東にあった「もう一つの日本」6~鎌倉幕府は武士による天下統一ではなく、東国の独立を全国に宣言したものだった~ |
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2013年06月10日
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~5.母系万世一系の葛城ネットワーク
葛城豪族は、天孫族=天皇に対して、姫を出していく豪族であったという説があります。現在残されている天皇系譜を見ると、当時は父系相続が一般的で、嫁入りは当然だろうと思われるかも知れません。しかし、この時代みんなを統合していたのは祭祀、祈祷といった見えない力であって、その最高権力体はシャーマンと呼ばれる巫女でした。みんなの統合軸である巫女が誰かの嫁として嫁ぐ形式であったとしたら、統合軸は嫁ぎ先によって変わっていく不安定なものになってしまいます。そこで発想を逆転させ、嫁入りでなく婿入りだったのではないだろうかと仮説を立て当時を見ていくと、全く新たな背景が見えてきます。
まずは、当時の社会構造に同化するために、当時の統合軸を見ていきましょう。
■母系という共認軸
当時は、近代に比べれば戦争もそれほど多くなく、超闘争集団化する必要も無かったため、祭祀、祈祷が、集団の将来を決定づける強い力を持っていた時代でした。その中でも、霊感能力の高い巫女につながる女の力は、集団を統合するのに絶大な権力を持っていました。つまり、彼女らが社会を統合、秩序化していたのです
①贈与→稲作→銅剣・銅矛・銅鐸→古墳→神社と社会を統合していたのは祭祀・祈祷を担う女
贈与:徐々に大きくなってきた集団間での同類圧力が増加してきた為、命がけで入手した交易品、希少品に、贈与者のマナ(霊的な力)を込め、贈与という形で戦争を抑止していきました。
<参考1><参考2>
銅剣・銅矛・銅鐸:紀元前4世紀頃、寒冷化によって自然物採集が困難になってくると、戦争抑止力と食料自給力の上昇期待から、私有意識を介在させた大陸輸入の農耕祭祀と自然神を祀る縄文土地祭祀が一体化し、戦争や農耕の祭り、天候を操る祭祀の道具である銅剣・銅矛・銅鐸を用いて、より強力な統合力を持つ祖霊祭祀へと移行していきます。
<参考3>
古墳:同類圧力が国家間闘争に発展した頃には、高句麗文化はさらに浸透し、祖霊祭祀はより私有特化した氏神信仰へ、大陸間闘争の統合指針として古墳が構築されていきます。首長達の墓を作るという一大祭事を通じ、対外的には大きさ、量で高句麗を圧倒、威嚇し、対内的には各クニの生産力に応じた大きさの古墳を作るという序列基準を明示することで内部抗争を封鎖し、統合していきます。
<参考4><参考5><参考6>
神社:さらに高まる、国内外の戦争圧力、私権圧力、市場原理の圧力に対し、それまでの古墳ネットワークを母体に、現人神信仰(各地の神話伝承と中央政権の王の物語をつなぎ、各豪族の神格を中央政権の王の神格へ格上げ)による、さらなる防衛ネットワークを形成していったのです。
<参考7><参考8>
このように、贈与→稲作→銅剣・銅矛・銅鐸→古墳→神社と社会を統合してきたのは祭祀、祈祷といった信仰観念であり、その中枢にいたのが霊感能力の高い巫女でした 8) この背景を下に当時の婚姻様式を当てはめてみると、「力のある女が男に嫁ぐ」のではなく、「男が力を求めて女に婿入りする」形式だったのではないかと考えられます 🙄
②母系相続による祖霊継承
「男が力を求めて女に嫁入りする」という考えの下、歴代天皇の系統を再考すると何が見えてくるでしょうか?
『古事記伝』にあった多祖現象(同じ共同体から発祥した同一氏称が、同じ祖先からではなく、別の祖先から出ていることで、一氏一祖でなく、一氏多祖になっていること)が女系制につながるキーワードになるとみて女性史研究に没頭した高群逸枝の解釈を下に欠史八代を見てみます。
【古代の氏族制度について系統的な分析に没頭した高群逸枝女史によれば、Aという氏族の女のところに、Bという氏族の男が婿入りしたとすると、そこで生まれた子はAの氏の名を名乗り、Aの氏族の職をつぐ。また、住居も財産もA氏のものを受け継ぐ。しかし、先祖の神だけはB氏のものを祀るという。そのことを念頭において、欠史八代をみると、
「本文」の皇后の父 「一書」の皇后の父
②綏靖天皇(カムヌナカワミミ) 事代主命 磯城県主・春日県主
③安寧天皇(シキツヒコ・タマテミ) 事代主命の孫 磯城県主
④懿徳天皇(オオヤマトヒコ・スキトモ) 事代主命の孫 磯城県主
⑤孝昭天皇(ミマツヒコ・カエシネ) 尾張氏・春日氏の祖 磯城県主
⑥孝安天皇(ヤマトタラシヒコ・クニオトシヒト)和珥臣の祖 磯城県主・十市県主
⑦孝霊天皇(オオヤマトネコ・ヒコ・フトニ) 磯城県主 十市県主・春日氏
⑧孝元天皇(ワカヤマトネコ・ヒコ・クニクル) 穂積臣の祖 磯城県主
⑨開化天皇(ワカヤマトネコ・ヒコ・オオヒビ) 物部氏の祖 なし
『日本書紀』の記事のうち、これらの「天皇」の后妃を本文のほうでなく、「一書」のほうの記事で見ると、すべてが物部氏か、物部系の「磯城県主」の娘になっている。つまり、「欠史八代」の天皇とは、物部氏のところに「入り婿」した男達を、父系相続であったかのように記述したものだ、というふうに理解できることになる。穂積氏は物部氏の同族だ。
「一書」の記すところによる限り、「欠史八代」の「天皇」はことごとく物部氏系の娘が后妃になっている。十市県主は磯城県主と同族だし、磯城氏は物部氏から派生した氏族だから、当時、「母系氏族」の制度が行われていたとするならば、確かにこれらの「天皇」はすべて物部氏の娘のところに「入り婿」した男である、ということになる。】<参考9>
高群逸枝女史による【古代豪族の母系相続】
上記の様に、父系で見たとき断続的に繋がっていた各天皇が、母系で見ていくと一繋がりになります。この母系制の継承は、古代豪族も同様で、少なくとも上流階級を貫く婚姻様式となっていたのです。こうして、母系制によって各祖霊神を受け継いでいった天皇・豪族達ですが、実は、その皇后の出自はみな同じでした。つまり、古代豪族はみな同族だったのです 😉
③古代豪族はみな同族=葛城系豪族ネットワーク
【葛城一言主神社によると、一言主神は、葛城氏と賀茂氏の氏神だという。そこで、改めて「葛城氏・賀茂氏系図」を確認すると、蘇我・葛城両氏族の出自に関する明確な記載があったのである。陶津耳(八咫烏・加茂建角身)の孫、劔根命が葛城国造、つまり葛城氏の祖であった事がわかる。
(中略)
つまり、通説では、出雲系、大和在来系など別系として分類されているようであるが、古代中央豪族は皆同族。すなわち八咫烏の系譜「葛城系豪族」であったという事が判明する。初代天皇・神武から少なくとも4代連続で、皇后(大后)は加茂・三輪氏から輩出されていた。この点は既に通説としても確認されている。その後、皇后は葛城・蘇我氏から輩出されている。この点も通説として確認されている事実である。その葛城・蘇我氏が加茂・三輪氏につながるとなると、少なくとも古代天皇家、大和朝廷において、皇后は三輪・加茂族を中心とする八咫烏の系譜・葛城系豪族の国であったという事である。】(『八咫烏の「超」日本史』より抜粋)
こうして、母系制を軸に信仰による社会統合が続いていきましたが、私有意識の浸透→氏姓制度の確立という私権強化の流れの中、さらに、大陸や半島の略奪(戦争)圧力が拡大してくると、現代まで続く強力な万世一系システムが構築されるに至ります 🙂
■現代まで続く母系万世一系システムの構築=葛城系シャーマン・オブ・シャーマンの出現→そして閨閥へ
①母系制による強力な万世一系システムの構築=葛城系シャーマン・オブ・シャーマンの出現
前述した様に、古墳造営ネットワークを母体に、現人神信仰(各地の神話伝承と中央政権の王の物語をつなぎ、各豪族の神格を中央政権の王の神格へ格上げすること)という形で、共認支配体制を確立していきます。この時、全部族の神を束ねる神(中央政権の王)が誕生し、その力を唯一受け継ぐのが葛城系シャーマンであると決定したのです。ここにシャーマン・オブ・シャーマンという新たな豪族統合様式が樹立し、この特権を求め、各部族から婿が送られてくることになります 😀
さらに驚くことに、この万世一系システムは現在まで続いているのです。各豪族を出自とする天皇家が葛城ネットワークと“血”の関係を得るため婿を送り込んだという構図は、豪族・大企業・政治家といった特権階級が皇族ネットワークと“血”の関係を得るため娘を送り込む構図と何ら変わっていません。
ここで注視すべきは、日本での万世一系システムは海外の私権特化国の万世一系システムとは全く異なるというところ。つまり、自族の血筋のみが重要視されるシステムではなく、皇族との血族集団との緩やかな繋がりを重要視するというのが、日本的共認ネットワークの特徴なのです 😉
「日本のニューエスタブリッシュメント 閨閥」より
ちょっと話しが現代に飛びましたが、社会統合力が信仰から武力に変わってくると、シャーマンによる母系万世一系システムも弱体化してきます。そこで台頭してきたのが、次回のテーマである父系万世一系システムです。詳しくは次回に回したいと思いますが、実は、この父系万世一系システムは、葛城による母系万世一系システムが形を変え、新たな統合支配体制を確立したものだったのです!
それでは次回をお楽しみに
投稿者 ISEZAKI : 2013年06月10日 TweetList
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