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長江と連なる縄文:4200年前に始まる長江文明の崩壊と東アジア・環太平洋の民族大移動

>縄文時代1万年を通じて中国江南地方からかなりの規模で江南人(越人)が漂着していることが明らかになっている。(るいネット 世界規模の気候変動が4200年前に起きている。~この時期の流民が縄文人を形成した!? [1]
約4200年前の気候変動→北方部族の南下は、東アジアそして環太平洋の民族大移動を引き起こしている。安田喜憲氏は南方系のポリネシア人も、この時代に中国南部から拡散したという仮説を立てており、縄文人もその一派と考えることができるかもしれません。


●4200年前に始まる第一次長江文明崩壊  安田喜憲氏 『稲作漁撈文明』より
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4500年前を境として長江文明の遺跡は突然、爆発的に巨大化する。「4500年前にメガロポリスの時代に突入した」とみなされる。ところがその巨大化した都市は4000年前に忽然と姿を消すのである。
・4200年前の気候の悪化は、黄河流域を本拠地とする北方の畑作牧畜民の南下を引き起こした。彼らは馬に乗り青銅製の武器を手にしていた。怒涛のような畑作牧畜民の侵略によって、長江文明の担い手だった稲作漁撈民は、雲南省や貴州省の山岳地帯へと落ち延びたのではあるまいか。

・そしてこうした4000年前以降の中国大陸部での民族移動の波は、東南アジアさらには台湾を経て、南太平洋にいたるポリネシア人の東方への大拡散をもたらす契機となったとみなされる。
・長江流域に暮らしていた百越とよばれた稲作漁撈民を追い出し、一部の人々は雲南省や貴州省の山岳地帯へと落ち延び、海岸にいた人々はボートピープルとなって太平洋や東シナ海に漕ぎ出した。その南への移動が台湾からミクロネシア・ポリネシアへの大航海による民族移動の契機となったのではないか?

・近年そうした民族移動があった可能性が、ミトコンドリアDNAの分析からも指摘されるようになった。篠田謙一氏は、ミトコンドリアDNAのハプログループBをもった人々は、およそ4万年前に中国の南部で誕生しその一部の人々は東アジアの海岸沿いに北上し、北米大陸から中南米大陸にまで移動した。
一方、もう一つのグループは中国南部から台湾そしてミクロネシア、ポリネシアの南太平洋に拡散し、一部は南米西岸にまで到達したという説を提示した。・・・・・

こうした環太平洋文明圏を創造した人々こそ、長江文明の末裔ではなかったかというのが私のもう一つの仮説である。篠田氏はミトコンドリアDNAハプログループBを持った人々が南太平洋に進出するのは6000年前以降のことであると指摘しているが、私は、この4200年前以降の民族大移動が太平洋への大航海を生み出す契機を作ったのではないかとみなしている。
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(引用以上)
4500年前の長江の遺跡の巨大化とは、その時期からすでに北方からの圧力を受けていたということを示すのではないだろうか?北方牧畜部族の強大化に対抗し、南方稲作漁撈部族も部族連合を形成し規模拡大を図った。
しかし4200年前の気候変動を期についに北方部族が南下。武力に勝る北方部族が長江文明の南方部族を征服し、逃げ延びた部族は四方へ拡散していったのではないだろうか?
■付録:篠田謙一氏の研究について
BtoA_no_bunnpu.jpg [2]
>上図に見るように中国南部から東南アジアにかけて高い人口比を示し、太平洋の島々に拡散した人々の90~100%がこのmtDNAが欠損した人々である。しかし、この海洋民族といわれる人々の拡散は、たかだか6,000年前以降の話である。引用(図版共):亜型B–環太平洋に広がった集団 [3]より
亜型Bは、南米でも高い人口比をみせる。この伝播ルートは中国南部から東アジアの沿岸を北上して新大陸に至り、そこからさらに海岸沿いに南下したと考えられるという。
それにしても中国南部の長江文明崩壊は、世界の民族移動にかなり大きなインパクトを伴っていたことが伺えます。
長江地域の文明の崩壊はさらに続いて
●3500年前に始まる第二時崩壊     安田喜憲氏 『稲作漁撈文明』より
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・東アジアにおいて3500年前~3200年前の気候寒冷化の時代は、民族移動の嵐がふきあれた時代でもあった。3500年前に始まり、3200年前に極限に達する気候悪化期に、東アジアでは再び北方から周を代表とする畑作牧畜民の侵入があり、中国は春秋戦国への大動乱の時代へと突入した。
・この時代も大量の難民が雲南省や貴州省に移動すると共に、メコン川や紅河さらにはイラワジ川を下って、東南アジアへと人々が移動した。

・日本列島にソバの栽培や水田稲作が伝播するのがこの時代であることは、この気候悪化の影響を受けた人々が民族移動によってやってきたためであるとみなすことができる。
・3500年前以降、東南アジアのトンレサップ湖周辺でも稲作が広く行われるようになる。東南アジアの稲作の起源は4200年前の気候変動によってメコン川や紅河を南下した人々が稲作をもたらしたことに起源すると私は考えているが、この3500年前の気候悪化によっても大量の難民が押し寄せ稲作が広くおこなわれるようになったのである。

・東南アジアの稲作の開始は、4200年前の気候変動による稲作漁撈民の大移動まで確実にさかのぼる。インドネシアのバリ島では稲作の起源は4300年前まで遡ることが指摘されている。しかし東南アジアに水田稲作農業が広く拡大普及するのは、この3500年前頃から始まる気候悪化期以降のことではないかと私はみなしている。
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(引用以上)
この第二次崩壊は、日本に弥生時代(かなり早期)をもたらし、東南アジア各地にも稲作をもたらした。(但し、日本で本格的に水田稲作が始まるのは、朝鮮半島を経由して2500年前ころ)
長江文明における稲作の開始は約7000年前に遡るという。ではなぜ、第一次崩壊時に稲作は周辺地域に広まらなかったのだろうか?そして長江と縄文はどのような関係にあるのだろうか?
縄文の盛期は6000年前ごろから(三内丸山遺跡は5500年前~)であり、長江文明と同時期であり、長江文明が崩壊してから縄文人が日本に渡ってきたと考えると辻褄が合わない。おそらくより前から中国南部が南方系採集部族の一大センターとなっており、長江と連動する形で日本にも同系の南方採集部族のセンターが出来ていた、それぞれ中国南部と日本で文明を発展させていた・・・ということではないだろうか?そして4500年以降は、長江文明は北方牧畜部族に追われ衰退、一方の縄文も長江の難民を受け入れつつも、長江文明を失い孤立化し寒冷化も相まって衰退過程に入っていく。
一方長江文明で稲作が発展したのは、長江周辺での人口の著しい伸びに対する環境を含めた特殊解として、漁撈採集民が稲作を採用したということではないだろうか?そして彼らは、人口密度が比較的少なく、稲作の必要のない地域に逃れた際には、その必要を感じないで漁撈・採集に戻ったと推測されます。
3500年前の崩壊は、既に4500年前に北方部族により征服され混交した部族の崩壊であり、それゆえに稲作を生業とせざるを得ない(単純な採集に戻れない)状況になっていたからと考えられるのではないだろうか?
■資料
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〔長江周辺の稲作の開始時期〕 日本人の源流を探して  [4]さんからお借りしました
※今回は、いままで読み溜めていたのを連休を使って整理してみました。
by Hiroshi

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