モンゴロイドの歴史2~スンダランドの水没→南方モンゴロイドの大移動 |
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2011年01月20日
モンゴロイドの歴史3~新モンゴロイドの南下と中国古代文明の誕生
2万年前前後の最終氷期極寒期(LGM)、1.2万年前前後の急速な短期寒冷化(ヤンガードリアス期)を経て、1万年前から地球規模の本格的な温暖期に入っていく。
この時期、東アジアでは続々と「文明」と呼ばれるものが生まれていった。
■1万年前~の温暖化(±0℃~+2℃)、7500年前~5500年前の気候最適期
1万年前以降は地球規模の温暖期に入る。8200年前~7800年前は一時的に寒冷化したものの、7500年前~5500年前には温暖期(気候最適期、ヒプシサーマル期)に入り、世界各地の部族は人口を拡大させ、拡散していく。
○新モンゴロイド
チベット高原~タリム盆地のモンゴロイドが、温暖期に入って北上し、アルタイ山脈~モンゴル高原に到達した。彼らはここで人口を増やし、部族としての形質を固めていく【新モンゴロイド(O3)(原アルタイ族)】。垂直的な上天信仰、厳しい自然条件に適応するためのシャーマニズム、熊神信仰、冬祀りなどの特徴を持つ。
新モンゴロイドは、7500年前からの気候最適期に更に人口を増やし、バルハシ湖周辺のテュルク族(トルコ族)、モンゴル高原のモンゴル族、日本海西部沿岸のツングース族に分化し、拡大していく。8200年前からの一時的な寒冷期などもあって南下した部族の最先端は、農耕民と接触し農耕を始めたと考えられる。(8200年前には遼河流域でツングース族?の興隆窪文化。7000年前?には、扶余族が半島北部に登場)
元々、母系社会であったが、6000年前?に遊牧に転じて以降、父系社会に転換した(or 5000年前以降、略奪闘争→力の原理によって父系社会に転換した)。
○長江流域
温暖期の9000年前(or8500年前)、長江下流域では原中国人による彭頭山文化(稲の栽培跡)が興る。7000年前には、長江下流域の河姆渡文化(7000~5400年前)において、水田稲作農耕が発達、またブタ、スイギュウなどの家畜も。長江中流域では、大渓文化(7000~5000年前)。
○黄河流域
寒冷な気候に入る直前の8500年前、黄河中流域~下流域に裴李崗文化、及び後李文化が登場する。原中国人によるものと考えられるこの文化では、粟の耕作やブタの飼育が始まった。
7000年前からは、黄河中流~上流域で原中国人(orミャオ族O3)による仰韶文化(~5000年前)。黄河下流域では、原中国人(or南下してきたモンゴル族)による大ブン口文化(6300~4600年前)。
※モンゴル高原から南下してきた新モンゴロイド(O3)は、ブタなど家畜由来の強力なウィルスに対する免疫機能を獲得した。このO3モンゴロイドは他(CやD)を徐々に駆逐し、制覇途上にある。
○チベット族
7500年前~5500年前の温暖な時期(気候最適期、ヒプシサーマル期)には、ヒマラヤ山脈の山頂部を覆っていた氷が融け、メコン川やガンジス川、長江、黄河などの大河を作り出した。(チベット高原の年平均気温も現在よりも2度~3度高かった)。
チベット高原のDスンダ・モンゴロイド→チベット族(古代羌族)は、7000年前前後にはチベット高原東部の長江・メコン川最上流域にも移動していた(カロ遺跡)。
○セム祖族、印欧祖族
セム祖族や印欧祖族(印欧語族)らも勃興し、6400年前(or5500年前)には黒海沿岸で馬を家畜化し始める。6000年前には、西アジア(イラン高原)で遊牧が始まったと考えられている(※5600年前には、シュメールで青銅器技術)。
馬の文明は、イラン高原→テュルク族→モンゴル族→ツングース族へと伝わっていった。
■5500年~5000年前の寒冷・乾燥化
この時期の中国は、父系氏族社会への過渡期だと言われており、黄河流域と長江流域で防御性の高い城堡が出現した。この時期には、新モンゴロイド(トルコ族、モンゴル族、ツングース族)も遊牧を営んでいたと考えられる。
○新モンゴロイドの南下
寒冷化に伴い、トルコ族、モンゴル族、ツングース族が南下し始める。それぞれ、中央アジア、黄河中下流域、中国東北部へ。
○チベット族の侵入
印欧語族の遊牧部族がタリム盆地からチベット高原に進出してきた為、チベット族が押し出されるように黄河最上流域へと進出していく。黄河最上流域に進出したチベット族は、5100年前には黄河上流域で馬家窯文化(~4700年前)を築く。長江上流域にも、チベット族によるものと思われる三星堆文化(5000年前~3000年前)が登場。
○長江流域
長江上流域には三星堆文化。長江中流域の勢力(ミャオ族?)は北方に勢力を拡大(7000年前からの大渓文化→屈家嶺文化→石家河文化)。長江下流域の良渚文化(5200年前~)には、権力の象徴である祭壇と貴族墓地が出現。
○黄河流域
黄河上流域には馬家窯文化。黄河下流域の大ブン口文化は強力で西に向かって中原へと勢力拡大。仰韶文化は凋落し、仰韶の住民は西に逃げて行った(チベット族と混血か?)。その後、さらにモンゴル族が南下し、黄河中下流域に龍山文化(4800年前~4000年前)
○中国東北部
中国東北部では、ツングース族?による紅山文化(5400年前~4300年前)が登場。玉信仰と女神信仰を合体させ、更に龍信仰を体系付けたとされる。
■5000年前~4200年前の温暖期
私有制を伴う父系氏族社会へと移行。婚姻制は一夫一婦制の族外婚で、男が私有財産を掌握・継承。黄河流域と長江流域は相次いで首長制の都市国家的な原始国家へ移行。城塞が林立し、酋邦の間には常に略奪性の高い戦争が発生した。
■4200年前の寒冷・乾燥期:夏王朝の誕生
アジア東部では4200年前ごろから、厳しい寒冷化が始まった(~3800年前)。
○印欧語族
4200年前から大陸気候が寒冷化・乾燥化し、ステップ草原地帯が拡大していく。それに伴って、印欧語族が馬立て「戦車」の力をもって、ユーラシア大陸中部~西部を席巻した。(ヒッタイトは、4000年前に製鉄技術を開発し、馬と鉄によって強大な力を誇っていた。)印欧語族が「馬と金属の文明」をもって活発化したため、チベット~モンゴルの遊牧民が押し出されるように中国大陸に流入してくる。(※製鉄技術は、3200年前のヒッタイト滅亡により一気に拡散。)
この馬と金属の文明も、テュルク族→モンゴル族→ツングース族へと伝わっていった。
○夏王朝
4200年前から中央アジアで馬立て「戦車」を発明し強勢を誇っていた印欧語族は、タリム盆地へと進出した(3800年前頃の楼蘭の遺跡から、ヨーロッパ系白色人種の特徴を示すミイラ)。タリム盆地にいたチベット族による玉突きで、黄河上流域にいたチベット族(斉家文化)が、より豊かな土地を求めて東進した。長江のチベット族(三星堆文化)と手を組み、洛陽に侵出。夏王朝を興した。夏王朝(二里頭文化)は、中国で最初の青銅器文明だと言われる。
(※夏王朝については、良渚文化を担っていた部族が長江氾濫によって黄河に逃げ込み打ち立てたとする説もある。)
■3500年前からの寒冷・乾燥化:殷王朝→周王朝
3500年前から3200年前、ユーラシア大陸内陸部で寒冷化と旱魃が進んでいく。この気候悪化のなかで、中央アジアのスキタイ=シベリア文化の遊牧民は、騎馬に必要な鎧やくつわを鉄器で作り、さらに鉄製の弓や武器をいち早く手に入れ、騎射技術を獲得した騎馬軍団を作り上げる。この騎馬技術は、テュルクやモンゴルに伝播していった。
3500年前、夏王朝に服属していた殷(商)族(モンゴル騎馬民族)が反乱を起こし、夏王朝を滅ぼして、殷王朝を打ち立てる。夏王朝のチベット族(羌族)は洛陽地域を放棄し、西へと移住した。
(※殷王朝を興した部族については、イラン系遊牧部族に侵略され逃げ延びたトルコ族とする説もある。)
更に、3100年前になると、殷に服属していた周族(トルコ族orチベット族)が羌族(チベット族)と協力して殷王朝を滅ぼし、周を建国する。
<画像引用元>
古代で遊ぼ
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/00/kks-koga.html
中国歴史奇貨居くべし
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/
投稿者 staff : 2011年01月20日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2011年5月20日 01:28
メソポタミア方面からの農業の伝播がはっきり分かりますね。
もうひとつ気になるのは、牧畜・遊牧の伝播も気になるところです。もともと採集・狩猟のモンゴロイドがどのようにして牧畜・遊牧をはじめていったのかも知りたいところですね。
また楽しみにしてます。
投稿者 Hiroshi : 2011年5月28日 19:30
黄河流域の農業の繁殖の規模がいかにすさまじかったかは、黄河の農業開発時代に黄河流域の樹木が一斉になくなったことから想像がつきます。黄河流域はかつて(6000年前)は森でした。しかし、紀元前頃になるとほぼ森は失われ、灌漑に頼る農耕地とわずかな草原に変わり果てたのです。
農業が最大の環境破壊であるとしたのは同じように畑作で砂漠化したアラブと黄河流域、全く同じように文明前にすでに森林が失われてしまいました。
長江流域が再生可能な亜熱帯の森(=照葉樹林)に対して、黄河流域の森は再生の力が弱く、黄河という土の特性によるのでしょうが、西方から伝わった畑作がいかに一気に拡大していったかを示しているのだと思います。
ただ、森林地帯である黄河流域にオアシス農耕となるとちょっと?が付きますが、おそらく乾燥地域を越えて黄河にたどりついた西方の民族にとっては楽園だったのでしょう。彼らは遠方から情報を伝え聞き、続々と中国に流れていったのだと思います。(疑問!アラブ系と黄河流域の人種で顔は似ていませんね。だから黄河にたどり着いたのは・・・・セム系ではないと思います。ひょっとしてシュメール人?)