| メイン |

2011年08月08日

著書分析より明らかにする日本支配の始まり2~長江の倭族が日本にたどりつくまで~

「著書分析より明らかにする日本支配の始まり」シリーズ、プロローグに引き続き、シリーズ第1弾です
今回は著書『古代中国と倭族』を参考に、古代中国の倭族がどのように日本にやってきたのかを追っていきたいと思います
  %E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%80%AD%E6%97%8F.jpg
中国の文化は北と南では大きく異なります。
中国国内は、司馬遷の『史記』により、北の中原(黄河中流域)の勢力こそが全国を制覇した(長江流域は南蛮と蔑まれていた)とする中原一元論に偏っていますが、最近の発掘でそれが事実とは違うことが明らかになってきています 😀
南の長江流域には豊かな文明がありました
長江の倭族の文明と、その倭族が日本にやってくるまでをご紹介します
Blog Ranking  にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


これまで、黄河文明の地域こそ中国の中心とされてきたが、長江流域では黄河文明の仰韶文化より以前からすでに水稲栽培が始まっており、高床式住居や高い建築技術、農耕具、美しく施文された紡績車などが発見され、世界の学会を驚かせました 🙄
長江文明は黄河文明の粟を中心とした畑作文明とは違い、稲作(ジャポニカ米)文明で、住居は高床式、家には靴をぬいで上がるじょうそく文化。
この地に古代倭族の文化、王国がありました
   %E7%A8%B2%E7%A9%82.jpg
– – – – – – – – – –
河姆渡遺跡
浙江省の東北部、約7000年前の遺跡。
ジャポニカに属する水稲栽培、多様な骨角器農具、高床式住居の部材、織機の部品等、他にも漆器、鳥形飾り(日本をはじめ、倭族にひろく認められる習俗)が発掘されている。
良渚文化
浙江省、約5300年前の遺跡。
祭祀・儀礼用の玉器が多く発掘された。中でも玉琮は神人獣面像を現して地を祭るための玉器であり、それは農耕民である彼らが信奉する大地の主宰神。王者が神と一体であることを顕示したもの。
神権・財富・軍事権を象徴する玉器を神聖なものとして位置づけられており、王権の出現を示している。
てん国(倭族の王国)
雲南省都の昆明市南部。
てん国人が主神としていた神は農耕神であるが、稲作儀礼用として犠牲にされた人間は死んだ後、農耕神として蛇に化身するものと信じられていた。蛇を最高神として崇高する稲作民族。
他、倭族の習俗
・門(結界として悪霊の侵入を防ぐ)→日本にある鳥居の原型
・鳥(神が村人を守るために降臨する乗り物)→日本にも鳥信仰が存在する(参考「千年の快楽‐一夜の彷徨‐」)
(サッカー日本代表のシンボルマークにもなっている八咫烏は、「日本書紀」や「古事記」に登場する霊獣。)
・しめ縄(しめ縄は倭族特有の習俗)
– – – – – – – – – –
%E5%BC%A5%E7%94%9F%E9%AB%98%E5%BA%8A%E5%BC%8F%E5%80%89%E5%BA%AB.jpg    %E6%B2%B3%E6%AF%8D%E6%B8%A1%E9%81%BA%E8%B7%A1.jpg
 弥生時代の高床式倉庫     河姆渡遺跡の高床式住居
%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%B3%A5%E5%B1%85.jpg      %E3%82%A2%E3%82%AB%E6%97%8F%E3%81%AE%E9%B3%A5%E5%B1%85.gif
   日本の鳥居       アカ族(倭族の末裔)の鳥居
その長江文明の倭族が日本にやってきて弥生時代が始まったとされていますが、いったい倭族はなぜはるばる日本までやってきたのでしょう

その地域は後に呉の領域となり、呉も春秋時代末に越王に討たれて滅びる。その呉の滅亡(紀元前473年)を契機として、呉の遺民だけでなく、呉の領民となっていた東夷諸国の民たちも、稲作文化を携えて朝鮮半島の中・南部に亡命し、さらにその一部が日本列島に渡来して、いわゆる弥生人になったと考えている。(プロローグより)

紀元前473年、呉(長江下流域)は越に攻め入られ、呉の倭族は土地を追われました
越に南から攻められたので、水軍に優れていた呉は船にのって北へと逃れ、一部は朝鮮へ、一部は日本へとたどりつきます
この倭族がたどりついたのは、縄文晩期の佐賀県唐津市の菜畑遺跡だと考えられ、日本最古の水田遺構や稲が発掘されています。
さらにこの時期に渡来してきた倭族は、おそらく支配層ではなく農民だったと推測されます 🙄
なぜなら、

>縄文晩期から弥生前期のこの時代は中国からの渡来が圧倒的に多く、日本の渡来文化の発祥はおそらくは中国の長江―さらにその後の呉越から起きていることが伺えます。
>日本に朝鮮半島から避難民が大量に押しかけたのはおそらくは弥生後期、古墳時代の始まるAD200年以降の事だと推察されます。
>ここで見えてくるのは既に縄文晩期から日本に渡来し、縄文人と融合し既に稲作を始めていたのは中国であり、彼らが、朝鮮半島から渡来が始まるはるか700年以上前に日本列島で先住化していたということではないでしょうか。
>この朝鮮半島からの渡来が始まるまでは戦争の形跡はほとんど見つかっておらず、従って非常に融和的な関係で縄文人と渡来民は混血していったのでしょう。
(当ブログ7/30の記事「縄文晩期とはどのような時代か?2~渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に」より)

とあるように、奈畑遺跡の時代に争い の形跡はなく、中国から渡ってきた倭族と縄文人は融合したのでしょう 支配層が渡ってきたのなら、この時点で争いが起こり、王朝が始まっていてもおかしくありません そして、その後朝鮮から渡ってきた渡来民同士が争いを始め、弥生時代に日本で始めての王朝が興るのです
同じく越に追われ朝鮮へ流れついた倭族の行方については、次回、著書『古代朝鮮と倭族』を参考に明らかにしていきますので、お楽しみに~

投稿者 pingu : 2011年08月08日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/08/1303.html/trackback

コメント

中国の軍は侵略の為ではなく国防の為、国内の為。
中国の軍は恐れるに足りず。
この記事でよくわかりました。
複雑な中国の軍事を特集していただきありがとうございます。

投稿者 でんでん : 2012年4月8日 15:07

中国はチベットを侵略してベトナムにも戦争を仕掛けた。
なぜ侵略戦争を自ら起こす可能性は極めて低いとなどと言えるのか?
今の尖閣問題や南シナ海の問題を見れば尚更だろう。
よって日本も弾道ミサイルの配備を早期に行う必要がある。

投稿者 日本と中国は次世代で共働できない : 2012年4月21日 15:30

コメントしてください

 
Secured By miniOrange