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2007年07月17日

中国先史年表~母系から父系へ~

前回に引き続き、生産様式の変化が、母系→父系への変化を引き起こしたという説を補足する意味で、同じく「図説中国文明史1先史文明への胎動」でまとめてある先史年表を紹介します。
○生産様式の変化

BC10,000~6000:
華北、長江中流域、華南などで定住生活を始め、農耕、家畜の飼育、土器の製作が始まる。
BC 6000~5000:
黄河、長江流域が二大農耕区となり、農耕は焼畑から鋤耕に移行。黄河中下流域では雑穀農耕が発達し、長江流域では稲作農耕が代表的。
BC5000~3000:
長江流域では、稲作農耕が発達。石器、土器、骨器、木器の製作は高水準に達する。水田耕作に適した多様な農具が開発される。

ここでは、黄河流域と長江流域での生産様式の違いに注目。
道具が発達したのは、稲作中心の長江流域。日本の稲作文化との繋がりも気になります。
○集団の変遷

BC6000~4000:
・血縁紐帯による同一氏族が暮らす集落が出現し母系氏族共同体が形成される。
・氏族メンバーの地位は平等。
・原始宗教、アニミズムの始まり。龍への崇拝は、抽象的な神霊崇拝への移行を示し、専業的なシャーマンが出現する。
BC4000~3000:
母系氏族社会は後期に移行し、父系氏族社会への過渡期となる。
・黄河流域と長江流域で防御性の高い城壁が形成される。
・東北の紅山文化では宗教が発達し、女神廟、祭壇が出現し、玉器製作センターを形成。
・長江流域の良渚文化では農耕が発達し、南方の玉器製作センターを形成。祭壇と貴族墓地が出現し、神権と軍事統率権を集約した部族連盟の首長の出現か?

ここでは、生産性が上がるに伴い、城壁が高くなり、母系から父系へ移行していったという関連性に注目したい。生産性の高さが、周辺部族間の交流を促し、そこから争いへと移行したのだろうか?

BC3500~2000:
・私有制を伴う父系氏族社会が到来。民主制の平等社会はしだいに排除。
・黄河流域と長江流域は、相次いで首長制の「古国」へと移行。城寨が林立し、略奪性の高い戦争が発生。伝説の五帝はこの時期の首長とみられる。
BC2500~2000:
・黄河流域と長江流域では、父系氏族共同体が瓦解し、各古国は若干の政治集団を形成する。夏族、殷族、周族と夷、蛮などの文化が交錯し、軍事的な衝突も発生。
・BC2100に夏族の首長である禹は治水に成功し、夏族の勢力が強大化して黄河中流域の大部分を統治し、部族連盟の首長となる。BC2070に禹はその地位を子の啓に譲り、中国史上最初の王朝 である夏を建立し、先史社会は終了する。

さて、母系の始まりから、王朝の成立までを追いかけてみましたが、黄河流域、長江流域のどちらが母系か父系かと言う視点は、存在しない様です。いずれも、母系集団を母体に生産性の向上に伴い、集団が拡大していき、戦争の拡がりと歩調を合わせる様に、父系へと移行している様にも見えます。
まだまだ、掘り下げていきますよ~。
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投稿者 maeyan : 2007年07月17日 List  

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コメント

東北や北海道には、厳しい気候・風土に培われた様々な手仕事が今もなお残っています。
刺し子、籠、つるかじ、桜皮細工、馬具……。その中でもとりわけ高齢者のものづくりとその人生には強く心を揺さぶられるものがあります。また、そこには必要とされ、ものを作るという手仕事の原点が暮らしと共にあります。
不便で、貧困な境遇だったからこそ、柔軟でたくましい手技を継いでおり、巡る季節に合った素材を求めた、自然に寄り添う暮らしは、もともと人も自然の一部として生きてきた縄文の暮らしを思い起こさせるものがあると感じています。

投稿者 mukai : 2007年8月2日 11:19

>こんな優しい、無茶な理論は本来の仏教には無いのです。
ここが、日本=縄文体質のすごいところでもあり、面白いところでもありますね。
現実逃避の宗教でさえ、日本人は現実に組み入れてしまった感じがします。
改めて、日本人=縄文人の意識の大切さがわかりました!

投稿者 さーね : 2007年8月3日 00:12

 旧出雲国の島根県安来市には縄文風の国土創成の神話が伝わっていましたよね。古事記に記載された国生み、出雲風土記に記載された国引き。いったい何故二つの物語が並立しているのでしょうかね。

投稿者 山常鉄男 : 2007年10月7日 20:24

 いろんな国で外人と話す機会があります。はっきり言うと仏教の話をするとそれはインドの宗教で、ヒンズー教でもごく一部の神様の話でしょ。それが日本なのと軽くあしらわれます。
 それよりも神道の話のほうが欧米人には受けます。かれらの感性は日本人には中国人よりも神秘性があってインディアンやエスキモーの文化に近いというのです。
 なんでも一辺に合理的に決めない文化が、ある意味謙虚な美徳と思えるのです。こういう感性が虫の音を聞くときに脳波にあらわれてにほんじんはリラックスするけど、欧米人にはノイズとしてしか映らない場合が多いらしいです。
 そんなとき日本の建国の理念ともゆうべき修理固成ということばにぶちあたるのです。それは一見ほとんど変化がないのに大胆に変貌するコツを探そうとする心性です。だから、ノイズと決め付けないでよくよく聞くといろんな落ち着きが取り戻せるのだと思います。
 

投稿者 原始人 : 2008年2月7日 01:25

 去年、島根県にある日立金属の安来工場に工場見学に行きました。いろいろと鐵づくりの凄さを見せていただきましたが、驚いたのは大会議室の額に「誠実生美鋼」という文字が見えたからです。この会社は歴史が古く、いろんな噂がながれていたのですが、やっぱり本当だったんだと驚いた次第です。

投稿者 尼子金子 : 2008年3月22日 20:13

「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

投稿者 石垣眞人 : 2008年8月24日 15:57

 戦前の日本は天皇=国家(すなわち日本文明=日本政府)の混同にあったせいで、不安定な社会になり戦争で負けてしまった。
 それ以前は日本文明(国体)は日本政府(政体)とちがって、永続性があるという確信を天皇の神聖性や万世一系の性質に象徴させたものである。そのため日本の国体は様々な政体の変化を体験しながらも、高い安定性をもたらす結果となり欧米と違い革命を経ずして近代化を成し得た。しかも西洋的にいう宗教への依存性もきわめて低い国柄になった。
 「鉄は国家なり」ということが示すがごとく、日本全体には国家という唯一絶対のシステムしか存在しないような幻想に陥っているが、空間的広がりだけでなく時間的広がりも評価してその占有率を評価しないといけない。そうするとその占有率はごく一部でしかなく今の日本政府が日本文明であるとはいえないのである。
 そういった法治国家日本以外にも社会を形作っているものがあることを、特に歴史性において積極的に認める自覚がわれわれ日本人には必要だと思われる。

投稿者 薩摩芋 : 2008年11月7日 21:18

安来の和鋼博物館内にひっそりとかかっている、海綿鉄プラントの写真の興味が向いた、凄まじいシンパシーを感じた。我々の仲間が、苦闘している姿がさっせられる。感心した。

投稿者 元京都大学大学院生 : 2015年11月4日 23:32

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