「縄文体質を切開する」5~未開部族に見る本源規範~ |
メイン
2010年05月04日
長江と連なる縄文:4200年前に始まる長江文明の崩壊と東アジア・環太平洋の民族大移動
>縄文時代1万年を通じて中国江南地方からかなりの規模で江南人(越人)が漂着していることが明らかになっている。(るいネット 世界規模の気候変動が4200年前に起きている。~この時期の流民が縄文人を形成した!?)
約4200年前の気候変動→北方部族の南下は、東アジアそして環太平洋の民族大移動を引き起こしている。安田喜憲氏は南方系のポリネシア人も、この時代に中国南部から拡散したという仮説を立てており、縄文人もその一派と考えることができるかもしれません。
●4200年前に始まる第一次長江文明崩壊 安田喜憲氏 『稲作漁撈文明』より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・4500年前を境として長江文明の遺跡は突然、爆発的に巨大化する。「4500年前にメガロポリスの時代に突入した」とみなされる。ところがその巨大化した都市は4000年前に忽然と姿を消すのである。
・4200年前の気候の悪化は、黄河流域を本拠地とする北方の畑作牧畜民の南下を引き起こした。彼らは馬に乗り青銅製の武器を手にしていた。怒涛のような畑作牧畜民の侵略によって、長江文明の担い手だった稲作漁撈民は、雲南省や貴州省の山岳地帯へと落ち延びたのではあるまいか。
・そしてこうした4000年前以降の中国大陸部での民族移動の波は、東南アジアさらには台湾を経て、南太平洋にいたるポリネシア人の東方への大拡散をもたらす契機となったとみなされる。
・長江流域に暮らしていた百越とよばれた稲作漁撈民を追い出し、一部の人々は雲南省や貴州省の山岳地帯へと落ち延び、海岸にいた人々はボートピープルとなって太平洋や東シナ海に漕ぎ出した。その南への移動が台湾からミクロネシア・ポリネシアへの大航海による民族移動の契機となったのではないか?
・近年そうした民族移動があった可能性が、ミトコンドリアDNAの分析からも指摘されるようになった。篠田謙一氏は、ミトコンドリアDNAのハプログループBをもった人々は、およそ4万年前に中国の南部で誕生しその一部の人々は東アジアの海岸沿いに北上し、北米大陸から中南米大陸にまで移動した。
一方、もう一つのグループは中国南部から台湾そしてミクロネシア、ポリネシアの南太平洋に拡散し、一部は南米西岸にまで到達したという説を提示した。・・・・・
こうした環太平洋文明圏を創造した人々こそ、長江文明の末裔ではなかったかというのが私のもう一つの仮説である。篠田氏はミトコンドリアDNAハプログループBを持った人々が南太平洋に進出するのは6000年前以降のことであると指摘しているが、私は、この4200年前以降の民族大移動が太平洋への大航海を生み出す契機を作ったのではないかとみなしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用以上)
4500年前の長江の遺跡の巨大化とは、その時期からすでに北方からの圧力を受けていたということを示すのではないだろうか?北方牧畜部族の強大化に対抗し、南方稲作漁撈部族も部族連合を形成し規模拡大を図った。
しかし4200年前の気候変動を期についに北方部族が南下。武力に勝る北方部族が長江文明の南方部族を征服し、逃げ延びた部族は四方へ拡散していったのではないだろうか?
■付録:篠田謙一氏の研究について
>上図に見るように中国南部から東南アジアにかけて高い人口比を示し、太平洋の島々に拡散した人々の90~100%がこのmtDNAが欠損した人々である。しかし、この海洋民族といわれる人々の拡散は、たかだか6,000年前以降の話である。引用(図版共):亜型B–環太平洋に広がった集団より
亜型Bは、南米でも高い人口比をみせる。この伝播ルートは中国南部から東アジアの沿岸を北上して新大陸に至り、そこからさらに海岸沿いに南下したと考えられるという。
それにしても中国南部の長江文明崩壊は、世界の民族移動にかなり大きなインパクトを伴っていたことが伺えます。
長江地域の文明の崩壊はさらに続いて
●3500年前に始まる第二時崩壊 安田喜憲氏 『稲作漁撈文明』より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・東アジアにおいて3500年前~3200年前の気候寒冷化の時代は、民族移動の嵐がふきあれた時代でもあった。3500年前に始まり、3200年前に極限に達する気候悪化期に、東アジアでは再び北方から周を代表とする畑作牧畜民の侵入があり、中国は春秋戦国への大動乱の時代へと突入した。
・この時代も大量の難民が雲南省や貴州省に移動すると共に、メコン川や紅河さらにはイラワジ川を下って、東南アジアへと人々が移動した。
・日本列島にソバの栽培や水田稲作が伝播するのがこの時代であることは、この気候悪化の影響を受けた人々が民族移動によってやってきたためであるとみなすことができる。
・3500年前以降、東南アジアのトンレサップ湖周辺でも稲作が広く行われるようになる。東南アジアの稲作の起源は4200年前の気候変動によってメコン川や紅河を南下した人々が稲作をもたらしたことに起源すると私は考えているが、この3500年前の気候悪化によっても大量の難民が押し寄せ稲作が広くおこなわれるようになったのである。
・東南アジアの稲作の開始は、4200年前の気候変動による稲作漁撈民の大移動まで確実にさかのぼる。インドネシアのバリ島では稲作の起源は4300年前まで遡ることが指摘されている。しかし東南アジアに水田稲作農業が広く拡大普及するのは、この3500年前頃から始まる気候悪化期以降のことではないかと私はみなしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用以上)
この第二次崩壊は、日本に弥生時代(かなり早期)をもたらし、東南アジア各地にも稲作をもたらした。(但し、日本で本格的に水田稲作が始まるのは、朝鮮半島を経由して2500年前ころ)
長江文明における稲作の開始は約7000年前に遡るという。ではなぜ、第一次崩壊時に稲作は周辺地域に広まらなかったのだろうか?そして長江と縄文はどのような関係にあるのだろうか?
縄文の盛期は6000年前ごろから(三内丸山遺跡は5500年前~)であり、長江文明と同時期であり、長江文明が崩壊してから縄文人が日本に渡ってきたと考えると辻褄が合わない。おそらくより前から中国南部が南方系採集部族の一大センターとなっており、長江と連動する形で日本にも同系の南方採集部族のセンターが出来ていた、それぞれ中国南部と日本で文明を発展させていた・・・ということではないだろうか?そして4500年以降は、長江文明は北方牧畜部族に追われ衰退、一方の縄文も長江の難民を受け入れつつも、長江文明を失い孤立化し寒冷化も相まって衰退過程に入っていく。
一方長江文明で稲作が発展したのは、長江周辺での人口の著しい伸びに対する環境を含めた特殊解として、漁撈採集民が稲作を採用したということではないだろうか?そして彼らは、人口密度が比較的少なく、稲作の必要のない地域に逃れた際には、その必要を感じないで漁撈・採集に戻ったと推測されます。
3500年前の崩壊は、既に4500年前に北方部族により征服され混交した部族の崩壊であり、それゆえに稲作を生業とせざるを得ない(単純な採集に戻れない)状況になっていたからと考えられるのではないだろうか?
■資料
〔長江周辺の稲作の開始時期〕 日本人の源流を探して さんからお借りしました
※今回は、いままで読み溜めていたのを連休を使って整理してみました。
by Hiroshi
投稿者 ihiro : 2010年05月04日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/05/968.html/trackback
コメント
投稿者 鯉太郎 : 2010年2月7日 19:26
未成熟な社会から少しずつ成熟した社会への移行は、性善説をとる西洋では、個々の本質になじむために努力を要するかもしれませんね。
日本等東洋に多い性悪説は、順応しやすいかもしれません。「恐れ」の思想かも知れませんね。
投稿者 milktea : 2010年2月8日 20:13
こんばんは。
人間は環境に左右される生き物であり、私権文明を問い直したところで、この文明がこの先も主流となるのは変わらないでしょう。日本型社会がむしろ特異であり、これは地政学的に辺境の島国だったから可能でした。人間を突き動かすのは欲であり、理性や理想ではないのです。
管理人様が私権文明に懐疑的なのはご自由です。しかし私権文明の否定なら、表現を変えた共産主義でしょうか?共産主義より私有財産が認められる方がマシです。共産主義時代のブルガリアに住まわれた「ブルガリア研究室」氏は、社会主義時代の悲惨な実態を書いていますよ。
http://79909040.at.webry.info/200904/article_1.html
投稿者 mugi : 2010年2月8日 22:05
>管理人様が私権文明に懐疑的なのはご自由です。しかし私権文明の否定なら、表現を変えた共産主義でしょうか?共産主義より私有財産が認められる方がマシです。
共産主義とは形を変えた私権制度です。
大衆の私有は認めませんでしたが、上位の支配層の私有はしっかり担保されていました。
もちろん共産主義は化けの皮が剥がれ今やどの国もそこに可能性を見出していません。
私権文明とはわずか5000年間に過ぎず、歴史的には人類史上わずか1%にすぎない社会です。それらが限界に達しているのはあらゆる事象から見てほぼ明らかなことなのではないでしょうか?問題はその現実を見るか、目をそらすかです。
確かにこの先しばらくは中国が引っ張り、私権文明の最終局面が続くでしょう。その意味ではmugiさんがおっしゃるように主流に見えるかもしれません。しかし、何万年というスパンで見たときにこれまで社会を閉塞に向かわせ、これからの永続的な社会にならないこのシステムはどこかで人類は見限らねばなりません。
その根拠はmugiさん自身が最初に提起した可能性です。
>人間は環境に左右される生き物であり・・・
環境はすでに私権社会にNOを突きつけているのではないでしょうか?私達は無意識に考え始めているはずです。
投稿者 tano : 2010年2月8日 23:43
mugiさん、こんばんは。
>この文明がこの先も主流となるのは変わらないでしょう。<
>人間を突き動かすのは欲であり、理性や理想ではないのです。<
とおっしゃってますが、その根拠はどこから来るのでしょうか?
まず、これまでの私権文明がどういうものだったのか、その本質と、それが人類にとってどういう結果をもたらしたのかを、冷静に見る必要があると思います。
いきなり価値観的な発想から入ると事実が見えなくなると思いますので・・・・。
投稿者 火の鳥 : 2010年2月9日 21:44
丁寧な返信を有難うございました。
>tanoさん、
共産主義に限らず何処の国でも政治家や宗教家は、もっともらしいスローガンで民衆を騙す嘘の達人でもあります。あなたは私権文明とはわずか5000年間に過ぎないと仰いますが、その5千年の重みは非常に重いですよ。その現実から目をそらすのもまた問題ではないでしょうか?さらにその前の時代には戻れるとは思えませんね。
何万年というスパンで見たときといえ、その前に存続していなければ無意味です。全人類的な合意など人類史上あったことはないし、環境問題もまた私権というより利権が蔓延っていますね。
>火の鳥さん、こんばんは。
歴史を少しでも調べられたならば、人間の本質はいつの時代も殆ど変わらず、変化しなかったのは分かるはず。俗に「歴史家のペシミズム」という言葉がありますが、歴史を見るほど、私は懐疑的になりがちです。私権文明のもらたした結果を冷静に分析するのは知的散策でもあり、今後世界が変わっていくという根拠や確信があるでしょうか?
観念論で見ること自体、ある種の願望解釈であり、現実と人間性を無視しているとしか思えません。
以上不躾な意見ですが、失礼致しました。
投稿者 mugi : 2010年2月9日 23:03
>mugi さん、こんばんは
mugiさんのご意見にあるように、人間の本質は殆ど変わっていない、というのは事実でしょう。火を手に入れ、道具を生み出した時に、人間は他の動物より少しだけ、本能を効率よく動かす術を獲得したのですから。
ですが、例えば1000年前には唱えられなかった「人権」という概念が、現代にはあります。「破壊しつつある自然を、何とか保護しよう」という認識があります。
「過去を悪・だから未来こそ善を」ではなく、まず歴史をありのまま受け入れて、ほんの少しの工夫を持って「まぁ、こんなところでいいかな」と思える社会が構築
されれば上出来だとわたしは考えます。(とても個人的な意見ですが)
投稿者 milktea : 2010年2月10日 21:11
mugiさんへ
度々の返信をありがとうございます。
ブログが活性化して嬉しいです。
ただ一言反論を!
>あなたは私権文明とはわずか5000年間に過ぎないと仰いますが、その5千年の重みは非常に重いですよ。その現実から目をそらすのもまた問題ではないでしょうか?さらにその前の時代には戻れるとは思えませんね。
私権時代から目をそらしているつもりはないです。
むしろなぜこのような事態になったのか、私権時代の何が問題だったのかについてはこれまでも多くの投稿を当ブログや「るいネット」を通じて追求してまいりました。一言で言えば人類の本質である共認の裏返し、即ち鬼っ子である自我を拡大、正当化してきた時代が私権時代であり、5000年前の遊牧部族から発生した最初の略奪闘争以降、戦争を繰り返し玉突きのように拡大していったのが私権時代です。
ところが戦争や無用な争いはいつまでもできません。序列を認め、それに則って社会が統合され、ようやく安定した状態に再統合されます。王を中心とした国家という単位が出来る事で私権社会の秩序が形成されていきました。それから5000年、科学技術の発達もあり、人類は大衆的な貧困を先進国において脱出します。私権社会が永久に続けられるのであれば何も問題はありません。
しかし、全世界的な市場閉塞、金融破局に代表されるように現在あらゆるところで綻びが出始めています。その原因が400年前に登場した近代思想、その背後にある市場社会だとしたらそれに変わる時代の可能性を模索していくしかないじゃないですか。
少なくともこのままの社会でよいのだろうか?という疑問は多くの人々の意識の中に卵として顕在化してきており、今やその答えがないというところが最大の弱点となって議論が広がっていかないというジレンマに陥っています。
私権時代の前の時代を追求するという事は、その前の時代に戻れるとかそういう問題でありません。何の為に私達は歴史を学ぶのか、当ブログの最初の記事にある以下の部分です。
>人類の原基構造を解明できれば、その構造のどこが不変部分でどこが可変部分かを知ることが出来る。そして現代社会の諸問題(諸欠陥)と突き合わせれば、どこが変えてはならない部分でどこが変えるべき部分かを突きとめる事が出来る。
それを一つずつ仮説でもいいので歴史を学ぶ中で紐解いていく、先は長いですが、そういう主旨でこのブログを皆で運営しています。
建設的な議論として続きをされたい場合はぜひ、るいネットhttp://www.rui.jp/の方に投稿願います。
mugiさんのブログにも立ち寄らせていただきました。
非常に歴史をきちんと勉強されており、本格的なブログだと感心しております。方向性は異なるかもしれませんが、歴史から学ぶという姿勢は同じだと思いますので今後ともよろしくお願いします。
投稿者 tano : 2010年2月11日 01:09
技術の発達とは、すべからく”掠奪”の効率を上げるために必要とされたものといえます。
現代でも「最先端技術」が軍事技術であることを考えると、わかりやすいですね。
つまり、文明発祥以降、現代までの技術とは、その目的はすべて略奪の為であったことに気がつきます。
ここまでくると、本源集団の破壊度←掠奪の度合い→技術の発達度、このようにすべて近代までは常に西洋の方がその程度(=本源集団破壊度も同様)において進んでいたことと繋がりますね。