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「南から見た縄文」4~沖縄は南九州から始まっている

南から見た縄文シリーズもいよいよ中盤にさしかかります。毎回力作が続き楽しみなシリーズになってきました。これまでは3回に渡り南の本場、スンダランドからポリネシアを見てきました。
プロローグ [1]
太平洋に広がる大語族、オーストロネシア語族!! [2]
オーストロネシア語族は、なぜ遠洋に拡がったのか?~ [3]
ポリネシア人が陥った罠、遠洋航海への可能性収束→父権化への道! [4]
そして今回より、いよいよ日本にスポットを当ててみたいと思います。今回はその最初として海洋文化のメッカ、沖縄の歴史を見ていきます。
海に浮かぶ沖縄諸島は現在でこそ豊かな海洋文化の地です。
しかし、その歴史は豊かな海産物や亜熱帯の果実に恵まれた南方諸島のイメージとは大きく異なっていたようです。
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日本で最古の遺跡が確認されるのは沖縄である。
沖縄の歴史は32000年前の山下町洞窟や18000年前の湊川人の遺跡や人骨にあるように、日本でも最も古く人が居住していた跡が確認されています。湊川人の起源は諸説がありますが、現在では、その骨相の正確な復元からインドネシアのワジャク人ではないかという説が有力で、縄文人とは直接繋がっていないというのが通説です。おそらくは一時、沖縄と陸続きであった時代に大陸から渡って来た古代人達だと思われます。
1万年の空白期間
沖縄の歴史は湊川人以降は約1万年間に渡ってほとんど遺跡らしいものは発見されておらず、考古学的には空白の期間と言われています。温暖化による海水上昇によって平野部の居住跡が海底に沈んだ可能性も有りますが、この時代、沖縄は居住には相応しくないかなり厳しい食料環境になっていた可能性があります。それは湊川人の歯(極端に磨り減っている)や骨相(かなり小型)から生存限界に近い食糧事情であったことが伺えます。
島は大陸に比べて環境の変化を最初に受けやすく、また動物や植物資源の種類や量も比較すればはるかに乏しいという特徴があります。大陸と繋がる事のない諸島は時に火山噴火や台風、急激な寒冷化、温暖化などで居住域が失われ無人化するなどの事例は考古学的にもしばしば発生しており、沖縄もそのような島特有の自然外圧を受けてきたようです。
7000年前から始まる沖縄の歴史
再び沖縄に人が居住し始めたのは7000年前の事です。本土との間に位置する奄美でも同様で7000年前から土器が発見されています。この時代にあったのが、南九州の海底にあった鬼界カルデラの噴火です。
7300年前から始まる鬼界カルデラの噴火は最大の噴火を6300年前に起こした後は、九州から中国地方、四国までを無人にするほどの巨大な火山灰が500年間に渡って降り注ぎ、西日本での縄文文化はこの時期に一旦壊滅しています。
南九州の多くの縄文人は海を伝って東へ移動しますが、一部は海洋技術を駆使して南へ舟を漕ぎ出します。その一派が奄美へ、沖縄へと辿りついたのです。
鬼界カルデラの噴火は結果的には南九州での縄文文化を沖縄へ運んだ動因になります。一方で東へ向かった人々は関東地方や東海地方に南の海洋文化を伝播させ、さらに東北地方にまでその影響は広がっていきました。この巨大火山活動は縄文時代において大民族移動を誘導する大きな出来事であったと言えます。
南九州の歴史はどのように始まるか?
南九州は縄文早期に日本では最も早く定住跡が確認されています。9500年前の上野原遺跡はその一つで、50棟の竪穴式住居が集合しています。またその2500年前の12000年前には鹿児島の栫ノ原で世界最古の丸太舟を削りだす磨製石斧の確認がされており、高度な海洋文化を持った海の民が日本列島に定着している事を示しています。
この海洋的特長はその後、東南アジアでも確認され、スンダランドが沈み始めた1万3千年前にスンダランド海洋民(C1系統)の移民であると言われています。(C1系統は日本列島にしか居ない特殊な遺伝子で、C系統の種が日本に移動して環境適応し、独自に発生した新種である可能性があります。)
彼らは貝殻をモチーフにした貝文土器を擁し、その後鬼界カルデラの噴火まで約5000年間この地に定着します。5000年という期間は民族の混血が進むに十分な期間です。
その間、朝鮮半島から日本列島に流れ込んできた縄文人の主流である大陸系のD2系と混血が進んだと思われます。その混血の証として南九州でも栽培技術や土器技術が発展し、中でも沖縄で見られる爪型文土器は西北九州でも発見され、またその後移動した証拠として関東や東北まで縄文土器の中に転々と見ることができます。
この爪型文土器の流通から見て、この時代に南九州も海洋文化から大陸文化へと徐々に変化していったと考えられます。
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左:九州で発見された爪型紋土器 右:沖縄で発見されたもの
同様な手法で土器が作られています。上総博物館 [5]水野の縄文写真館 [6]よりお借りしました。
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沖縄が海洋文化に変化したのは後天的な歴史による
現在の沖縄人の民族研究からも沖縄の言語や形質、遺伝子は縄文人を濃厚に受け継いでいると言われています。
沖縄に縄文文化が根付いたと言われる所以は、この時代(縄文早期)を通じて海洋系C1と大陸系D2の混血が進んだ事を示しており、結果として火山噴火と共に大陸の文化D2系は、はるか沖縄まで移動することになります。しかし沖縄という海洋的環境の中でその後、台湾や中国からの影響を受け、再び海の文化である交易拠点という形で始まっていきます。
弥生時代から始まる貝の道は沖縄の海洋的特長を示していますが、しかし貝の道を開いたのは沖縄在住の民ではなく、呉越の滅亡と共に日本列島に流れてきた舟を操る海人達(安曇族)でした。彼ら(弥生の民)の影響もその後沖縄は受ける事になり、貿易立国琉球王国に繋がります。
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貝の道のルート
沖縄の歴史はさまざまな文化の塗り重ねである。
沖縄とは文字通り八方を海に囲まれた無防備な島です。このように外からの文化をいかようにも受け、それを昇華してまるで柳の枝のように揺らぎながらも、その本質は代わらず、しっかりと次代に繋いで行ったのです。それは琉球王国となってからも同様で、江戸時代に入り薩摩の支配下になりながらも、中国との貿易を独自に続けるという形でしっかりと自身の立地を築いていた事からも伺えます。
海洋人類学者である外間守善氏は沖縄の歴史を以下のように表現しています。
「近年になって旧石器時代はともかく、弥生文化の時代から歴史時代に入って後の、沖縄文化の中に占める大陸系文化と南方系文化の比重は、前者のそれがより密度の濃いものであることが、言語学を初め、考古学、歴史学、民俗学等々の立場からいくつとなく発言されるようになってきた。しかもそれは日本の九州を経由して入ってきた大陸系文化であり、それを主流として、その後の日本本土から入ってきたもの、直接中国から入ってきたもの、南方諸地域から入ってきたもの等々が、さまざまな重なりをみせる複合文化であると考えるのが妥当であろう。地理的に、歴史的にさまざまな文化の交錯する必然のある沖縄でその文化の特性をとりあげようとする時、「文化複合」という視点は重要である。」
縄文資質を最も色濃く受け継いだ沖縄は、上記のようにさまざまな文化的影響を受けながら今日に至っているのです。それはまるで日本の縮図のようでもあり、また全く本土とは別の日本の姿でもあるのです。

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