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2009年10月11日

春秋戦国時代、何故、中国では邑(共同体)が解体されていったのか?

中国の官吏制度研究に入る前提として、中国が中央集権化していった背景の分析から始めた訳ですが、田野さんが指摘されているように、yoriyaさんが引用された「中国的こころ」さんの分析は生産発展史観の限界を孕んでいるように思われます。
Yoriyaさんが紹介されたように、周から春秋時代にかけてが大きな中国史の転機であることは確かです。
商代:中央組織の原型、氏族連合と私権継承における兄弟間の争いの多発
    ↓
周:世襲制の確立
    ↓
春秋戦国時代:氏族の崩壊と開墾地小農民を束ねた新興勢力の登場

しかし「春秋時代に何故、小農民が増え、氏族社会が解体されたのか」については、見直しが必要だと思われます。

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以下は春秋戦国時代を掘り下げておられるブログ「春秋戦国時代の章」さんからの引用です。
こちらのブログではかなりの文献を踏まえて
春秋戦国時代の農民に技術革新の波が及んでいないのに、氏族共同体は解体されている。つまり、技術革新が氏族共同体を分解に導いた、という考えは間違っていたのである。西周期から秦漢帝国期にかけて、つまり春秋戦国期に、氏族共同体が分解され家族農民が生まれたのは他の要因によるのである。」
と仰っておられます。
そして、氏族制から家族農への転換は、土地の拡張政策に失敗した周及び諸侯の土地の切り売りと細分化にあると分析しています。
http://china3247.blog4.fc2.com/blog-entry-13.html
>(他方で)確実に、漢代において農村は家族制へと変化している。西周期のように氏族共同体で耕作などしていないのである。農民に技術革新の波が及んでいないのに、氏族共同体は解体されている。つまり、技術革新が氏族共同体を分解に導いた、という考えは間違っていたのである。
http://china3247.blog4.fc2.com/blog-entry-73.html 
>殷周末までは邑が社会の基本構成単位を示していた。農民は邑の中で共同的に生活し、共同耕作を行っていたからだ。邑と邑民と農地が三位一体となっていた。だから、邑という存在が社会構成単位として成り立っていた。邑を支配したと言えば、邑民も耕地も支配下に入ったことになる。
>この状況が変わるのは西周末期からである。大克鼎という青銅器に他領に逃亡する農民のことが書かれている。このことは、農民が邑や耕地に縛られず、それ以外の場所で生活できることを示している。また、鋤・Cにはひとつの邑を二人の領主が分割していることが書かれている。これは、邑の農民社会が分裂していることを示している。どちらも、邑の共同性が崩れれていることを示している。
>なぜそうなったのか。周は建国以来領土拡張政策を採ってきた。その拡張政策が止まるのは、穆王・昭王の頃のことである。拡張政策が止まれば土地が増えない。ここで子供たちに土地を平等に分割してしまうと、土地は細分化される。結果、貧困化していく。分家が起こりにくくなる。それゆえ、土地の長子相続性を採ることで、土地の細分化を防いだ。この結果、家長に権力が集中した。また、長子以外の子供たちを長子に仕えさせる事により、労働者化していく。すると、家の中である程度のまとまった労働力が確保でき、邑の集団農法に頼らなくてもよくなる。結果、家の比重が増大し、農民は邑に頼らなくなる。この結果、邑の共同性は崩れだし、家の考え方が強くなる。それゆえ、農民の逃亡が起きたり、一つの邑を二人の領主で分割支配することが出来るようになったのだ。
尚、実現論には以下のような考察がある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=2&t=3
>戦争が無くなり戦死する男がいなくなると、世代交代の度に(解脱収束し性欠乏が肥大した)息子たちに土地を分割して与えざるを得ず、土地が小さくなると多数の妻を養うことができなくなる。従って、土地占有権に基づく一夫多妻制は、世代交代の度に土地が細分割されて、必然的にかつ急速に(3~4世代で)、一夫一妻制=一対婚に移行してゆく。更に、それ以上小さく分割できなくなると、次男以下は嫁をもらえなくなっていった。
これは遊牧民が定着した都市における一夫一妻化の流れを分析したものだが、ここに書かれている「次男坊、三男坊の結婚願望」が私権単位を小さくしていったという視点は、この春秋戦国時代の中国の流れにも当てはまるだろう。
そしてこの周の領土拡張停止の背景には、異民族の抵抗があったようだ。
http://china3247.blog4.fc2.com/blog-entry-92.html 
>どうも、昭王、穆王の時代になると周辺異民族の抵抗が激しくなってきたようである。昭王が南征して漢江で溺死して帰還できなかったという伝説が残っている。周の考え方には平和外交思想があったようである。しかし、この平和外交方針は昭王、穆王時代になると方向転換があったようであり、強圧的な外交策を取り始めたらしい。このため、周辺異民族の抵抗運動激しくなったようである。事実、遠方の周の遺跡のほとんどは武王・成王・康王・昭王・穆王の時代のものである。よほど異民族の抵抗が激しかったらしい。
そしてこの異民族の抵抗の背景には気候変動が影響しているだろう。以下は「中谷酒造」さんのブログより http://www.sake-asaka.co.jp/blog/2008/12/vol150.html 
>商の時代は概ね温暖でした。穀物は豊かに稔り、余剰穀物を利用して酒が醸され、飲酒が盛んでした。豊かな社会を背景に高度な青銅器文化を残しています。しかし気候変動は無情です。紀元前11世紀、押し寄せる遊牧民との戦いに消耗していたところ、外征中に西辺に居住していた半農半牧の周に背後を襲われ滅亡します。周王朝の始まりです。
>二百年後の紀元前9世紀、またもや寒冷化が始まります。紀元前8世紀にはモンゴル高原が乾燥を始め、遊牧民は牧草や食糧を求めて周の領土を度々侵します。
>紀元前771年、周王室の内紛に遊牧民犬戎(けんじゅう)が介入し、王が殺されます。周の権威は落ち、有力国が覇を競う春秋戦国時代になります。
以上を図解にまとめてみる

寒冷化による異民族の南下と抵抗
     ↓       ↓
周王室の弱体化←領土拡大停止→次男坊、三男坊に平等に土地を与え
     │               土地の細分化が進む
     ↓               ↓↓
土地の切売         長子相続のルール化と次男坊、三男坊の
     │          労働者化=家が農業の主体に
     ↓              ↓
諸侯の群雄割拠化    家単位での逃亡・条件の良い場所への転出
     ↓              ↓
   諸侯による家族単位の農業経営=封建制度

つまり、気候変動による領土拡大停止とそれによる土地の分割が、一方で農業主体を邑(共同体)から家族へと変質させ、他方で、王室の支配力低下と諸侯たちの群雄割拠状況を生み出した。そして、邑(共同体)は解体され、有力諸侯が家父長家族を束ねた農村経営が確立されたという流れだ。
そして、この有力諸侯たちがしのぎを削る戦乱の中から、中国の中央集権化が強化されていき、官僚制登場の下地を作っていく。
文責:怒るでしかし~

投稿者 staff : 2009年10月11日 List  

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コメント

稲作を初めとした農耕生産の起源を知りたくなりますね。どのようにして、生産様式として定着したか。
確か、約5000年前くらいの略奪闘争が勃発=戦争が始まった以前に、農耕という生産様式はあった記憶があります。よって、農耕を開始した人々は、外圧状況によって、農耕生産という様式を生み出したのかな?と直感的には考えてます。

投稿者 さーね : 2009年12月17日 21:13

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