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2013年06月11日

東にあった「もう一つの日本」~7.謎のクニ“尾張”の本質は「交易ネットワーク」にあり

“東北”“関東”に続き、今回は“尾張”を取り上げます
尾張は、日本列島のほぼ中央に位置し、東西交通の要衝であるだけでなく、太平洋に繋がる伊勢湾・内陸部に繋がる木曽三川を通じた、モノ・ヒトなどの往来が活発で、さらに美濃・飛騨を通じて北陸とも繋がる、古来から“交易ネットワーク”の中心地として栄えた地域です。
■弥生時代~江南からの渡来人=海人族が作った交易ネットワーク
尾張の交易ネットワークの始まりは、伊勢湾沿岸に居住した海人族にまで遡ります。海人族は、弥生時代初期に渡来した江南人だと考えられています。彼らは稲作技術を携えていたとはいえ、航海漁撈民族であり、狩猟採集民族である縄文人との結びつきは、容易であったと思われます。海部郡のように海人族・海民の居住地である郡を中心に漁撈に携わり、船を通じて非常に広く列島の各地への交易を主要な生業としていました。
尾張というと、濃尾平野という広々とした平野があり、非常に豊かな農業地帯、とくに稲作が広く行われている稲作地帯と考えるのが、一般的な捉え方ですが、これは多分に江戸時代以降に作られてきた見方で、中世以前のこの地域の地形を考えると、現在から想像できないくらい、河と海に恵まれた地域であり、むしろ「河海の世界」といったほうがいい地域だったのです。

こうした海上交通を考えた場合、「尾張」よりも「伊勢」のほうがより利便性が高い地域で、おそらく古代の海人族は、伊勢湾を取り囲むように分布し、伊勢湾を行き来していたものと思われます。現在の「尾張地方」は、愛知県の中のもっとも西寄りの一地域ですが、ここでは伊勢湾沿岸を含む交易ネットワーク全体を“尾張”として考えていきます。
尾張は、日本の中心として“都”が置かれることはなく、「東国の西端」または「大和朝廷の東端」など、どちらかと言えば中央から外れた地域と捉えられてきました。ところが、実は、東西問わず、時の政権の成立に大きな影響を与えてきた、と考えざるを得ないような遺物も見つかってきています。
表舞台に立つことがなかった尾張勢力が、どのように時の政権に関わってきたのか?それを時代を遡って見ていきます。正史には登場しない、もう一つの日本=謎のクニ“尾張”の本質に迫ってみます。

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■弥生時代~尾張を中心とする東海文化圏
愛知県の“朝日遺跡”は、尾張の弥生時代を代表する遺跡の一つで、吉野ヶ里遺跡にも匹敵する巨大な集落です。遺跡からは土器、石器、骨角器、木製品、金属器など膨大な量の出土品がみつかっています。最盛期には1000人もの人々が生活していたと推定され、遠隔地との交流も盛んに行われていました。朝日遺跡は、多くの人とモノが行き交う東海地方最大の弥生時代の都市でした。
<西日本における祭祀形態の違い>
写真はコチラから

弥生時代後期の銅鐸には、三遠式と呼ばれる三河・遠江に出土例の多い一群の銅鐸があり、静岡から東関東には文様を欠く小銅鐸もあります。これらの銅鐸や小銅鐸は、朝日遺跡で制作され流通していた可能性があるようです。弥生時代には、東海地方・東日本西部には、近畿とは異なる文化圏が形成され、その発信の中心に朝日遺跡があったのです。
この三遠式銅鐸文化圏とは、尾張が形成した交易ネットワークに他ならず、ネットワークを通じて盛んに各地と交易を行い、都市を拡大していったのでしょう。ただし、この時代は、近畿や関東などと併存する地域文化圏のひとつだったようです。
■弥生時代後期~東海系土器の東西への拡散
弥生時代から古墳時代へと移りかわる頃、列島規模での大きな変化が起こります。東海地方西部、すなわち伊勢湾沿岸部の土器が、西日本や東日本の広い範囲に拡散する現象もその1つです。
独特な口縁をもつ“S字甕”は、伊勢湾系土器の象徴的な器種ですが、その分布は、奈良県の纏向遺跡をはじめ、瀬戸内、北部九州まで点在し、東日本では、北陸地方、信州から北関東、静岡以東の南関東、最終的には東北地方南部にまで及んでいます。
纏向遺跡では、各地の土器が見つかっていますが、その内およそ半分は東海系土器が占めています。土器の移動とは、単にモノが移動するだけでなく、土器を使った祭祀や文化、そしてそれを伝える人の移動も伴っていたと思われます。
<第1次拡散期(東日本へ)>       <第2次拡散期(近畿ヘ)>
写真はコチラから
 
ほぼ同時期に東日本(西暦200前後)と西日本(西暦250前後)に拡散していきますが、それぞれの地域に拡散したS字甕の形状が微妙に異なるのは興味深いところです。その地域に受け入れられ易いように、地域の特性に応じて微妙に形状など変えるなどの工夫がなされたのかも知れません。
交易ネットワークが日本海側にも達し、大陸や半島の最先端の文化や技術を入手できる交易ルートを確保したことが、尾張が東西に向けて土器やそれに伴う文化を発信するに至った契機だと思われます。尾張という地は、太平洋岸の中で最も日本海までの距離が短い、という地の利を生かし、日本海~太平洋を結ぶ交易ルートを確保し発展していったのだと思われます。
■古墳時代初期~前方後方墳も尾張発
さらに、尾張を震源とする拡散の波は土器だけに留まらず、土器と重なるように“前方後方墳”が各地に広がっていきます。この“前方後方墳”という新しい墓制は、中部、北陸、関東などの東国にいち早く拡散・定着していきます。これは、東国での部族連合(前方後方墳連合)の成立を意味します。
ここで注目されるのが、日本で最初の前方後方墳が、尾張で生まれていたこと、ヤマトに纒向遺跡が誕生したちょうどそのころ、尾張の人びとが各地に拡散し、同時に前方後方墳も伝播していること、そして纒向に大量の東海系土器が流れ込んでいたことです。この一連の動きを総合すると、尾張がヤマト建国に果たした役割の大きさが伺えます。
前方後方墳拡散の波は、古墳時代前期初頭(3世紀後半)に奈良盆地にも波及しています。それに対抗するために、近畿勢力が採用したのが“前方後円墳”による西の部族連合であり、それがヤマト建国だったのではないでしょうか。その時、ヤマトに力を貸したのが尾張勢力ではないかと思われます。 “大型墳墓”は、当時の最先端の技術であり、当然、近畿勢力はそれを持ちあわせていません。この時点で力を貸せる勢力は、既にそれを把握していた尾張しかなかったはずです。
<早期古墳時代の主要前方後円墳と前方後方墳の分布図>
写真はコチラから

「尾張は前方後方墳を広めたのだから、ヤマトにとっては敵だったのではないか?」とも思われますが、どうも尾張は前方後方墳勢力そのもではなかった疑いがあります。尾張の地では、はいち早く前方後方墳の造営を始めながら、少し遅れて前方後円墳の造営が始まります。そして、ヤマト勢力の優勢が見えてくると、いち早く前方後方墳を捨て去ってもいるのです。
また、尾張は、東西のどちらかの勢力の支配下にあったのではなく、その時々の時勢を的確に読んで、どちらに可能性が有るかを判断し、状況に応じて後押しする勢力を乗り換えていたと思われます。

■王朝交代に深く関わっていた尾張氏
この時代、尾張を本拠地としたのが“尾張氏”です。尾張氏はヤマト政権成立後も大きく関わり続けています。
第二期ヤマト政権の“応神天皇”、そして近江王朝の“継体天皇”に、一族から高妃を入内させています。王朝が新しくなるたびに尾張氏は皇室に妃を出し、しかも、その王朝は前の王朝とはまったく違う系譜で登場しています。さらに、天武天皇は大海(おおあま)という尾張氏の祖の名前を幼名にし、壬申の乱の際にいの一番に尾張氏の援助を求めています。
このように、旧態前のヤマト系氏族とのしがらみのない心機一転の場合に尾張氏が登場していることが注目されます。王朝の交代、つまり新たな支配勢力の登場、そして新しい社会統合様式への移行期に、尾張氏が登場し、その実現の鍵を握っていたのです。それだけ、尾張ネットワークが持つ情報収集力は卓越したものだったのでしょう。新しい社会統合様式への移行を後押しすることで、さらに自分たちの交易ネットワークを深く張り巡らせていきました。
■中世以後 新政権の登場と尾張の関わり
尾張氏の衰退後も、新政権の登場と尾張勢力の関わりは続きます。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、熱田大宮司の娘を母に、1147年に現在の熱田区旗屋で生まれています。また、戦国時代になると尾張国は、織田信長(現在の名古屋市出身)と豊臣秀吉(現在の名古屋市出身)といった大物武将を出し、そして江戸幕府を開いた徳川家康の出身地は三河です。
このように、中世以後も、新たな政権の登場時に尾張という地が、深く関わりを持っていたことが分かります。尾張勢力は、全国に張り巡らしたネットワークを屈指し、いち早く有望な勢力を見つけ出し、裏から新政権確立に力を貸していたのではないでしょうか。
江戸時代以降は尾張の交易ネットワークの関わりは見えなくなります。江戸時代は、戦争のない時代が長く続き、商業が飛躍的に発展しますが、この時代の社会は、交易ネットワークが目指した1つの完成形だったのかも知れません。
■まとめ~尾張ネットワーク=徐福ネットワーク?
こうして見ると、尾張は商人がその本質であり彼らの武器は“交易ネットワーク”を土台とした圧倒的な情報力だと分かります。商人故に、決して表舞台の中心にならず、影から時の政権を支え、実質は交易ネットワークの拡大に尽力を注いできたのではないでしょうか。
それにしても、尾張はなぜ、ここまで強大なネットワークを形成でき、時の政権の成立の鍵を握ることが可能だったのでしょうか? やはり、ここで思い起こされるのが、『弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈』で取り上げた“徐福ネットワーク”です。
<熱田神宮>
写真はコチラから
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実際、尾張の地にも徐福に係わる伝説が多く存在します。愛知県西部にある熱田神宮。熱田の地は昔「蓬莱島」と呼ばれていました。かつて海に突き出ていた地形が神仙思想に語られる不老不死の仙人が住むという島に見えたのでしょう。あるいは仙薬を探し求めて徐福が立ち寄ったことから「蓬莱」の名が付けられたかもしれません。また,伊勢湾から三河湾に進んだ徐福一行の足跡が残されているのが愛知県東部にある豊川市の小坂井町です。そして,三河山間部には鳳来(ほうらい)山と呼ばれる山があります。 

弥生時代、徐福が日本に与えた影響は計り知れない。彼が農業、機織、鉄工などの技術を導入したのは言うまでも無く、銅鐸と祭祀による統合様式を定着させた意義は大きい。
徐福一行は兵士を携えた武力集団であったが、武力行使した形跡は見当たらない。
彼らは、先住の縄文人との同化を試み、共認形成を図ることで融合し、統合していったのであろう。
弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈

高い同化能力と高度な技術や認識力をもつ徐福ネットワークは、後の尾張ネットワークへと受け継がれ、東西問わず、時の権力闘争のキャステングボードを握っていた存在だったのではないでしょうか。
その一方で、東西勢力間の対立構造を作り出し、その外圧により各勢力の社会統合様式の発展を促し、また、外圧が変化し、既存の勢力(とその社会統合様式)では適応できなくなってくると、新たな社会統合様式のしかけを提供し、その実現を新勢力に委ねてきました。その結果として、日本の社会を発展させ続け、“江戸時代”という完成形を実現した、“影の立役者”だったのかも知れません。

投稿者 sai-yuki : 2013年06月11日 List  

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