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2008年06月21日

中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)

 日本の縄文時代は、年代でいうと今から約16,500年前から約3,000年前(紀元前10世紀)の約13500年間続き、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代です。その永い期間に日本は特別進化したわけではなく、逆に永い間に日本人の潜在思念を作り上げてきたということが言えると思います。縄文土器も同じく、その間特別に進化したわけではありません。
 縄文時代と同じ時代、方や中国は黄河文明、長江文明、から殷、周と王朝支配まで時代が変わっていきます。そして中国の焼物は、日本の縄文土器とは違い、次々と進歩しました。窯と釉を発明し、施釉陶器を生み、さらに精製・選別した白色粘土による磁器を発明しました。この磁器が世界の磁器の牽引役となったのです。日本をはじめ、南北朝鮮・ベトナム・タイ・カンボジアなど、古代から中世にかけて、いずれも中国陶磁をその母体に持っています。また近世にいたっては、ヨーロッパの磁器の源となりました。人気の高いウエッジ・ウッドやロイヤルコペンハーゲン、マイセンなど、みな中国磁器を母体としています。
 中国の焼物の歴史(日本の縄文時代と同時期編)を紹介します。
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中国の新石器時代の彩色土器を中国では彩陶と言います。中国の陜西省、甘粛省、青海省の仰韶文化、馬家窯文化、辛店文化などの大部分の標準となる土器は、殆どをスエーデンのアンダーソン博士が発見したので、アンダーソン土器とも言います。時代は今から6000年前から3000年前にかけてのものです。これらの彩色土器は実用品ではなく、古代の鑑賞用、芸術品であったようです。だから6000年とか5000年の時代を隔ててもなお、鑑賞に堪える美しい物が多いのです。中国の焼き物は色の技術に特化していくという特徴があります。鑑賞用として幻想的な価値に重きを置いていくという背景があったのではないでしょうか。
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彩陶罐 (さいとうかん)
新石器時代(馬家窯文化)・前3100~前2800年頃
甘粛省永靖県三坪出土
黒陶(灰陶)
中国が素焼きの赤い土器(紅陶)から、還元焔焼成窯・ろくろ成形へとステップアップしたのは、紀元前2200年です。5世紀に築窯技術の入った日本とは実に2600年以上の差があります。黒陶はその名のとおり、水中で沈殿させ精製した黒色粘土を、1000度を超える温度で還元焼成することで表面が黒色化しています。またロクロで非常に薄く成形し、表面が光沢を持つまで研磨されるのが特徴です。卵の殻ように薄く卵殻黒陶とも呼ばれる一群もあります。
白陶
黒陶とほぼ同じかやや後出して出現しました。カオリナイトを含む白色粘土を水中で沈殿させ精製し(水簸)、1200度前後の温度で還元焔焼成しました。ロクロ巻き上げ技法からロクロ成形へとステップアップしながら、黒陶とは違う道を歩み始めます。それは使用した白色粘土がカオリナイトを含んでいたからです。ここに磁器の始まりを予兆させる陶器が登場しました。
灰釉陶
紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を使用した陶器が発生します。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉です。表面は灰色から灰緑色を呈する焼物です。日本ではまだ縄文文化の解体も始まってはいない時期にあたります。
灰陶
紀元前2000年前後に発生した灰陶は、紀元前700年ごろ再び流行を見せます。青銅器の代替品、死者への副葬品としての需要増加が原因です。その中から派手に彩色された灰陶である加彩灰陶が出現します。始皇帝陵墓の兵馬灰陶が1970年代に発表され、世界中の人の度肝を抜きました。この灰陶の中で、低温焼成(800から900度程度)の適した上薬が発明されました。それが鉛釉であり、鉛釉陶の出現です。
青瓷  (日本の縄文以降になります)
青瓷は、古代中国の陶工たちの叡知と技術によって生まれた偉大な業績の一つです。長い歴史をかけ、土や石を変化させることによって碧玉よりなお美しい器形を作り上げることに成功しました。青磁は幽玄蒼古な東洋独特の焼物で、青瓷ほど世界を驚かし、東西に大きな影響を与えたものはないでしょう。春秋戦国時代(BC 6~5C) になると殷の時代に開発された灰釉を淵源として、原始青瓷が誕生しました。青磁が本格的に焼造されはじめるのは、後漢時代〔1世紀以後〕に入ってからのことです。三国時代になると、青瓷の焼造技術は円熟さを増し、胎土は細かくなり、釉は光沢を帯び、青翠色の美しい釉調をもつようになります。とりわけ中国江南地方の浙江省にある〔越州窯〕で焼かれた〔古越磁〕は、卓抜したフォルムの美しさを呈しています。
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金杯 (きんぱい)
隋時代・6~7世紀
陝西省西安氏李静訓墓出土
中国陶磁器は宋の時代が画期といわれ、この時代中国は、商品経済の発達による需要の拡大に活気づいてきます。 陶磁器は当時、庶民がささやかな贅沢気分を味わえる手近な品でした。
このころ全国の窯業地では、色や形の工夫、技術革新が目ざましく行われ、王族、貴族、官僚たちの奢侈品、海外輸出用など特別な需要をもった窯も現れ、中国陶磁器は多彩な歴史を歩み始めるのです。
 日本の縄文土器は焼き方(色)の進化はあまりありませんが、「造形の豊かさ」は世界一だと私は思います。また縄文土器の形の豊かさは自然を崇拝から来たもので、そしてあくまで日用品であったのではないかと考えます。

投稿者 norio : 2008年06月21日 List  

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コメント

>しかし、大河の恵みによって生き、神々との共存を信じて
 いたとしても、エジプト人の人生観とシュメール人のそれ
 とはかなり違っていたようです。
  エジプト人は楽天的であるのに対し、シュメール人は
 多分に悲観的、厭世的でした。>しかし、大河の恵みによって生き、神々との共存を信じて
 いたとしても、エジプト人の人生観とシュメール人のそれ
 とはかなり違っていたようです。
  エジプト人は楽天的であるのに対し、シュメール人は
 多分に悲観的、厭世的でした。< 自然を「神」とする事で理解しようとしたのですね。 そして理解出来れば共存も出来るし利用も出来る。 そう言った考えのように思います。 そこで「神」との期待⇔応合が旨くいったかそうでないかが、 エジプト人の人生観とシュメール人のそれとが違っている理由 ではないでしょうか。

投稿者 天仙 : 2008年7月24日 22:17

いきなり不躾ですが、
シュメールの霊が悪霊ばかりなのはなんで?
シュメールが悲観的なのはなんで?

投稿者 とおりすがり : 2008年7月25日 22:41

☆天仙さん
シュメールの民は、自然を「神」と見做すよりも前に、様々な天災や人災により、既に厭世的になっていたと見られ、そこから逃れるために、自然を「神」として敬い、何とかしてもらおうとしたのではないでしょうか?
ですので、「神」との期待⇔応合が上手くいかなかったから厭世的になったとは考えにくいです。

投稿者 jomon10 : 2008年8月5日 20:58

☆とおりすがりさん
>シュメールの霊が悪霊ばかりなのはなんで?
洪水や、飢饉、疫病、争いが絶えなかったため、それらの原因を、全て人間以外のもの(=悪霊)に求めた結果ではないでしょうか?
逆に、良い原因も、霊のおかげとしていたようですが。
>シュメールが悲観的なのはなんで?
上記とかぶりますが、あまりにも過酷な環境におかれていたため、何をやっても自分達ではどうにもならないと、あきらめてしまったために、悲観的になってしまったのではないでしょうか。

投稿者 jomon10 : 2008年8月5日 21:06

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