2017年8月14日
2017年08月14日
「教科書の嘘を検証する」第2回~架空の存在聖徳太子が実在した。
2回目は聖徳太子についてです。
まずは、教科書「東京出版の中学歴史」の記述を見てみましょう。 おかしな点にはアンダーラインを付けています。
「聖徳太子の政治」
朝鮮半島では、6世紀に百済や新羅が勢力を強め、大和政権と密接な交流があった伽耶地域の国々を併合しました。 このころ日本では、地方の豪族が反乱を起こし、また大和政権の中でも、蘇我氏や物部氏などの豪族が、それぞれの支持する皇子を大王にしようとして争いが続きました。この争いを和らげるために女性の推古天皇が即位すると、おいの聖徳太子(厩戸皇子)が摂政になり、蘇我馬子と協力しながら、中国や朝鮮に学んで、大王(天皇)を中心とする政治制度を整えようとしました。なかでも、かんむりの色などで地位を区別する冠位十二階の制度は、家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を、役人に取り立てようとしたものです。また、仏教や儒学の考え方を取り入れた十七条の憲法では、天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました。 中国では、6世紀末に、隋が南北朝を統一して強大な帝国を作り上げました。そこで日本は、東アジアでの立場を有利にし、隋の進んだ制度や文化を取り入れようと、607年に小野妹子などを送り、この後数回に渡って隋に使者を送りました。こうした遣隋使には、多くの留学生や僧が同行しました。
「飛鳥文化」
6世紀の半ばに、百済から朝廷に仏像や経典が送られ、仏教が伝わりました。それまで自然の神々を信じ、素朴な死後の世界を考えていた人々は、病気の回復や、祖先の死後の世界での幸福を祈る手段として、仏教を信じるようになりました。豪族たちの中には、それまでの古墳にかわって寺を作ることで権威を示そうとする者も現れました。 蘇我氏は、聖徳太子とともに仏教を広めようとしたので、大王がいた飛鳥地方(奈良盆地南部)を中心に、日本で最初の仏教文化が栄えました。これを飛鳥文化といい、法隆寺の釈迦三尊像などの仏像がその代表です。また、法隆寺の建物も、火災にあって再建されてはいますが、聖徳太子が建てた当時の姿を残しているといわれています。これらは、主に渡来人の子孫によって造られましたが、南北朝時代の中国や、さらに遠くインドや西アジアなどの文化の影響も受けています。
投稿者 tanog : 2017年08月14日 Tweet