に日本にスムーズに導入されていきますが、朝鮮半島の稲作文明とは長江文明の系譜を汲んでおり、かつ稲作漁労の長江文明それ自体が日本ですでに成熟していた縄文文明に非常に似通っていた為、伝播に障害が少なかったと考える事もできます。

このように縄文時代は1万年の期間の中でいくつかの文明が塗り重ねられ、広く日本列島に伝わっていったと見ることができます。
南から見た縄文。最後でもう一度まとめる事になると思いますが、南九州の縄文文化、北九州から伝わり北上した大陸の文化、さらに縄文中期から入り込んできた長江の文明、大きく見てもこの3つの南から来た文化が日本列島に広がったと言えると思います。
さらにまだ扱っていませんが、北方からもいくつかの小さな文化が波状的に来ている可能性があり、その一つがツングース系の文化です。
大きくは弥生以降に高句麗の民が関東地方や中部地方に入り込んできますが、既にその最初の一派は縄文晩期には到来していた可能性があり、次の朝鮮半島と北九州の追求でその辺も触れていければと思います。

投稿者 tano : 2011年05月07日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/1251.html/trackback

コメント

D2系統はアフリカ~南インド~東南アジア~台湾~沖縄~日本~朝鮮~中国と言う順番で広まった系統だぞ。最初から間違い。今D系統が残るのがインド洋沖の小島とチベット、日本。もともとアフリカから海岸沿いに移動した集団で海洋(漁業等)に関する痕跡を多く残している。東南アジアまで来て北上しチベットあたりで止まったものとそのまま海岸沿いに進んで日本→半島・シベリア→中国にそれぞれ分かれた。
もともとチベットと日本は同じD系統の原型だったがそれぞれが変異し(日本の場合寒冷化の終わりによる日本孤島化)で日本は今のD系統になった。今の日本と同じd2系統を持つのは半島の任那地域の朝鮮人(過去に日本人が渡来)が1~5%持つのみ。他の地域では他のD系統含めほぼ全滅している。

投稿者 匿名 : 2012年7月20日 02:28

縄文中期というのは、縄文土器という名前で呼ぶには余りに違いすぎていると感じます。長江や殷などの文化が流れ込んで形成されたものなのでしょうか。
特に井戸尻遺跡の土器など特異的な エジプト伝来なのかとさえ感じられるようなものがありますが

投稿者 しらかべ : 2018年8月12日 06:15

コメントしてください

 
Secured By miniOrange