2013年8月10日

2013年08月10日

「個のない民、ケルトから学ぶ」3.”察する”~声なき声を聴く~

近年“もったいない意識”が見直されたり、一昔前は敬遠されていた“農業”が注目されたりしていますが、それは失われたものを取り戻そうとする人々の想いの現われではないでしょうか?
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その失われたものとは何なのでしょう?
それは“察する”能力ではないかと思います。
当たり前のように察しあい、言葉にならない行間を読み取り合う日本人ではありますが、福島原発の東電の対応に象徴しているように、近年だいぶん錆付いてきてしまっているのではないかと思うのです。
今回の投稿では、ケルトシリーズを始めるきっかけとなった河合隼雄氏の『ケルト巡り』より、「察する」の部分を紹介し、その意識の在り様を学んでいこうと思います。

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投稿者 pingu : 2013年08月10日  

2013年08月10日

「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 最終回~葛城ネットワークは日本を守る共認ネットワークだった~

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<葛城山 画像はこちらからお借りしました>
いよいよ、「大和政権の源流と葛城ネットワーク」シリーズの最終回を迎えることになりました。最終回の記事に進む前に、まずはこれまでのおさらいをしてみます。
1.プロローグ
⇒教科書的には日本の歴史に名を残している古代豪族(葛城氏、賀茂氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏、秦氏、藤原氏など)は、権力争いに終始して敵対関係にあったと考えられています。これは従来通りの見方に立った考え方ですが、これこそが古代史を難しくしている原因と考えられます。そこで私達は、見方を180度変えて考えてみました。実は、これら豪族達は『同族』だったのではないか?このような大胆仮説から本シリーズをスタートしました。
2.徐福と縄文の出会い
⇒2230年前に日本に渡来した徐福集団は、縄文人に触れることで縄文体質を獲得していきます。その過程で、大陸由来の力の原理ではなく、共同体を維持しながら共認原理の中に入り込み、統治していく方法を見出していきました。その後、各地で縄文人と融合した徐福集団は徐々に勢力を拡大し、日本各所に融合部族の拠点をつくっていきました。それが後の葛城氏、蘇我氏、平群氏、大伴氏、巨勢氏、紀氏、物部氏などの古代有力豪族だったのです。つまり、彼らは元を正せば、同族意識を有した豪族達と言えます。
3.古代豪族はネットワークで結ばれていた1
⇒徐福集団が渡来した時、既に日本には「贈与」をベースとした縄文ネットワークが発達していました。徐福集団はこのネットワークに乗っかる形で、最初は秦の始皇帝から逃れるための情報ネットワークを短期間で構築し得た物と考えられます。このように出来上がった原初の古代豪族ネットワークは、激変する周辺状況と新たな外圧に直面する中で、新しい展開を迎えます。古代豪族ネットワークとは、原初の共認ネットワークであり、その延長線上に連合政権、後の大和政権が存在します。ここに共認形成を統合軸とする日本独自の統治形態の根幹を見出すことが出来るのです。
4.古代豪族はネットワークで結ばれていた2
⇒国内外の闘争外圧、及び、国内の同類圧力(統合圧力)により、古代豪族のネットワーク(=葛城ネットワーク)は、弥生時代以前の縄文人のネットワークを基盤にして、共認統合の基盤をつくってきました。彼らは、刻々と変化する外圧に適応する形で、縄文贈与ネットワークを基盤とした稲作ネットワーク、銅矛・銅剣・銅鐸ネットワーク、古墳ネットワーク、神社ネットワークという具体的なネットワークを実現していったのです。
5.母系万世一系の葛城ネットワーク
⇒古代豪族葛城氏は、天孫族=天皇に対して、姫を出していた豪族だったという説があります。しかし、古代、みんなを統合していた力の基盤は、祭祀、祈祷といった見えない力であって、その最高権力体はシャーマンと呼ばれる巫女でした。そうだとすると、婚姻様式は、嫁入りでなく婿入りだったのではないか?と仮説を立てて当時を見ていくと、全く新たな背景が見えてきます。
贈与→稲作→銅剣・銅矛・銅鐸→古墳→神社と社会を統合してきたのは祭祀、祈祷といった信仰観念であり、その中枢にいたのが霊感能力の高い巫女でした 。この背景を下に当時の婚姻様式を当てはめてみると、「力のある女が男に嫁ぐ」のではなく、「男が力を求めて女に婿入りする」形式、つまり婿入り婚だったのではないかと考えられます。
6.父系万世一系への転換とは、本当だったのか?
⇒世間一般では、藤原氏は自らの権力を誇示するために歴史から物部・葛城・出雲族の名前を抹消したり、各豪族と政権争いを行っていた悪というイメージがあります。しかし、藤原氏が創造した「父系母族制の権威のみで権力を持たない天皇制度」と「摂関政治」は、対外的には父系万世一系でしたが、中身は母系制を塗り重ねたもので、それまでの豪族(葛城)ネットワークの役割分担をより鮮明にしたものでした。藤原氏は、葛城ネットワークの皆から望まれて摂関政治という形で歴史の表舞台に登場し、天皇家との父系母族制を通じて、豪族間の地位争いや、戦乱という私権闘争を止揚していたのです。つまり、藤原氏は国内外の外圧から日本を統合して(守って)きたと言えます。事実、平安時代の350年は、政権争いという小競り合いはあったものの、大きな戦乱が無かった時代で、江戸時代の270年を凌ぐ安定した時代でした。
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投稿者 marlboro : 2013年08月10日  



 
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