「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 プロローグ |
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2013年04月17日
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~2.徐福と縄文の出会い
写真はこちらからお借りしました。
「大和政権の源流と葛城ネットワーク」 1回目の今回は、古代豪族形成の起源となる「徐福集団」とはどのような集団だったのか、そして日本列島に住みついた彼らはどのように変化していったのかを皆さんと考えてみたいと思います。
いつものように、応援お願いします。
中国の歴史書:史紀によれば、紀元前219年、秦始皇帝の命を受け不老不死の仙薬を求めて、徐福は3000人、30隻の船で蓬莱山、すなわち日本列島を目指しています。
徐福は大陸の東端、斉の国の方士であり、秦始皇帝から仙薬を見つけるための莫大なバックアップを受け、日本列島に上陸しますが、そのまま大陸には戻らず日本列島に住み着きます。
方士とは神仙思想の呪術師のことで、占術や呪術、錬金術など当時の最先端の科学知識を有した存在でした。
写真はこちらからお借りしました。
徐福の渡来目的は秦始皇帝の日本列島征服の先遣隊という説もありますが、一ヶ所に上陸せず各地に分散して渡来していることから見て、秦始皇帝を騙して日本列島に逃亡する意思を持って渡来しまものと考えられます。力による征服を実行するのであれば、勢力を分散せず上陸してから一気に武力を発揮できるようにするはずだからです。
実は徐福はこの9年前に仙薬を求めて1回目の日本列島への渡来を行なっており、探索を経て日本列島の状況、すなわち縄文人たちの共同体性豊かな暮らしぶりを体験していました。
秦帝国のような力による支配ではなく、共認統合された縄文人の社会に衝撃を受けたのではないかと想像します。
そして、秦帝国からの脱出、日本列島への移住を目的として周到な準備を行ない、秦始皇帝を騙して2回目の渡来を実行しました。
日本列島各地には今も「徐福伝説」が数多く残されていますが、どれも渡来人徐福集団と争ったというものではなく、様々な先端技術をもたらしてくれたありがたい存在として伝承されています。
徐福伝説が残るのは、例えば佐賀県武雄市、福岡県八女市、鹿児島県串木野市、宮崎県延岡市、広島県宮島町、京都市伊根町、和歌山県新宮市、三重県熊野市、愛知県熱田神宮、静岡県清水市、山梨県富士吉田市、青森県小泊村、東京都八丈島、東京都青ヶ島などがあり、20ヶ所程度に分散して日本列島に渡来しています。
写真はこちらからお借りしました。
日本列島には徐福渡来より150年ほど前からも、大陸の呉の滅亡、越の滅亡、楚の滅亡のたびに、それぞれ闘争に敗れ逃げ出したボートピープルが何回も渡来していました。
彼らはそれぞれ少人数でそれこそ命からがら上陸し、縄文人に助けられ受容れられていきました。
様々な先進技術を持った渡来人は、縄文人と融合しながら縄文人部族を束ねる立場になっていきました。
縄文人は採取狩猟を行なって集落を構成し、共同体社会を営み、集団同士の闘争を止揚するため、黒曜石や翡翠などの贈与による集団間共認を目的とした縄文ネットワークを形成していました。
そして先行渡来人と融合した縄文部族は地域ごとに有力部族となり、列島各地に点在していきました。
その縄文有力部族の中に、後に葛城氏、賀茂氏、物部氏、忌部氏などを名乗る古代の部族がいたと考えられます。
この縄文ネットワークが基礎となり、秦始皇帝から逃亡してきた徐福集団同士の逃亡・防衛情報共有のためのネットワークが塗り重ねられていき、有力豪族間ネットワークが形成されていったのだと考えられます。
参考:縄文ネットワークについて
『贈与』という同類間の緊張緩和システム
そして彼ら、2480年前~2235年前に渡来したボートピープル=先行渡来人と融合した縄文人の有力部族たちは、2230年前に渡来した同郷の徐福集団を喜んで受容れました。実際、徐福集団が縄文人と争った形跡は無く、平和裏に融合が進んでいます。
徐福集団が征服目的で日本に乗り込んで来たのであれば、その後の日本の歴史は大きく異なったものになったでしょう。秦帝国がそうであったように、力の原理で縄文人を支配しようとしたならば、日本人の特質である自然に対する畏敬の念、豊かな同化能力、人類本来の原理である共同体性、すなわち縄文気質を失ってしまったでしょう。
しかし、徐福は一度目の日本探索で縄文人気質に触れ影響を受け、力の原理ではなく、共同体を維持しながら共認原理の中に入り込み、統治していく方法を見出していきました。
徐福集団が秦帝国からの逃亡者であり、生き残る場を求めて日本にやってきた弱者集団だったために、日本は世界的に見ても奇跡的な、人類本来の共同体性=縄文気質を現在まで残すことができたのです。
渡来した徐福集団は兵士や武器も有した集団でしたが、戦争になることも織り込みつつ、一方で縄文人に平和裏に受容れてもらえる可能性も描きながらやってきたのではないでしょうか。
童男童女を大量に同行していたのは、童子=鬼=魔除け、そして移住目的であると共に、征服目的ではないことを分かりやすく伝えたかったからとも考えられます。
縄文人から見れば、共同体を肯定し脅かすことなく、様々な先端技術を伝授してくれるありがたい存在と感じて受容れていき、徐福集団からみれば、闘争という疲弊する労力をかけることなく、先端技術や占星術などによって縄文人社会の上に立つことができたのです。
このように、大陸の江南人である徐福集団が縄文人及び先行融合縄文人と融合していったのが弥生人であり、青銅器や鉄製農具、土木技術など、様々な先端技術を日本に持ち込み、稲作を中心とした弥生時代を形成していきました。
写真はこちらからお借りしました。
そして、各地で縄文人と融合した徐福集団は徐々に勢力を拡大していき、またそれとは別に朝鮮半島からの渡来人らも受容れられ、伊豆、九州、紀伊、瀬戸内、美濃、北陸、高知などに融合部族の拠点をつくっていきました。
それが、葛城氏、蘇我氏、平群氏、大伴氏、巨勢氏、紀氏、物部氏など、古代有力豪族たちであり、同族意識を有した豪族だったのです。
例えば葛城氏は伊豆に拠点を構えましたが、現在でも伊豆には葛城山、桂川、狩野川、賀茂郡などの地名が残っています。
彼らはお互いに闘争せずに共存することを目指していきましたが、渡来時点の成功体験である縄文人の受容れ体質、融合による発展、つまり「闘争支配より共認共存」の融合路線で争いを避けながら、共存を図っていきました。
古代の有力豪族は互いに勢力争いをしていたのではなく、ネットワークで結ばれて互いに情報を共有しながら共存を目的として連帯していました。
歴史上、豪族同士が争った事例は勢力闘争ではなく、共存の連帯破り、私権性を顕現させた者たちに対する共認ネットワークからの排除、共認社会を守る営みだったのです。
以上見てきたように徐福集団の渡来により弥生時代が幕開けますが、縄文人の共同体性に触れ融合されていく中で、渡来人自身も縄文気質に影響を受けて共同体性を有していき、日本人の基底を形成していきました。
さて次回は、古代豪族たちはどのような目的でネットワークを作り、どのようにネットワークで結ばれていたのか、そしてどのように大和朝廷を作っていったのか、追求していきたいと思います。
ご期待下さい。
投稿者 sinkawa : 2013年04月17日 TweetList
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