「稲作伝播は私権社会の引き金か?」6~渡来人が持ち込んだ「私権意識と私婚制度」 |
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2010年01月22日
「贈与」に何を学ぶべきか!~1、交換取引と市場は根本的に異る原理
こんにちわちわわです。
アメリカに端を発した経済危機で、市場が国家を食い物にして自己破壊のサイクルを作り出す様を露呈しました。
市場における交換取引は「だまし」であると薄々感じていた人達も、この経済危機の有様を見て確信したに違いありません。そもそも交換取引の起源を突きとめてみると超国家・超市場論9 私権闘争の抜け道が、交換取引の場=市場であるにあるように、
交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。
実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。
この幻想共認(幻想への可能性収束)によって作り出された、市場商品の価格と一般農産物の価格との価格格差こそ、市場拡大のテコとも原動力ともなった市場の秘密の仕組みである。(異国の食品や、無農薬の食品は、幻想共認の形成が可能であり、だからこそ一定の市場化も可能なのである。)
そこでは当然、農耕の労働価格は、幻想商品の労働価格にくらべて、異常に低くなる。この価格格差(価格差別ともいえる)の秘密こそ、途上国が一貫して貧困状態に置かれ続けてきた真の理由であることは、いうまでもない。
性幻想を高める為の毛織物やレースをはじめとして、私権圧力下の解脱回路(主にドーパミン回路)が生み出す快美幻想がはびこり、生活全般に亙って快美(快適さや便利さ)を求める快美欠乏が上昇してゆくにつれて、その幻想共認が作り出す価格格差をテコとする市場はどんどん繁殖してゆく。
そして次には、その生産効率を上げる為の科学技術が発達してゆき、市場の拡大競争が生み出した侵略戦争→軍備強化への期待圧力が、その科学技術を更に大きく発展させてゆく。
この科学技術の発達による快美充足の可能性(快適さ利便さ)の実現こそ、中後期の市場拡大の原動力である。
武力闘争の抜け道として発達した市場の根本は「騙し」にあります。
交換取引を行う時、その物が等価であることを認め合わないと取引は成立しませんが、その心理的背景には、より自分(達)の利益が上がることが前提にあり、そのためには「騙し」を正当化する必要が生じます。個人や自由といった、私権を正当化する近代思想が急激に広がったのは、私権追求の可能性が開かれた大衆にとって、非常に都合のよい観念だったからに他なりません。
しかし、交換取引が始まったのは、武力支配による古代国家が誕生した以降であって、それ以前の原始共同体には、交換取引とは異なる「贈与」という適応様式で集団間の争いを抑止してきたのです。
(なお、採取部族間の友好維持の為の贈り物と、私権利益を獲得する為の交換とは、共に共生(取引)適応の一種ではあるが、その発生基盤は片や共認原理、片や私権原理と全く異なっており、従って、贈り物は、決して私権時代の市場の起源なのではない。だから、「贈与」と「交換」は、厳格に区別されなければならない。)
(同様に、生活必需品の物々交換が市場の起源であるという話も、真っ赤な嘘であって、生存上の必需品を他部族に委ねる部族など存在しない。その様な物々交換は、市場(関係)がある程度日常的に存在する様にならない限り成立し得ないのであって、従って、市場の真の起源は、私権闘争の抜け道としての、快美幻想の共認、もっとはっきり言えば「騙し」をテコとする私益行為以外には考えられない。)
縄文時代は集団間の緊張関係を弛緩し、友好関係を築くために贈与という共生適応の手法が頻繁に用いられました。
これは、上記にあるように古代から現在に到る交換取引とは動機から原理から全く異なる人類の適応様式です。
現在の行き詰った騙したら勝ちの市場に変わる物の流通システムを考える上で、この縄文時代の贈与の仕組みに可能性が秘められていると思います。
以後シリーズで「贈与に何を学ぶべきか!」その答えに迫っていきたいと思います。
投稿者 tiwawa : 2010年01月22日 TweetList
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コメント
投稿者 milktea : 2010年4月10日 06:54
milkteaさんコメントありがとうございます。
私自身、日本人が最古の定住民だと知ったのはこの投稿をまとめている時です。
これは結構大きい気付きでした。確かに世界で農業が定着したのはもう少し後だし、四大文明が発達した地域では砂漠地帯に囲まれ、いずれも採取生産を基盤にはしていません。
縄文塾の中村先生も西洋を狩猟を中心とした足の文化、東洋を採取を中心とした手の文化と表現しました。
手を使うと脳は進化し、また定住という生活は、安定をもたらすと同時に建築技術や食料保存技術など様々な工夫を必要とします。文化というものが工夫の産物だとしたら縄文人の定住は結果として文化を作り出したのだと言えるでしょう。
日本が文化的に縄文時代に先行していたとすれば、その根拠は定住の歴史が長かったという点が上げられると思います。
投稿者 tano : 2010年4月10日 20:25
こんにちは
海・山の幸と土器は、食生活を豊かにしましたね。土器が発達する土壌があったということなんでしょうね♪
虫歯が多かったと聞いていますが、それも納得。
ふぐの毒抜きもこの時代に実現したとか…
そして定住の安定が、文化(モノ・精神)の確立に影響を与えたのだと思います。
今後が楽しみです(´∀`★)+.゜