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2022年09月10日

ヤマト政権の成立~瀬戸内海を巡る古代勢力の対立~

上立神岩(淡路島):イザナキ・イザナミが周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱とされ、最初に産んだ島が淡路島と伝わる神話

 

古墳時代の様子を考える上で、ヤマト政権成立前後の遺跡・神話を少しふり返ってみます。ヤマト政権誕生と出雲の関係性を紐解くと、古代勢力が瀬戸内海で対立していた痕跡が見つかります。日本書紀をはじめとする神話によった部分も多くありますが、当時の瀬戸内海を巡る各勢力と伝承との関連を検証してみたいと思います。

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■淡路島とつながっていた古代出雲の勢力

弥生時代後期からヤマト政権誕生に到る時期、古代出雲は「日本海文化圏」で重要な位置を占め、当時トップの先進地域である九州北部をはじめ、他地域と広範囲に交流していたと考えられています。また、瀬戸内海方面では、当時指折りの勢力である吉備とも関係が深かったと考えられています。同時期の遺跡である島根県の西谷城塁群からは、吉備独特の装飾性の高い土器である筒形の特蒸器台・特殊壷が発見されており、何らかの政治的関係を築き、共通した禁祀が行われていたことをうかがわせます。

松帆銅鐸

また、出雲は瀬戸内海の要衝であり、イザナキ・イザナミ神話の原郷とも考えられる淡路島ともつながっていたことが明らかになりつつあります。近年、淡路島で発見された弥生時代の松帆銅鐸(まつほどうたく)のひとつが荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の出土銅鐸のひとつと同じ鋳型で作られた「兄弟銅鐸」だったことが判明しているのです。なお、淡路島には名神大社の大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ・南あわじ市)があります。祭神はオオナムヂとみられ、ここからも出雲との関係をうかがわせるものです。

五斗長垣内遺跡:鉄器生産工房の復元図を見ると縄文人にも見える??

近年、浅路島で、弥生時代後期の鉄器生産工房である五斗長垣内遺跡(ごっさかいと・淡路市黒谷)と舟木遺跡(淡路市用木)が発見されました。畿内勢力(邪馬台国とも)の関連遺跡ともいうが、当時の畿内は鉄器の過疎地域であるため、出雲が鉄資源を流していた可能性もあります。

赤坂今井墳墓

一方、出雲と対立関係にあったと考えられているのが、「古代丹波王国」ことタニハ(丹波・丹後・但馬)でとされています。出雲と越に挟まれたタニハは、四隅突出型墳丘墓など、日本語文化圏に共通する遺構が乏しいことがわかっています。しかし、弥生後期としては国内最大級の方形墳墓・赤坂今井墳墓(京都府京丹後市)が見つかっており、その勢力はとても大きかったと考えられています。赤坂今井墳墓からは、大量のガラス玉や中国製顔料を使った豪華な頭飾りも出土しています。出雲と対立しながらも、日本海に突き出た地理的特性を生かし、大陸との直接交流で鉄資源を確保して富み栄えた地域とみられています。

 

■「倭国大乱」の混乱を経てヤマト政権が誕生

弥生後期の2世紀後半、日本国内では「倭国大乱」と呼ばれる内戦が起こり、近畿~中国地方一帯には防御のための高地性集落(山頂などの集落)、環濠集落(堀を巡らせた集落)が造られるようになりました。

田和山遺跡

出雲の田和山遺跡(たわやま・島根県松江市)は、時代の異なる弥生前期~中期の環震集落遺跡ですが、三重に環濠を巡らす厳重な防御施設です。「八雲立つ~」で知られるスサノオの歌にある「出雲八重垣」という言葉を彷神とさせるような環濠です。

 

倭国大乱後の日本は、3世紀前半に女王卑称呼を擁立する邪馬台国の誕生を経て、ヤマト政権(奈良盆地東南部の三輪山麓一帯)成立を迎えたとされています。初期のヤマト政権は緩やかな豪族連合体で、畿内豪族のほか、吉備、タニハ、東海地方なども関与したと考えられています。出雲も協力して交流を持ったとみられていますが、貢献の度合いははっきりしていません。なお、九州北部は関与していないことがわかっています。

 

■知られざるタニハと出雲の戦い

『播磨国風土記』に興味深い記事があります。出雲神のアシハラノシコオ(オオナムヂの別名ともいう)とアメノヒボコなる渡来人が、瀬戸内海側で戦ったというものです。播磨は淡路島の対岸であり、出雲から見れば播磨は淡路島への経由地となります。神話めいた話ですが、アメノヒボコはこの戦いで出石(いずし・兵庫県豊岡市)を得たとされます。アメノヒボコは「日本書紀』によれば新羅王子で、第10代崇神天皇を慕って来日し、但馬国に到ったと伝わります。但馬に製鉄技術を伝え、大規模な治水工事を行った「但馬開発の祖神」という伝説もあるくらいです。この戦いを、初期ヤマト・タニハ連合と出雲・九州北部連合による「明石海峡の争奪戦」が反映されたものと捉える説が近年唱えられ始めています。

アメノヒボコ伝説

■出雲・北部九州とタニハ・ヤマトが瀬戸内海の制海権を巡り衝突

初期ヤマト政権発足の頃、鉄資源は九州北部にほぼ独占されていました。ヤマトは西からの攻撃に強い天然の要塞でしたが、鉄資源の獲得に苦しんでいたことが想像できます。日本海に出るためにはどうしても瀬戸内海の制海権が必要だったのです。しかし、瀬戸内海の海上交通の要衝である淡路島は、九州北部と密接な関係にある出雲に押さえられていた。つまり出雲は淡路島に鉄資源を供給する見返りに、ヤマトを封じ込める「明石海峡の封鎖」を持ちかけたと考えることもできます。

 

一方、アメノヒボコは新羅王子ではなく、本来は大陸との交易で成功し、ヤマト建国を主導したタニハの人物であったとも考えられています。アメノヒボコはヤマトとともに播磨へ侵攻し、出雲方と戦ったことが説話の真相と考えられています。また、スサノオとアメノヒボコが同一人物である可能性も浮上しており、スサノオを出雲土着の神でなく出雲への「外来神」として見直す見解もあるくらいです。大陸との交易の成功、出雲に勢力を伸ばした形跡(オオナムヂを娘婿にした神話)など、多くの共通性が見いだされ始めています。

 

 

今回は、ヤマト政権成立前後の遺跡・神話を少しふり返ってみました。次回は、ヤマト政権成立後に渡来人と同化が進んだと考えられている縄文人(日本の先住民族)が本当にいなくなったのか?あるいは、異なる形で残っていたのか?そのあたりを追求していきたいと思います。

投稿者 asahi : 2022年09月10日 List  

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