2014年8月28日

2014年08月28日

仏教に未知収束の志を観る~ 第2回:ヴェーダ思想は、私権追求⇒自民族結束のために生まれた正当化観念

シリーズ第二弾です。今回は仏教以前のアーリア人の思想について扱います。 

ヴェーダ思想(≒バラモン教)成立の背景

ヒンドゥークシ山脈を越えインド亜大陸に侵入したアーリア人はインダス文明人であるドラヴィダ人と覇を競い、紀元前1800年頃にはインド北西部パンジャーブ地方に定住したと考えられます。インド定住後、アーリア人の宗教的思索は、「リグ・ヴェーダ」として結実します。インド・アーリア人にとってこれがいかに大切なものであったか、これ以降に著された宗教的・哲学的文献が「ヴェーダ」として総称されたことから察することができます。

ヴェーダ(veda)とは「知る」と言う意味の「ヴィッド」から派生した言葉で、知識、宗教的知識を意味します。「リグ・ヴェーダ」はおそらく紀元前1200年ごろから前1000年頃にかけて原型が成立し、前800年ごろまでに現在のような形に成ったと考えられています。(この投稿はパンジャーブに定住した時代=初期のヴェーダについて追求します。) 

 

(さらに…)

投稿者 tanog : 2014年08月28日  

2014年08月28日

シリーズ 宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【4】~イスラム法とその集団規範~

みなさん。こんにちは。

これまでのシリーズではイスラム教の特性について紹介してまいりました。

イスラム教の信者は一日5回の祈りをささげることに始まり、断食や生活を送る上での様々な規律が法律として存在しています。その他の宗教との大きな違いは人々は神の前で平等と見なされ、厳しい修行と規律を遵守することといえます。イスラム教のは、政教一致、つまり宗教が国教となり、かつ法律となっていることのが西欧と決定的に異なる点です。西洋諸国はほとんどが(日本も含めて)、「国>宗教」の構図であり、宗教の入信は自由ですが、政治からなる法律は上位に位置します。一方でイスラム国家では、「宗教>国」となり、宗教がそのまま法律となっています。国際市場における加わり方においてもイスラム法で規制がかかっており、自由に取引することはできません。

このように説明すると、一見厳しいと感じられるイスラム国家ですが、その厳しさをもっても今もなお全世界に15億人を越える教徒を誇る一大宗教となっています。今回は、イスラム法について調べていき、どういった特徴があるか、またどのような可能性をもった宗教=法なのかを読んでいきたいと思います

写真はこちらからお借りしました。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55562004.html

 

イスラム1

■イスラム法って何?

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294438

人が人を裁くために法律がある、と我々は知らず知らずのうちに思い込まされているが、本来的にはそうではない、ということを、イスラム法を調べていて気づかされた。イスラムでは『神の啓示(法源)』から法則を『発見』し、それを共有することが法律であると説く。そして、イスラムの成り立ち上、この『神の啓示(法源)』は、『共同体の維持をどうする?』という志に貫かれており、私利私欲といったものが入り込む隙は一切ない。『法律』というものを考えたり、または作り出そうとした場合、西欧的思考に染まった頭をリセットして、イスラム的思考に切り替えることによって、新たな可能性が開けてくるだろう。

《以下引用》リンク

【イスラム法とはなにか】
人類普遍の法であるイスラム法に忠実に従った生活を送る・・これが、ムスリムの基本です。イスラム法は聖典『クルアーン』を根本に、それ以外の法源にもとづいてイスラム法学者が構築したものです。その組み立ては、ユダヤ法とよく似ています。イスラム法によると、人間の言動はすべて、イスラム法のなかに対応する判断(hukm)を持ちます。法判断は、該当する明文(法源)から直接・間接に導かれます。法源から法判断を導くのが法学の仕事です。西欧には、人間が法律を作ってよい、という考え方があります。議会がまず立法を行ない、法律ができます。それを解釈・運用するのが法学者の仕事です。しかしイスラム教になると、法律は神が作ったもので、永遠不変です。その法律を発見するのが法学者です。法学者がいなければ、法律もないわけで、彼らの社会的な地位はきわめて高いのです。

【イスラム法の法源】
イスラム法の法源は、全部で10種類ありますが、大事なのは最初の4つです。第一法源は、『クルアーン』。神の啓示がそのまま、人間との契約=法になります。第二法源は、スンナ(伝承〓 使徒ムハンマドの行為・言葉が、今日まで伝承され、法源となっています。『クルアーン』で解決のつかないことの多くが、これで解決します。第三法源は、イジュマー。新しい事態が生じて法判断に困る場合、イスラム世界のすぐれた法学者(ムジュタヒド)全員に手紙で呼びかけて、返事をもらい、その一致があれば以後、それが法源となってムスリム全体を拘束します。第四法源は、キヤース。明文がなくて判断に困る場合、法学者が論理的な推論によって判断を下すことです。ただし、英米法の場合、ある判事の判断は判例としてほかの判事を拘束するのですが、イスラム法の場合、キヤースはほかの法学者を拘束しません。判例として法学者を拘束できるのは、ムハンマドの下した法判断だけです。イスラム法の体系は、千年も前に成立しましたが、現代数学と同じ公理論的構成(axiom- atic construction)をとっています。ローマ法の影響もあるようですが、形式的に完備した法によって、多民族・全人類規模の共同体をつくりあげたのは驚嘆に値します。

【クルアーンとスンナ】
『クルアーン』が法源として正当なのは、それが神からのものだからです。それは、・神でなければ不可能なほど完璧な作品だから、・『クルアーン』のなかに、もし疑うなら人間が作ってみよと挑発があるのに誰も作らなかったから、などで証明されます。『クルアーン』には、・信条的規範(ムスリムが信ずべきこと)、・倫理的規範(ムスリムが行なったほうがいいこと)、・行為規範、の三種がありますが、・のみが法規範です。
スンナとは、神の使徒(ムハンマド)から出た言葉・行為・承認です。スンナの伝承には、イスナード(伝承の鎖)がついており、その違いでスンナの信頼性に差が出ます。ムタワーティルのスンナ(大勢の人びとが使徒から伝え……現代に伝わったスンナ)が、もっとも信頼のおけるスンナです。例をあげるなら、

【イジュマーとキヤース】
第三法源のイジュマーとは、使徒没後のある時代に、すべてのムジュタヒド(イジュティハードを行なう資格のある法学者)が全員一致で示した判断のことです。後代の法学者は、これを覆すことはできません。ムジュタヒドは、『クルアーン』およびハディースに精通している人びとで、イジュティハード(法源から法判断を導く努力)を行なって、質問に回答します。キヤースは、明文のない事件と明文のある事件を、明文に示された判断で結合することです。キヤースには、「基本」と「枝」があります。例をあげれば、基本=ブドウ酒(飲んではいけない)、枝=ナツメヤシ酒、があった場合、その禁止の理由(酔っぱらうからいけない)をあいだに挟めば、ナツメヤシ酒も飲んではいけないと結論できます。これがキヤースです。

 

 

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294433

シャリーア=イスラム法においては、盗みを犯した人物の腕や足を切断するなどのハッド刑、婚外セックス・同性愛・離教などに対する石打ちや斬首による公開処刑など、現代社会においては過酷とされる刑罰が存在し、西洋社会・西洋法体系から見れば、人権侵害であるとして批判されている。しかし、それはあくまで西洋個人主義を前提とした偏った見方であり、元々部族共同体の秩序崩壊を食い止めるためにムハマンドによって始められたイスラム教の生い立ちからすれば、至極当然であると思われる。(参考:宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【2】同じ神を信じるキリスト教・ユダヤ教と何が違う?リンク

つまり、共同体が崩壊しバラバラの個人に分断されてしまった西洋人の法体系が「集団<個人」を前提としているのに対し、創設当時より現代まで部族共同体が生き残っているイスラム法は「集団>個人」であり、あくまでも共同体の秩序を守ることを第一とし、個人の自我を戒める“規範体系”であると考えられる。

上記の通り、神そのもの=教えがクルアーンいわゆるコーランが法の根源になっています。次にムハンマドの言葉(神の啓示)がスンナ、そしてそれらでは判断できないケースの判断がイジュマーとキヤースです。イジュマーとキヤースは法学者がクルアーンとスンナを解釈しなおして判断した記録になります。つまり徹底してクルアーンとスンナを軸として、それを解釈しているのです。また、法に違反したものに対する、罰則は大変厳しいですが、彼らは当たり前のようにその規範を守ります。それだけ、集団規範を守ることが最優先となっているのです。「集団>個人」といえるのです。

次にイスラム法の成立過程についてみてみましょう。

 

写真はここからお借りしました。

http://sxwounded-ap.jugem.jp/?eid=14

 

イスラム2

■イスラム法の成立の背景

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/83-islam3.html
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、征服地の非アラブ系改宗者(マワーリー)を差別したので、彼らは”アッラーの前に平等である”と説く「コーラン」の教えに反するとしてウマイヤ朝の政策に不満を抱いた。特にシーア派を信仰するイラン人がその中心であった。またアラブ人の中にもウマイヤ朝の政策を批判する者が出てきた。 こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イラン人の協力を得て、ウマイヤ朝を打倒し、アッバース朝(750~1258)を開いたのが、アブー=アルアッバース(サッファーフ(カリフ名)、732頃~754、位750~754)である。

アブー=アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバースの曾孫で、父の反ウマイヤ運動を引き継いで、サラサーン(イラン東部)で挙兵し、イラクに進出してクーファでカリフに推戴され(749)、翌年の戦いでウマイヤ勢力を掃討し、750年にアッバース朝を開いた。  激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家の人々を皆殺しにし、またアッバース朝の樹立に協力してきたシーア派の人々を殺戮し、スンニ派を採用し、自分の近親者で政権を固め、中央集権化をはかった。

~中略~

 

第5代カリフのハールーン=アッラシード(763頃~809、位786~809)は、第3代カリフと奴隷出身の母との間に生まれ、異母兄が暗殺されたあとカリフの位に就いた。 ハールーン=アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君主とされ、彼の時代にアッバース朝は黄金時代を迎えた。 彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈り物を交換したと言われている。しばしば小アジア遠征を行い、ビザンツ帝国を圧迫した。 この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄した。最盛期の人口は100万人を超えた(150万人、200万人と書いている本もある)。このバグダードの繁栄ぶりは、有名な「アラビアン=ナイト(千夜一夜物語)」に描かれている。

ハールーン=アッラシードはこの「アラビアン=ナイト」に度々登場することでも有名である。しかし、彼は中央アジアの反乱鎮圧に向かう途中にトゥーズで病没した。 ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバース朝も、彼の死後まもなく帝国内の各地で自立の動きが盛んとなり、エジプトやイランには独立王朝が次々に成立し、アッバース朝は次第に衰退していく。 アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基づいて政治を行い、官僚制を整備し、中央集権化を進めた。

写真はこちらからお借りしました。

http://ogawakeiic.exblog.jp/14562507

 

イスラム3

 

イスラム帝国(アッバース朝)はアラブ人第一主義に反する形(平等を求める意思)で成立しましたイスラム帝国は世紀ごとの地図をみればわかりますが、領土を順調に拡大し、8~9世紀に全盛期を迎えましたし。カリスマ的なカリフ=ハールーン・アッラシードの時代に、勢力を大きく勢力拡大しましたが、彼の死後、一気に国家統合力が衰弱し、独立する国家が増えていったことから、官僚制の整備と中央集権化を進めつづ、いまだにのこるアラブ人第一主義を断ち切るためにイスラム法が成立していったのです。これにより、国家は安定し、人々は真の意味で平等となりました。この時代に成立したイスラム法ですが、当然ムハンマドが残したイスラム教(シャリーア)には当時の生活の様々な問題を解決するに当たる判断材料までは記されていません。そこで、彼らは、シャリーアを元に様々な解釈が必要となっていったのです。

 

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294438

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ムハンマドの死後、正統カリフ時代を経て、アラブ人至上主義を取っていたウマイヤ朝が750年に滅んだ後アッバース朝が成立した。アッバース朝は非アラブ系であったペルシア人からの支持もあって、アラブ人以外のムスリムたちにも道を開いた世界帝国へと変わっていった。この支配下には、ペルシアやエジプトといったギリシア文化の影響が色濃く残っている地域も含まれており、そこには哲学をはじめとする医学・数学・天文学などの諸学問が、ギリシア時代のものからエジプトやシリアなどの東地中海沿岸の各地に残っていた。アッバース朝は、バグダードにシリア人学者を招いて、シリア語のギリシア文献をアラビア語に翻訳させた。
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こうした、異民族のイスラムへの参入・支援とイスラム社会の異民族への寛容から、多くの社会統合観念が持ち込まれ、一定、哲学を要する事態となってきたと思われます。

wiki(リンク)によれば、
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このような翻訳活動は確かにイスラムに哲学をもたらしたが、これだけではイスラーム哲学の成立の契機とは見なせない。彼らが、本当に哲学的方法を必要としたのは、イスラム法(シャリーア)の解釈が多様化してきたためであった。すでにムハンマドの頃とは違い異民族のムスリムたちを抱えた世界帝国になっていたイスラム帝国は、もはやクルアーンとハディースだけでは、収まりきれないものとなった。収まりきれない場合は、学者たちの合意によって決定されるものとされ、孤立した推論は忌避されていた。柔軟に制定されているイスラム法に対しての正確な解釈が必要とされてきたし、多くの学者が他者の異説よりも、自説が正しいと考えていた。このようなまちまちな解釈では合意にも支障がでるので、客観的妥当的な立場からの見解を持つために、哲学的方法が歓迎されたのである。
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写真はここからお借りしました。

http://japanese.irib.ir/news/最新の話題/item/37016-「イスラム法学者とイスラムの目覚め」国際会議

イスラム4

 

■まとめ (イスラム法の可能性)

イスラム法の体系はクルアーン、スンナ、キヤース、イジュマーの構成となります。現代においても、四大法学派に見られるように、基本的にイスラム教をベースに様々な規律・判断軸を規定しているので、その解釈が分かれてきています。ここでいえることは、その他の宗教、国家と比較して、新たな法律や規律を人為的に作り出すのではなく、あくまで「クルアーン」を軸に解釈を施していることです。たとえば、人為的なトラブルが発生してもその解決にあたって、その為だけの法律は作らず、法を解釈して判断する。西洋であれば、法律の成立過程にも市場原理や利害関係が密接にかかわるケースが少なくありません。しかしイスラム国家ではそのような個人・組織あるいは国家の利益を優先した判断はありえず、あくまでイスラム教の解釈によるのです。これは共同体規範の軸をイスラム教に求め、それを遵守することで社会秩序が保たれることをみなが理解しているから(教育されているから)でしょう。当然個人の自我などは許されず、前述の通り、規範を逸脱したものには厳しい罰則が与えられます。それも社会的にそれだけ規範破りがご法度であることが共認されているのです。つまり西洋が「個人>集団」であるのに対して、イスラム国家では、「集団>個人」であるのです。この根本的な思想の違いが現代の統合体系の違いにもあらわれ、秩序が保たれている大きな要因といえます。まとめると、イスラム社会は個人・組織・国家の利益よりも集団の秩序を第一に考えているという点でしょう。現在、イスラム諸国が社会的にバッシングを受けている様も、どうやら、強固な秩序を嫌がっている勢力がいる可能性がありそうです。

 

 

 

 

投稿者 katsuragi : 2014年08月28日  



 
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