洞窟から遊動、そして定住へ |
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2008年01月09日
土器の起源を探る
縄文時代を勉強していく中で、土器の起源について興味がわいてきたので、少し調べて見ました。
土器の起源については、新たに古いものが発見されるたびに、更新されていく状況にあるようですが、現在、世界最古の土器と言われているのは、中国で発掘されたもののようだ。
>中国における土器の起源については、暦年代2万~1万8000年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼりうるものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは暦年代1万8000~1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm
<玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器>
>一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。
さらに、日本国内に目を移すと、先の青森県大平山元遺跡(16500年前)の他、福井洞窟(吉井町)の隆線文土器や佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡(12000~13000年前)の豆粒文土器が発見されている。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/054.html
このように、南方の中国と北方のシベリアから土器が発見されていることと、日本国内においても、九州や青森といった南と北から土器が発見されており、土器の使用初期段階とは言え、結構広範囲にわたって分布していることが分かる。
寒い気候でもあった北方からも土器が発見されているが、まだ氷河期終盤の時代でもあり、寒い時代に使用された土器は、一体どのような使い方をされていたのだろうか。
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器という形状から単純に考えて、何かものを入れて置いておくために作られたと考えるのが、まずは自然ではないだろうか。
当時はまだ大型獣の狩猟や漁猟によって生計を立てていた時代だっただろうが、狩猟によって獲った獲物(の肉)だと、あえて土器に入れる必然性も薄いと思われる。しかしガーシャ遺跡で発見された土器が魚の油の保存用と推測されているように、油のように液体状のものを入れて保存していたとすれば、その利用方法としての可能性が高いのではないだろうか。水分を漏れにくくするために土器の内側を磨いた上に粘性のある油脂分などを入れたのであれば、比較的長期の保存にも耐えることが可能だろう。
シベリアで発見された土器は厚手のもののようだが、青森県大平山元遺跡で発見された土器のように、さらに改良を加え、厚さを薄くしたものもある。縁を薄くした土器は、単に油などの保存用というよりも、暖をとるための火にかけ、土器に水を入れてお湯にしたり、さらには、その中に、保存によって硬くなった肉や、採取してきた木の芽などの硬い植物を入れ、やわらかくして、食していた可能性も考えられそうである。
こうした寒い時代の土器利用の経験が、温暖化によって暖かくなった時の土器利用によるあく抜きのためのどんぐりの煮炊きの発想につながっていくのだろう。
<土器を使ってどんぐりが煮炊きされているところ>
http://www.y-kyouryokukai.jp/cat6/
もうひとつ調べて気が付いたのですが、主に、中国や九州で発見された土器の特徴の様でもあるようですが、洞窟内で発見された土器が、結構存在するということだ。
今まで、土器の発掘現場というと、屋外の遺跡ばかりをイメージしていたが、土器誕生の初期においては、洞窟内で使用されていた可能性が高いことを示しているといえそうだ。
<泉福寺洞窟遺跡>
http://homepage3.nifty.com/rekishitanbou/page012.html#泉福寺洞窟
<泉福寺洞窟で発見された豆粒文土器>
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/rekisi/02/02_03.htm
旧石器時代の終わりごろは、気温も上昇して温暖化してきており、12,000年前には、現在の平均気温に近づいています。この気温上昇により、今まで陸続きであった日本海への対馬海流の流入が、日本列島の気候にも大きな変化をもたらしたようです。
>今日の日本文明が、海洋的風土のもとに熟成されたものであることは疑いない。その海洋的な風土を代表するのは豊なブナの森である。しかし、海洋的な風土は、日本列島に居住してから、ずっと存在し続けた訳ではない。最後の氷河時代の最寒冷期にあたる二万一千年~一万八千年前、海面は現在より100m以上も低く、このため日本海は湖に近い閉塞状態となり、対馬暖流は日本海へ流入できなかった。
冬季、日本海側に豪雪を降らすのは、対馬暖流の流入で、日本海の表面水温が、冬でも5~10度に維持されているためである。冷え切ったシベリア高気圧との温度差が盛んな蒸発をもたらし、雪雲をつくり、日本海側に豪雪をもたらす。雪が多いということは、日本列島が海洋的風土に支配されていることの証でもある。
ところが、対馬暖流が日本海へ流入できなかった氷河時代には、冬の雪が少なく、大陸的で乾燥した気候が日本列島を覆った。日本の風土は大陸と類似していたのである。
大陸的気候が緩みはじめ、日本列島が大陸とは異なった独自の海洋的風土に変わり始めるのが、一万三千年前なのである。それはブナの花粉の増加で知ることができる。一万三千年前は、寒冷・乾燥した氷河期から温暖・湿潤な後氷期へ移り変わる移行期に当たっている。この氷河時代から後氷期への自然環境の激動の中で、日本列島が際立った特色を示すのは、世界に先駆けてブナの森が形成され、その森の文化が誕生したということである。
http://kodaisi.gozaru.jp/sisouAAA/morinonihon/morinonihon-right.html
<縄文時代前後の気候変化>
日本において、当時、洞窟に暮らし、大型動物の狩猟による生活を営んでいた古代人は、気温上昇による、植生の変化、具体的にはブナの森の広がりと、大型動物の減少、小型動物への移行等、周辺をとりまく環境の変化によって、今まで確保してきた慣れしたしんできた食糧の減少という大きな危機に直面することになった。
当時はまだ、定住化する前の時代である。こうして、新たな食料源として、ブナの森中で採取してきたどんぐりや、その他の山菜等を持ち帰り、洞窟の中で土器を使って煮炊きすることで、あく抜きをし食すようになったのではないだろうか。
こうした食の変化は、気候の変化が早くから現れる、南の地方において発達し、気候の温暖化の北上とともに、北方の地域にまで広がっていったと考えられそうだ。
まとめると、氷河期の後期、保存用として使われだした土器が、お湯や保存食料等の煮炊き用として改良され拡がっていった。但しこの時代の土器利用は、食の獲得には大きくは貢献していないため、それほど活発でなかった。(この時代の土器自体もあまり多く発見されていない)
気候の変化によって南から温暖化が始まり、食の変化に伴って、採取した植物性食料のあく抜きや煮炊き用として土器は無くてはならないものになり、土器の利用が爆発的に拡大し増えていった。
このように推測してみましたが、土器の起源の確定には、もう少し新たな土器の発見が待たれるところではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2008年01月09日 TweetList
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