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2008年01月07日

漢民族の正当化観念“中華思想”の歴史

こんばんは、etoです。今年もよろしくお願いします。
以前、「中国文明のなんで?」にて、“なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?”というテーマをあげ、いくつかの書込みをいただきましたが、今回は“中華思想”について勉強しましたので紹介します。
●中華思想を平たく云うと?
「中華思想」の「中華」ですが、これは「中」と「華」からなっており、「中」は「世界の中心」を意味し、「華」は「夏」-支那史上初の世襲王朝「夏王朝」を表し-転じて「支那」自体を意味しています。つまり、「中華」とは、世界の中心である夏(華=支那)と言った意味なのです。
「中華思想」では、支那の周辺諸国は「野蛮な異民族」とされ、その地理的(方位的)所在に合わせて、東夷(とうい-朝鮮・日本)・西戎(せいじゅう-チベット・中央アジア)・南蛮(なんばん-東南アジア・インド)・北狄(ほくてき-満州・モンゴル)に分類されています。(以上、リンクより引用しました。)
●どのように中華思想が形成されたのか?
中華思想は春秋時代に形づくられたとされる。そして、その形成には漢民族の形成と周の文化が大きく関連している。
●では、漢民族はどのように形成された?
紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。すなわち、漢民族とは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「夷」「戎」「蛮」「狄」の子孫であり、夏・殷・周もこれら夷狄によって作られた国である。
そして中華思想は、周王朝の実態が弱まり、権威が薄くなった春秋時代に生じたが、その時代は漢民族が前から引き続き、さまざまの民族の血を取り入れて構成されつつある時代でもあった。ところが、政治的に周王朝の実態、権威がなくなっても文化的まとまりをもってきた漢民族は、周王朝の存在を否定するものではなく、たとえ形だけになっても周王朝の権威を尊重していた。
●周の権威がなくなった後も、周を尊ぶのは何故か?それが、周の文化の中心である徳や礼のためであると考えられる。そして、中華思想では特に「礼」が大きく関係している。
●周の社会システムにおける「礼」の役割とは?
周王朝の最大の特色は、周室と諸侯、諸侯と群臣とが周室を中心にした巨大な分節社会(封建制)を形成していることであり、しかもこの社会は、同血族社会ではなく、異性の者が分封されていたこと。さらにこの社会は、周王―諸侯―氏(卿・大夫)……と下部に至るに順って、即ち、周室を本とし、その分派が末端に及ぶに順って、その所有する財産(例えば領土面積・人民数など)が次第に逓減する所に在る。
 
周において、国の秩序を守るために政治の力や刑罰によって規制するのではなく、「礼」を重んじることで、人民のほうから近づいて来ると考えられていることがわかる。周時代における「礼」は、分節社会(封建制)の秩序を構成するために重要な役割をしていた。
●儒教における「礼」とは?
春秋時代、周の文化を再現することを理想とした人物がいた。それが孔子である。
『孟子』滕文公上に、(吾夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ずる者を聞かざるなり。)とある。ここには明らかに華・夷の差別が存在している。華・夷の別の出現、これが、中華思想が周を経て、春秋時代に形成されたと考える理由である。
周の時代、「礼」は社会構造の秩序を構成するものであった。それが、儒家の中では華・夷を区別する基準になっているのである。しかも、ここで重要なことは、華・夷の差別が種族的なものや血族的なものではないことである。すなわち、夷も華の「礼」を身につければ、華の仲間入りができるのである。
中華思想の特質について、地理的・文化的な要素から自国を世界の中心とする考え方は、中国以外の国(バビロニア・インドなど)にも存在していた。しかし中国には、他国とは明らかに違う要素が存在していた。それが、道徳的政治思想・王道政治という要素であり、この考え方は、他の国には見られないものである。
●中華思想とは?
中華思想は漢民族の形成と大きく関わっていた。つまり、中華思想は漢民族の持つ思想であると言っていいだろう。その漢民族を世界の中心とし、他の周辺民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と分けて蔑視することが中華思想である。そして、中華思想における差別は地理的なものではなく、文化的なもの(礼)である。
中華思想の一面である保守排外の傾向は、「我々は世界の中心である」とする中華の自負心・自尊心が傷つけられた時に現れる。そして逆に、国家の自負心・自尊心が傷つけられる事がない時、開放博愛へと傾く。中華思想の保守排外の傾向が強いとき、自国と「夷・戎・蛮・狄」の差別は強烈になる。そして、開放博愛の傾向が強い時、夷狄との婚姻・盟約が行われる。簡単に言えば、自分が危険だと思ったならば自分を守り、自分が安全だと思ったならば仲良くする。こう考えると、中華思想はなんとも単純なもののように見えてくる。
漢民族が形成され、日常生活において礼の考えが重視され習慣となる。その漢民族の習慣は周辺の国とは違うものであった。自分と他者との文化の違いを見ただけならば、周辺の国と友好関係を保つことができたのかもしれない。しかし、周辺の国が中華を圧迫する。その時、自己を守る必要が生じた。そこで、自らの文化を自らが尊いとする事で、周辺国家との格差を作った。そこで生まれたのが、「夷・戎・蛮・狄」の存在だった。ここに中華思想の二面性の完成を見る。
昔の人が、自分の住む地域を「中心」と考えるのは自然であろう。中華思想は、簡単に言えば自己防衛の手段だ。攻められるから闘い、平和であれば闘うことは無い。ごく単純なのだ。
(以上、「清朝の中の中華思想」より引用しました。)
★簡単にいえば中華思想とは、自民族(漢民族)を第一とする正当化観念であり、周時代の支配体制における成功体験を母胎に、「礼」という序列規範を中心観念として春秋時代に形成されたもの、と云えるのでしょうか。
さて、気になったのは、>夏・殷・周も夷狄によって作られた国である<という点で、王朝成立以前の古代中国において、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸民族がどのようにせめぎ合っていたのでしょうか。次回は、中でも西戎(羌族)の歴史について調べてみたいと思います。 (by eto)
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投稿者 nishipa : 2008年01月07日 List  

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コメント

>なぜ、良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化などの下流域の文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊したのか?
古代日本のルーツ 長江文明の謎(安田 喜憲著)によると、
このころ気候の寒冷化が生じたということが、花粉の分析によりわかっております。この寒冷化により、黄河流域の畑作牧畜民が南下し、稲作漁撈民の長江流域へ進出し争いがおこったと考えられています。したがって、上記の文化はこの争いで滅んだかもしれません。

投稿者 Kazu : 2008年8月17日 22:39

>なぜ、良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化などの下流域の文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊したのか?
古代日本のルーツ 長江文明の謎(安田 喜憲著)によると、
このころ気候の寒冷化が生じたということが、花粉の分析によりわかっております。この寒冷化により、黄河流域の畑作牧畜民が南下し、稲作漁撈民の長江流域へ進出し争いがおこったと考えられています。したがって、上記の文化はこの争いで滅んだかもしれません。

投稿者 Kazu : 2008年8月17日 22:39

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