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2013年08月27日

江戸は縄文の再生4:江戸の文化とは自給思考の帰着

江戸時代は現在の日本的と言われる多くの文化が発祥しています。歌舞伎、浄瑠璃、落語、浮世絵、川柳、大相撲、剣術、また医学、数学、文学、史学、工芸、美術など各分野で多くの日本独自の文化、認識が誕生しました。
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日本は大和朝廷の時代から長らく海外の文物を取り入れ、稲作、仏教、を初め文字まで含めて日本風に工夫して変える事で国内の文化を形成してきました。いわば建国以降は真似の文化が日本文化の真骨頂とも言えるでしょう。それは平安時代、鎌倉、室町時代に至っても同様で、中国や西洋の文物、武器を取り入れ戦国時代を経由してきました。
江戸の最大の特徴はこの外から取り入れて日本風に変えるという方法を一変させた事です。その要因に、長く続いた鎖国という政策が左右したでしょうが、それは一要因であって、なぜ江戸でこれほどの独自の日本文化が次々と登場したのかについてはいくつかの複合的な要因があるのではないかと思っています。

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江戸の文化の特徴
知的産物である文化なるものは有史以降のヨーロッパ、中国、その他の世界中の先進国では、王室、宮廷貴族ら有閑層の間から需要が発生し周辺を取り巻く商人、都市市民がそれに応えて作られていくというのが一般的公式でした。文化全般にそれはぜいたく品であり、芸術物であり、凡そ庶民の生活とはかけ離れたところにあるのはその所以です。
ところが江戸の文化はこの世界標準とは異なっていました。
以下、江戸の文化の特徴を示してみます。
1)貴族ではなく大衆発
絵画や文芸、茶道など上流の層から需要があった文化もありますが、歌舞伎、川柳、浮世絵、農学、国学、和算など、大衆の中から登場した文化や学問が多数あり、江戸の文化が大衆発の需要による大衆発の供給である事が特徴付けられます。
2)文化の担い手は地位や職域になく、町人、武士、農民などさまざまな人材が担っている
1730年代の江戸の文壇にいた有名な文人がどのような出自か記録が残っています。
 質屋の息子、大大名、旅籠屋の子、農民、大工棟梁の出自、徳川家の子孫、奉行所の御家人など農民、町民から大名まで多彩で才覚があれば同じ拍手をもって社会全体に迎え入れられたのが江戸文壇の特徴した。
3)師匠―弟子の関係で伝承されていく
江戸時代は藩毎に出入りが禁じられていましたが、ひとたび才覚が認められると藩から中央江戸の師匠の実家に倣いに行き、そこで力をつけて藩に戻ります。日本中の才覚が江戸に集まるシステムがあり、同時に師匠―弟子の関係で地域に限らず技量が育て伝承されていく仕組みがありました。
4)発信、評価の場がある
江戸時代は先の和算の記事でも紹介したように、いいものは発信し、それを評価するシステムがあります。発信は専ら最初は藩の中で評価され、優れたものが中央(江戸)に発表されます。そこでも評価されたものは藩の成果として認められ、またその発信者である個人も藩から報酬や人望を得る事になります。このように藩毎に競争するシステムが何処からでも発信でき、最上位の評価が得られる仕組みと連動していたのです。
5)日常の生活の役に立つ
娯楽、文芸、工芸、食文化に至るまで、庶民が日常生活の中で使い楽しむものが文化として発達していきました。言い換えれば、自分たちの生きている社会の役に立つ事が文化を引き起こす原動力にもなっていました。
6)文化の発信者は江戸に集中する(巨大な都市江戸)
これら、庶民の活力や発信が結果として集約され、膨大なエネルギーに満ちた都市が江戸でした。江戸は発信拠点でもあり、多くの情報を取り入れる受信拠点でもあったのです。
それが市場原理と結びつき大きな交易場にもなっていたのは事実ですが・・・。
国風文化を多様化させ、深化させた原動力
江戸時代が長きに渡って平和だったという事が文化発展の基礎にありますが、文化発展を武士や庶民の知的需要の顕在化とするならば、それを刺激し作り出した源流に江戸初期に取った家康の出版政策が相当します。
家康の言った言葉から紹介します。

「人倫の道明かざるより自ずから世も乱れ国も治まらずして騒乱止む無し。この道理を諭し知らんとならば書籍より外は無し。書籍を刊行し世に伝えんは仁政の第一也」

家康は関ヶ原の合戦の前年には活字印刷による本の出版を始めます。京の僧で足利学校の学頭であった元結に命じ十万余の木活字を作り、「貞観政要」「六とう」「三略」「周易」などを刊行したものです。日本における最初の大規模かつ本格的な活字出版で、この時出された本を伏見本といいます。
家康の出版した本はあまり難しい理論や哲学の本はありません。むしろ正しい政治のあり方、失敗した例などを歴史の中から具体的に述べた史書が中心で、大変に現実的な本ばかりです。そしてこれらの出版にあたっては、正確を期すために、諸国の寺院、大名家に所蔵されてきた古書を筆写照合する膨大な作業もなされました。家康によるこの積極的な活字本刊行と出版事業の奨励は、平和の到来と共に大変な活字印刷の出版ブームを巻き起こし、儒書、史書、佛教の典籍、医学書などの出版が京都を中心に民間の本屋の手で盛んに行われました。~「江戸の遺伝子」より紹介
これらの活字本の流布がその後の大衆の学び意識を作り出し、江戸後期には手習い、寺子屋を通じて世界中でも例のない識字率の高い国となっていました。
江戸は縄文の再現である(~文化という視点から)
先の記事で江戸の社会は地方と中央の関係を逆転させた社会であると提起しました。この関係は文化においても同様です。文化が発祥し、供給したのはあくまで地方、中央である幕府はその活力を結集するシステムを作り出したに過ぎません。
誰もが認識を発信でき、発信すれば評価が得られる。そういう中で皆の役に立つ認識が次々と作り出され、切磋琢磨されていきます。そしてそれらは実現の意思に裏付けられた力強いものでした。
これらから江戸において(或いは日本において)”文化とは何か”をこう定義してみました。

「文化とは大衆自らが集団の為、役立つ事求めて創造し、切磋琢磨して紡ぎだされた共認物であり、大衆の期待の結晶物である。そして文化が多く生まれる社会とは活力に溢れた大衆社会である。そしてこの期待の背景には時代が持つ不全や課題があり、江戸時代もまたその課題に常に直面し、直視していた社会であった。」

縄文時代は中期に土器や土偶が多様化し、他地域に同一のものが広がったように、世界でも先んじた多地域をネットワークした文化先進地域でした。
それら広域に渡るネットワークは縄文語が日本語として複数の地域で使われ形成され、現在に繋がる日本語が生み出されたように、この江戸時代もまた現代の日本独自の認識が多く生み出され、これを以ってして江戸は縄文の再現である、と言ってよいのではと考えています。
追記
さて、現在の日本もこれに近似しています。
明治以来始まった欧米化の流れが終焉を向かえ、既に萌芽している“日本的なる物”への傾斜、この傾向は今後さらに進むでしょう。海外の文物に頼らない、あるいはそれらに警戒する、この姿勢はついにこの数年前から起きており、311の事件を経て“日本的なるもの“への確信は高まっています。サブカルチャーと言われる文化はこの間、次々と生まれており、上はノーベル賞受賞まで、生産技術や学問においても日本独自のものが登場し続けています。
これを江戸以来登場した新しい認識闘争の流れと見ることができるのではないでしょうか?この認識闘争は大衆発故に一度始まると後は連続的、級数的に広まっていきます。人々の期待を捉え、役に立つ事を求め、その認識を世に打ち出していく。
この流れ、動きが縄文―江戸―現代に繋がる文化の継承ではないでしょうか。

投稿者 tano : 2013年08月27日 List  

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