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2011年10月12日

シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?1」~国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史

こんにちわちわわです。
このタイトルを読み解く上で、中国という国がどのようにして出来上がったのか?その初期は最も注目される時代です。それは、私権意識がどのように醸成され、いかにして集団自我が肥大し、略奪闘争が何を契機に勃発し原始共同体を破壊していったのかが、その国民の意識の基底部に刻印されるからです。
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     <黄河>
今回は国家形成前から最初の夏王朝の成立、殷→周王朝の支配と戦争の歴史をまとめ、春秋・戦国時代という戦乱の時代に突入していく背景を明らかにしていきます。
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■中国で略奪闘争は何故起こったのか?
大陸には以下のような民族が分布していました。
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遊牧社会と農耕社会との関係は、平時は、対立闘争関係にあるよりも、密接な経済的共存関係で結ばれていました。
農耕社会は生産が安定すると、蓄財が可能になり一定規模になると、余力が発生します。遊牧民と接する地域では毛皮、羊毛、乳製品などへの欠乏が顕在化し、遊牧民は、農耕社会が生産する穀物や絹織物などの手工業製品や塩などとそれらを交換する交換経済が成立していたものと思われます。
こうして、遊牧民と農耕地帯の境界地域では、盛んに交易が行われるようになりました。
移動をお家芸とし、父系転換により私有意識が芽生えた遊牧民は、交易による「だまし」が極めて効率的な生産力であることにやがて気が付き、遊牧から交易へ比重を移して交易に特化した商人も登場してきます。(7500年前、西アジアで始まった畑作もほぼ同時期に黄河流域で始まっていることや、西アジアの複雑な土器の様式が同時期に黄河流域に伝わっている事から、西アジア~中央アジア~中国には既に7000年前ごろには交易のルートが確立していた事が推測されます。)
この交換ー交易発の「だまし」の生産力を向上させるのに伴い、遊牧民は私権意識と集団自我を益々肥大させていったものと思われます。
しかしここから、中国の遊牧民の特性が発生します。それは彼らが草原発だからです。そしてその草原の東の端では遊牧が始まる頃に同時に黄河で既に農耕が営まれていました。
モンゴル高原からカスピ海までを繋ぐ草原の道は、気候変動の影響を受けやすい地域です。そのため、寒冷化・乾燥化が進んで草原の道の生産力が下がり、飢えの圧力が加わると、草原の遊牧民はモンゴル高原から黄河流域に南下し、農耕民から略奪するという最も効果的な収奪方法を取ることになります。
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しかし、遊牧民が侵略・定住し、支配国家の王朝に至るには更なる要因が必要です。
では、王朝はいかにして成立していったか、その過程を見ていきます。
■中国で侵略闘争はどのように発生したのか?
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黄河文明に先駆けて長江流域に都市を思わせる遺跡が多数存在します。
9000年前から、長江流域では水田稲作が行われますが、森林地帯の土地は肥沃で生産性が高く、穀物の余剰の蓄積も始まり、農耕だけで発達した都市がいち早く出現したものと思われます。
都市は環濠という堀に囲われたもので、初期は獣害を防ぐためのものだったでしょう。
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<城頭山遺跡の創造図(安田喜憲>
少し遅れて5300年前黄河中流域の西山遺跡で、中国では最古の城壁を持つ都市が発見されています。この西山遺跡が中国では最初の城壁都市となります。つまり5300年前に戦争に近い争いが黄河流域で勃発していた事を示しています。
5500年前~5000年前は寒冷・乾燥化の時期で、まず、遊牧民の生産力が低下し、飢えの圧力から、ついにイラン高原の遊牧民が5500年前ごろ侵略闘争を勃発させます。以後玉突き的にトルコ族、モンゴル族、ツングース族が南下し、黄河流域の畑作・牧畜民は侵略され服従し、農耕民を遊牧民が支配する集落が次々と誕生したものと思われます。こうして黄河流域近辺の遊牧部族間の緊張圧力が次第に高まってゆきます。
この5300年前の戦争は忽ち長江にも伝播し、長江流域でも突如として良渚遺跡や石家河遺跡のような城壁を持つ巨大な都市が出現します。おそらくは黄河から移動した先住民(苗族)達が見えない相手を恐れて城壁を築き始めたのだと思います。
■長江文明が突如消滅し、黄河流域が文明の中心になったのはなんで?
中国には先行して(6500年前)長江文明が起き、遅れて黄河文明(5300年前、実質は4200年前)という2大文明が発祥しています。しかしこの2つは発生時期においては別々の地域に発生した別系統の文明なのです。
4200年前、都市を築き繁栄の頂点にあった良渚文化は突如消滅します。既に黄河流域では夏王朝が誕生した時期とも重なり、黄河から降りてきた遊牧民が滅ぼしたと考えるむきもありますが、遺跡の調査から良渚文化は往々にして洪水層の下に横たわっている事実が判明し、この文化はインダス文明同様に、大洪水によって葬られた可能性が高いと思われます
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  <長江>
黄河流域でも氾濫はしばしばあったものの、人間が制御可能な地域があったのに対して、巨大な長江の自然の驚異は人間の手では対処できなかったのです。
黄河流域が文明の中心になったのは、中原が南北、東北の街道から交わる交通の要所であったことに加えて、河川にはさまれたこの地は防御に優れた要塞としての機能を持ち合わせていたことも大きな要因としてあげられるでしょう。遊牧民が交易を続け、農民を支配する上では黄河の環境はぴったり嵌ったのです。
■なぜ王朝が誕生したのか?(夏王朝の誕生)
中国の王朝は夏王朝が最初と言われています。それまでも遊牧民が農民を支配した集団は無数にありましたが、諸族をまとめた王朝となると4200年前まで時期が下ります。
4200年前から大陸では再度寒冷・乾燥化し、中央アジアで金属製の武器を発明し強勢を誇っていた印欧語族は、タリム盆地へと進出し、タリム盆地にいたチベット族による玉突きで、黄河上流域にいたチベット族が、移動。より豊かな土地を求めて東進し、黄河流域に侵出し、夏王朝を誕生させたものと思われます。
中原では、もともと血縁でつながった村落共同体が共同で農耕作業を行っていました。これを「邑」といいます。この邑が幾つも集まって中原に入った遊牧民=商人が支配する都市に属し、こうした都市が黄河中流域の中原ゾーンに数百集まり、この連合体の盟主として有力な部族が選ばれて「王朝」が誕生、各国の部族の長は「諸侯」として王朝を盟主と仰ぐようになりました。これが中国最古の夏王朝の始まりです。戦乱で勝ち抜く事をせず、連合の延長で”選んで”王朝という形態を作り出したのです。(西洋や中東が勝ち抜き戦で王朝が決定したのに対して、中国の場合は皆殺しをするほど外圧が強くなく、覇権、服属という形になったのが大きな違いといえます)
これは、定住支配が進むと、部族間の距離が近接し、緊張圧力が生じます。そこから安定期待が生じ、頂点の王朝に服属することで、部族間を序列により統合しようとしたのが王朝の出発点だといえます。
■王朝ってどうやって国を統合しているの?(反乱による殷王朝の成立)
中国はこの安定期待から連合ー王朝の形成を経て国家が形成されますが、それは一旦安定すると下克上という不安定状態を定常的に孕む事になりなります。殷、周といった王朝はその連続でした。
3500年前、夏王朝に服属していた殷族(モンゴル族)が反乱を起こし、夏王朝を滅ぼして、殷王朝を打ち立てます。
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<甲骨文字>
殷は漢字の原型である甲骨文字を夏王朝から引継ぎ、この甲骨文字を使って星占いや骨占いなどのを呪術で国事を決め、人や獣を頻繁に「生贄」に捧げる文化を築きました。
現地民の邑が、元々呪術による集団統合をしていたため、その呪術をさらに神秘化し、高度に見せることで、王朝の頂点の力を絶対化し、統合力を高めたのだと思われます。
さらに殷は交易を頻繁に行い大陸の各地から金銀銅や子安貝などを集め、富の蓄積により王朝の権威を高めようと努めました。殷という名は、そもそも後に殷を滅ぼした周によって命名されたもので、自らは「商」と呼んでいました。滅亡後、各地へ散った殷人は蓄財した子安貝を貨幣として用い、まさに「商人」となってゆくのです。
■邑=村落共同体はどのように崩壊したの(周王朝の封建制度)
3100年前になると、殷に服属していた周族(トルコ族orチベット族)が羌族(チベット族)と協力してモンゴル系の殷王朝を滅ぼし、周を建国します。 
殷が周辺部族を討伐し続ける好戦的で侵略性の高い王朝であり、また残酷な支配を続けたのに対して、周はそれでは国家を維持できないと考え、周王は「徳を敬い民を保つ」統治に転換します。これが後に孔子が理想化した徳治政治です。殷で発達した漢字を使った観念による統合へと進化するのです。
周は封建制をとり、諸侯の地位を保証する一方、貢物をささげ、軍事的奉仕の義務を負わせました。この封建に伴って、邑の中は支配者層(国人)と被支配者層(邑民)に分かれます。しかし、周辺部族の抵抗で領土が拡大停止に陥り、諸侯に与える領地を失うと、領土を細分化して与えるようになります。
土地が細分化されると生産性も下がり、農民は困窮していきました。
これ以上の細分化を防ぐために土地の長子相続制が採られ、その結果、家長に権力が集中し、分家が行われなくなり、長子以外の子供を労働者化していき、家族内でまとまった労働力が確保できると、邑の共同性は崩れ、家の考え方が強くなっていきます。
このように村落では共同体が崩壊し、王朝はその力を失い、春秋・戦国時代という群雄割拠の時代へと突入してゆくのです。
■まとめ(中国でどのように肥大国家が誕生し、戦乱へと向かっていったのか?)
①牧畜民から集団分割して発生した遊牧民は、母系制から父系制へと転換し、私有意識を芽生えさせます。
②移動を生業とする遊牧民は、豊かな定住農耕民と接し、交易=「だまし」により生産性を向上させ、私有意識と自我を肥大させてゆきます。
③そこに気候変動(寒冷・乾燥化)による飢えの圧力が加わると、略奪という最も生産性の高い手段に打って出ます。
④さらに、金属制の武器を手にした印欧語族の侵略から玉突き的に大陸全体に遊牧民による侵略が広がってゆきます。
⑤遊牧民が農耕民を支配服属させ、定住都市が交通の要所である中原に乱立します。
⑥その中で都市(部族)間の緊張圧力が増大し安定期待が生じ、部族間を力の序列で統合する王朝による支配国家が成立します。
⑦服属部族の反乱から王朝はコロコロ変わり、王朝の力の弱体化→支配層の農民の私物化から、農村の共同体が破壊され、戦乱の世に突入します。
中国はこのように有史以降は遊牧民が国を作り国を壊していった過程が長く続きました。
しかし、一点忘れてはならないのが、争いに塗れた支配層の下で農耕民は生産の担い手として重宝され、西洋のように皆殺しや殺戮は行なわれなかったという事です。支配者となった遊牧民は農耕民には容易に転じず専ら彼らから交易や徴税して搾取する事で生計を立てていたのです。それがこれから読み解く中国の基本構造ではないでしょうか?

投稿者 tiwawa : 2011年10月12日 List  

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コメント

五十音でもY行とW行は、後ろに置かれていますね。
ロシア語で私をヤーと言いますが、母音です。
秋田弁で私をワーと言う地域がありますが、基本の一人称が母音というのは、うなずけます。

投稿者 風雅こまち : 2012年6月30日 20:14

風雅こまちさん
コメントありがとうございます。
YとWの間に挟まれているRも気になります。
ひょっとするとアカサタナのこの順番は言語が発達する順番と合っているように思います。
とするとRというものも最後に登場したそれなりの理由がありそうです。
黒川氏はRを哲学と読んでいます。この分析は次回に登場するのでお楽しみに。

投稿者 tano : 2012年6月30日 21:18

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