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2013年10月06日

江戸時代は縄文の再生8.~大政奉還で日本を救った江戸幕府~

 東方見聞録には「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。また、ジパングの人々は偶像崇拝者であり、外見がよく、礼儀正しいが、人食いの習慣がある。」と書かれています。
(ウィキペディアより)
 江戸時代とは国内的には極めて安定した260年間でしたが、世界を見渡すと大航海時代から産業革命、さらに中央銀行による金貸し支配が始まる欧米を中心とした大激動の略奪社会が横行した時代に当たります。
 このような世界情勢の中、金銀財宝を目当てとした侵略目的から考えても、偶像崇拝という一神教の宣教対象としても、日本は大航海時代の格好の標的だったのです。
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画像はこちらからお借りしました。
 江戸時代は縄文の再生シリーズ第8回目は、この諸外国からの侵略圧力に対して江戸幕府がどのように対抗してきたのか、そして開国、大政奉還へと至った真相に迫ってみたいと思います。

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1.開国要求とは白人による植民地化への圧力だった
 15世紀、複数の帆と羅針盤を備えた大型船が発明され、大航海時代が始まりました。スペインはコロンブス(1492年)に西回りでインドを目指させ、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマ(1498年)はアフリカ南端の喜望峰回りでインドへの航路を発見しました。
 そして、その後新大陸にやってきた西洋人は、先住民たちの国々を次々と植民地化していきます。大航海時代とは地理上の発見の歴史として教科書に記されているが、その内実は略奪と虐殺の歴史だったのです。以下、「心豊かな未来への処方箋」より引用です。

●西を目指したスペインの中南米侵略
コロンブスに続き西インド諸島にやってきたスペイン人は、そこで略奪の限りをつくし、1496年頃から1540年までの数十年で、カリブ海を中心とする中米の先住民はほぼ絶滅させられました。1621年スペイン人コルテスは、メキシコのアステカ帝国(皇帝モクテスマ)を滅ぼしました。数百万人を殺したとされています。コロンブスが始めて到着した1492年から1570年頃までに、中南米の先住民を数千万人殺して、金銀財宝を奪ってヨーロッパに持ち帰ったのです。
●東を目指したポルトガルの東洋侵略
バスコ・ダ・ガマが発見した喜望峰回りでインドに到達する航路をさらに東にたどり、ポルトガルは次々にアジア諸国を征服して行きました。目的はもちろん貴重な香辛料(胡椒、肉桂など)で、大儲けするためでした。1511年にはマレー半島南部のマラッカ王国(当時全盛期)を征服し東洋貿易の拠点にし、その後大発展!1557年には南シナ海を北上し、マカオを獲得。その少し前の1543年には、台風で難破したポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えたのです。そして1549年ポルトガル人の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、キリスト教の布教を開始しました。バスコ・ダ・ガマからたった数十年で、ポルトガルの東洋侵略の野心が日本まで及んできたのです。

 つまり、東回りのポルトガルと西回りのスペインが出会う極東の地が日本ということになります。
 この時期から日本は開国(=植民地化)の圧力を受けていたことになります。日本に対する開国要求とは、欧米による日本を植民地化するという以外の何ものでもありません。(その点では元寇も同じです。)
 では、日本人はどのようにこの外圧に対抗してきたのでしょうか。
2.鎖国によって植民地化を逃れた日本
 1596年にスペイン船が土佐(高知)に漂着した時に、その水兵の一人が取り調べの時に発言した記録が残っています。

「我が国イスパニア(=スペイン)は、この世界地図で分かるように広大な領土を持っている。」どうしてそんなに領土を拡大したのかと質問されると「我が国ではまず宣教師を派遣してその国にキリスト教徒を増やし、信者の数が相応の数になった時に軍隊をさし向け、信者の内応を得てたやすく国土を征服するのです。」

 この情報やキリシタン大名の数々の悪行(奴隷売買、神社仏閣の破壊など)から、江戸幕府は、キリシタンは危険であり、放置すれば、いずれ欧米諸国に日本が乗っ取られてしまうという危機感を抱きます。そして、鎖国政策という名の下に、全面的なキリスト教の禁圧に乗り出したのです。キリスト教を炙り出す檀家制度や5人組制度、キリシタンの摘発を目的とした踏み絵などを通して、江戸幕府は何百年にも渡って徹底的にキリシタンを排除し続けました。
3.欧米では金貸しによる支配が進行
 支配網がイエズス会から東インド会社に移行した時点で布教という大義名分はどこかに吹き飛び、西洋は「資本主義」という剥き身の刃で世界中に切り込んでいくことになります。自国産業の興隆のためにインドを潰した英国は清帝国をも阿片漬けにして呑み込みました。
 これまでは武力が力の源泉であり、支配力を決定付けていましたが、1815年のワーテルローの戦いからロスチャイルド一族が台頭し、金貸し勢力=資本家達が国家を凌ぐ富と権力を手中に収めるようになります。そして、その絶大な資本力を背景に、次々と戦争を仕組み、国家を相手にお金を貸し、中央銀行を設立し、世界を支配しはじめたのです。
4.圧倒的な武力の前に成すすべもなかった日本
 金貸しの魔の手は、当然日本にまで届いてきます。これまで、鎖国政策によって頑なに欧米諸国からの圧力に抵抗してきた江戸幕府でしたが、金貸し勢力の巨大な武力の前では成すすべもありませんでした。
 江戸幕府が200年以上に渡って、諸外国からの侵略を防ぐことが出来たのは、鎖国政策があったおかげもありますが、日本が島国であったことも見逃せません。江戸時代の日本には、大名という軍団が全国津々浦々に配置されている国でもありました。
 中国にせよスペインにせよ、当時の船舶では海の上から地上の施設を攻撃することは不可能ですから、必ず上陸作戦を敢行しなければなりません。しかし、地方の島に至るまで大名軍団で固められている日本には、最低でも40万人の兵士を動因することができます。(陸軍40万人ということ)当時の船はせいぜい500人くらいしか乗れませんから、それに対抗できる人数を上陸させるのは到底不可能なことだったのです。だからこそ、軍事の天才徳川家康も、海外からの侵略はまったく心配しておらず、国内勢力の反乱防止に集中することができたのです。
 しかし、これは敵は陸路で来るという大前提があってはじめて成立します。もし、巨大な大砲そして大量の兵員を搭載できる強大なパワーをもつ船ができたら・・・・
 幕末に来航したペリー率いる黒船はまさに、このようなパワーと脅威をもった戦艦だったのです。この黒船の来航により、いままで鉄壁だった日本の防衛ラインはもろくも崩壊することになったのです。
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画像はこちらからお借りしました。
 この圧倒的な武力の前では、幕府も鎖国政策を強弁するわけにいかず、ついに開国へと踏み切ることになります。その後の金貸し達による日本攻略の手口は次のようなものでした。以下、『日本人が知らないニッポン』より引用です。

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 明治維新をロスチャイルド家の視点からみてみるとこうなります。
 初め、日本と貿易を始めたロスチャイルド家の代理人(グラバー)は幕府の体制が古いため、なかなか効率よく取引ができません。
 そこで地方の若者(この場合、薩摩藩・長州藩の下級武士)に資金と武器を提供し、クーデターを起こさせます。自分たちが教育し、支援した若者たちが政府を転覆し、国を乗っ取ります。
 ロスチャイルド率いる資本家達は、彼らを通じて日本を支配し、有利な関係を結ぼうとしたのです。

5.大政奉還で日本を救った江戸幕府
 金貸し達の思惑は、薩長らによる倒幕軍と幕府軍の両者に資本を提供し、お互いが疲弊するまで戦わせた後、支配しやすい側に付き、新政権を立ち上げることでした。しかし、その思惑に反し、徳川慶喜は政権返上(大政奉還)を決断します。
 この大政奉還という政治方針に当時の江戸の諸藩は驚き、意表をつかれたと言います。なぜならば、徳川は武力も資金力も国内では圧倒的に超越しており、いざとなれば薩長と一線を交えて押し切る事もできたからです。しかし、それでも慶喜が大政奉還を実行したのは、自らが退くことで無用な内乱を回避し、金貸し勢力による日本侵略を防ぐことにあったのではないでしょうか。
 ここで、改めて金貸しが仕掛けた戦略を見てみます。
まず、金貸しが作り上げた驚異的な武力国家が相手国を脅す。
          
相手国家の政権勢力は金貸しから金を借りるか、組み込まれるかの選択に迫れる
          
同時に金貸しは国内の反対勢力に優先的に融資し、武器を売り込む
          
やがて、国内で力が拮抗し内乱が勃発する
          
金貸しに実権を握られた反対勢力が政権を執る
          
実態は、金貸しがバックに付いた傀儡政権であるため半植民地と化す
 この戦略と重なって見えるのが、キリスト教の布教による植民地戦略です。この戦略は前述した通り、
まず宣教師を派遣してその国にキリスト教徒を増やす。
         
信者の数が相応の数になった時に軍隊をさし向ける。
         
信者の内応を得てたやすく国土を征服する
となります。この二つの戦略に共通する点は、反乱分子を相手国内で育て上げ、相手国内を混乱させた後に本体が乗り出して征服する、という点です。
 大政奉還は、徳川幕府が力を失い全てを放り投げたかに見えますが、もし上記の構造を見抜いた上での政策だとすれば、鎖国政策と同様、徳川幕府が最後に執った縄文的施策だった言えるのではないでしょうか。
 秀吉の臣下の頃から「キリスト教布教」=「西洋の植民地政策」と見抜いた家康、その意思を継ぎ、何代にも亘って鎖国政策を貫いてきた徳川一門であれば、金貸し連中の巧妙な戦略に気付くことができた可能性は十分にあります。
 江戸時代に日本が欧米諸国らによる植民地化から免れることができたのは、徳川幕府の「鎖国政策」「大政奉還」というだ大英断があったからと見ることができます。そして、その後の明治時代以降に、日本が白人国家に劣らない近代国家を目指して国作りをはじめることが出来たのも、縄文体質を受け継いだ徳川のこれらの精神、戦略の土台の上に成り立っているのだと思います。
参考文献およびHP:
『こころ豊かな未来への処方箋』
『日本人が知らない日本』
『井沢元彦の激闘の日本史』 著:井沢元彦
『徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?』

投稿者 hi-ro : 2013年10月06日 List  

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