シリーズ「人類の部族移動」その7 シュメール人の出自 |
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2011年05月18日
シリーズ「人類の部族移動」その8 印欧語族の登場と人類最初の戦争
コーカソイドの諸部族のなかでも「印欧語族[R]」は、現在のヨーロッパ人の大半を占め、歴史的にはギリシャ、ローマ、大航海、ルネサンス、近代市場etcを築いています。彼らの歴史は西洋文明そのものといってよいでしょう。
しかし、「印欧語族[R]」は、これまでの記事でみてきた他のコーカソイド系部族にくらべてかなり新しい部族である事がわかっています。
コーカソイドの部族移動史からみると、ヨーロッパは最終氷期には一旦無人化し、その後、ケルト人[I]が北上してヨーロッパ全域に足跡を残しますが、現在では[I]は辺境に押しやられており現在の西洋文明とは繋がっていません。
また、コーカソイドの源流はコーカサス地方~中東に繋がっており、コーカサス語族[G]やセム族[J]といった部族が古くから存在していますが、彼らの文明は西洋文明とは異なります。
さらに、シュメールやインダスといった古代文明の端緒を開いたのは黒人であり、印欧語族[R]ではありません。
では、「印欧語族[R]」は、いつ、どのようにして登場したのでしょうか?これが西洋文明の正体を解くカギになりそうです。
今回は6400年前から印欧語族[R]の発祥と移動の時期が戦争の起源と重なる歴史を2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」から紹介します。
R1aの分布
R1bの分布
図は印欧語族[R]の現在の分布です。
(画像はこちらからお借りしました。)
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【目次:印欧語族の登場と戦争のはじまり】
【1】印欧語族は6400年前にロシア南部に登場した】
【2】印欧語族は5500年前(寒冷期)に人口の集中したコーカサス地方に南下
【3】コーカサス地方からはみ出して四散する部族の発生
【4】ちょうどこの時期に戦争が始まっている】
【5】戦争が起きる前提:人類のタブーを突き抜ける強力な圧力があったはず】
【6】はじめの戦争は?:イラン高原のオアシス農耕と遊牧部族】
【7】中東全域が緊張(戦争)状態になったのは?:多量の山賊(泥棒)の発生】
【1】印欧語族は6400年前にロシア南部に登場した
染色体亜型分析による説では、印欧語族Rはロシア南部に6400年前に登場したということになっている・・・・・・・・
2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」より
●印欧語族に起源に関する参考記事
「印欧語族の起源は?(学説の紹介)」
初期のインド=ヨーロッパの人々は紀元前4500年~2500年の間に最大4回にわたって父系の牧畜騎馬集団として黒海沿岸のステップ地域から次々に流入し、ひろがったものである。
「印欧語族の形成(中間整理)」
6400~6000年前 黒海、カスピ海、アラル海、ボルガ河流域~カザフ草原周辺で「印欧人」(印欧語族の原型)が遊牧生活を営んでいた。
「印欧語族=アーリア人の起源と移動」
原始アーリア人(原始インドーヨーロッパ人)が牛、馬、犬などの家畜の群れを引き連れて、一つの草原から他の草原へと移動して遊牧の生活を送っていたことだけは確かである。
「スラブ人(R1a)によると考えられるクルガン遺跡、クルガン仮説」
クルガン仮説は、ロシア南部に存在した「クルガン文化」がインド・ヨーロッパ祖語の話し手であったとする仮説である。
遺跡(クルガン遺跡)との近似性から印欧語族の発祥と考えられるロシア南部からコーカサス地方(赤丸)と、ユーラシア大陸のステップ地域(緑)。
画像はこちらからお借りしました。
【2】印欧語族は5500年前(寒冷期)に人口の集中したコーカサス地方に南下
この地域(コーカサスからロシア南部)の特殊性は、北緯35度以上では温暖化に伴って乾燥化し、寒冷化に伴って湿潤化するということ。
従って、コーカサスからロシア南部は6400年前の温暖期にはステップが北上してゆく。
5700年前、寒冷化に伴ってコーカサスは湿潤化し、人口が集中する。コーカサス語族Gやセム族Jをはじめとする様々な部族が集中したはずであるが、その中に5500年前、印欧語族Rが登場する。つまり、コーカサス語族Gやセム族Jが占拠してきたコーカサス地方に、後から印欧語族Rがやってきたわけである。
2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」より
●5700~5500年前の寒冷化に関する参考記事
「気候変動と遊牧民の起源・移動」
第一段階:家畜化の時代(牧畜民の始まり)
地球が急激に温暖化した1万年前
・ヤギ、ブタ、ウシの家畜化
・農耕集落から1日行程で帰ってくる距離=農耕民に依存
第二段階:遊牧(ステップ遊牧民)の始まり
完新世の気候最適期(ヒプシサーマル期)が終焉する5700年前の寒冷期への変わり目
・馬の家畜化によって大きな群れを管理+青銅器の利用で馬具発達→長距離移動可能
・乳しぼりと去勢の二つの技術
【3】コーカサス地方からはみ出して四散する部族の発生
当然、後からやってきた印欧語族の多くもコーカサス地方から四散したに違いない。
そこでの主要な生産様式は農耕(+牧畜)であるが、人口集中にもかかわらず農耕地は限られている。当然、はみ出される部族が登場し四散することになる。特に、東のイラン方面や南のメソポタミアに向かった部族が多かっただろう。イラン高原やメソポタミアは元々からセム族が支配している。
2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」より
【4】ちょうどこの時期に戦争が始まっている
コーカサスから中東にかけて大きな部族移動のあった5700年前の寒冷期以降、メソポタミヤの山岳地やチグリス/ユーフラテス河口周辺(シュメール)など、中東のいたるところで戦争の形跡が見られるようになります。
では、戦争はどのようにして起こったのか?
1.人口が密集したコーカサス地方で諸部族が戦争になった。
2.豊かな灌漑農耕が営まれていたメソポタミアにコーカサス地方からのはみ出し部族が攻め込んだ。
3.小規模農耕が点在するのイラン高原にコーカサス地方からのはみ出し部族が攻め込んだ。
の3つのケースが考えられますが、紹介記事では、その後の中東全域での緊張圧力の高まりと重ねて考え、戦争のはじまりは[3.イラン高原]とし、その急速な広がりは[山賊(泥棒)集団の出現]という大胆な仮説が提示されています。
【5】戦争が起きる前提:人類のタブーを突き抜ける強力な圧力があったはず
コーカサスにやってきた部族はそれまで部族(=共同体)として生きてきた。それが食糧危機で移動しなければならなかったとしても、いきなり戦争にはならない。それまで人類は共同体として生きてきて戦争をしたことがないのである。そこには人類同士が殺しあってはならないというタブーが働いていた。従って、戦争が起きるにはそのタブーを突き抜ける強力な圧力が必要である。
2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」より
【6】はじめの戦争は?:イラン高原のオアシス農耕と遊牧部族
一部少数のオアシス農耕を狙って多数の遊牧部族が群がる状態であったと考えられる。
前提条件として、メソポタミア・コーカサス・アナトリアの生産様式は農耕が中心で一部牧畜である。それに対して、イラン高原は遊牧がほとんどで、一部オアシス農耕が行われている。
農耕と遊牧では土着に対する決定的な違いがある。
農耕では食糧が減ってもギリギリまで土地にへばりついて動かないのに対して、遊牧は簡単に移動する。故に、農耕部族同士の戦争は起こりにくく、従って、遊牧部族が農耕部族を攻撃したのが戦争の始まりだろう。
但し、黄河や長江もそうだが、チグリス川などの大河の周辺では大量の農民が暮らしているのに対して、遊牧部族は少数なので簡単には攻撃できない。一度は成功したとしても次は叩き潰される。
ところがイラン高原では、農民は少数のオアシス農耕民だけである。そのオアシスに遊牧部族が集中してきたに違いない。まだ戦争(殺し合い)のタブーが働いているので、すぐには戦争は起こらないが、睨み合いになるのは必然である。その間に次々と遊牧部族がやってくる。そして、食糧危機が限界に達し、飢え死寸前まで追い詰められた部族から突撃が始まる。それを見た周辺部族も突撃を開始し、皆殺し戦争が始まる。これが人類最初の戦争の起源である。
2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」より
【7】中東全域が緊張(戦争)状態になったのは?:多量の山賊(泥棒)の発生
小規模のオアシス農耕での戦乱によって多量の山賊(泥棒)が発生し、中東全域の緊張圧力が高まった。
ここで重要なことは、誰が勝っても誰が敗けても、殺し合いから逃げ延びて略奪集団(山賊・泥棒)に転じた者たちが大量に発生したことである。
彼らは元々遊牧なので簡単に移動する。わずか10~30年間で、略奪集団がメソポタミア・コーカサス・アナトリアへと拡散する。山賊や泥棒集団が周辺をウロウロするということであり、中東全体に緊張圧力が働くことになる(当時シュメールに作られた物見櫓は、この略奪集団に備えたものである)。こうして、5500年前のイラン高原での最初の略奪闘争(戦争)をきっかけとして、略奪集団と緊張圧力が中東全体に伝播した。
この略奪集団の襲撃を受けた後では、シュメールでも都市国家間の争いが戦争に発展するのは当然である。こうしてシュメールでも城壁都市が作られるようになる。
2/6なんでや劇場(3)「5500年前イラン高原で最初の略奪闘争(戦争)勃発」より
はじめの戦争に印欧語族がどれくらい関与したか?については今後の調査課題ですが、その後ますます山賊が増えて戦争が日常的なものになっていく過程で印欧語族は頭角を現していくことからも、印欧語族の拡散と戦争の発生は極めて深い関係にあるといえます。
印欧語族をはじめ、山賊がどんどん増えていく過程は次回に続きます。
by tamura
投稿者 nandeya : 2011年05月18日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2011年11月8日 12:40
tanoさんへ
こんにちは「ブログの目的」の文章を以前に読んでいて
なるほど!と思っていました。大好きな文章です。
この軸がしっかりした縄文ブログに掲載されたことがうれしいです。
>なんだか一神教などというものがすごく薄っぺらい物に感じられます。
最近の考えを書かせてもらいます。
一神教は「直線の時間軸」を持ち、天地創造から始まり、終末に向かっている世界観で成り立っていると思われます。
それは進歩思想ともかかわり合っていて資本主義やマルキシズムを発生させました。そして、いまもグローバリズムという進歩思想に突き進んでいるのではないでしょうか?
でも「人間は進歩しない。」と僕は思っています。ネガティブな意味ではなく、本来そんなもんだろうくらいの気分です。
巡る季節を味わい、平凡な毎日を感情豊かに暮らせたらといいなあ、と思っています。実際は慌ただしい毎日ですけどね。
投稿者 firstoil : 2011年11月10日 22:48
firstoil さんへ
円環の思想、なるほどです。すごくしっくりきますね。
縄文時代は1万年間、それはほとんど変化する事のない日常の連続です。しかし、この長い時間、自然外圧が変化する中で同じように暮らし続けた縄文人は、この思想をしっかりと守ることで日々大事に生きていたんですね。
なんだか一神教などというものがすごく薄っぺらい物に感じられます。
>おいしいものをおいしい時期においしくいただく。それを毎年繰り返す。そして深く感謝する。このことを子孫に伝え、永遠に繋がり続け、何度も繰り返す。これが「円環の思想」です。
あらためて”ツタ”えることの大切さ、”ツタ”えられることの大切さを学んだように思います。
平凡な中に幸せがある。或いは日常の中に真実がある。こんな事をふと考えさせれる論考でした。
ありがとうございました。