2021年10月7日

2021年10月07日

縄文再考~縄文時代の集落について①~

写真:炉畑遺跡 竪穴式住居

 

皆さんこんにちは!

前回は縄文時代の墓から出土した骨や黒曜石から、集落の男女比率や生殖の仕方について追求をしました。今回は集落や集団が存在した立地条件や住居の形から彼らの生活について何回かに分けて仮説から根拠を辿っていきたいと思います。

 

■縄文時代の集落の変遷

縄文時代における人々の集落は各時期によって変化をしています。今回は縄文時代を早期、前期、中期、後期、晩期の5つに分類し特徴をあげていきます。

 

<早期>

・丘陵の頂部や台地縁辺部に小規模な集落(?)が形成している

・住居にはそれほど規則性は認められない

・二~三軒の小規模な住居群で構成している

・竪穴住居跡の平面形は方形のものが多い

・10m前後の大型住居が東北地方から北海道南部、北海道東部、関東地方東部で出現する

・居住内には炉がなく、屋外に炉がある

 

<前期>

・早期の立地に加え台地の平坦部にも形成されるようになる、また海進によって内陸部でも貝塚がでてくるようになる。

・住宅群がやや増加、中央に広場を有するものもみられる

・住居の平面形は方形・長方形が基本だが、徐々に楕円形・円形のものもみられる

・大型住居は関東地方から東北地方南部まで広域で出現するようになる

・屋内に炉が設けられるようになる

 

<中期>

・集落規模が大きくなっていく

・住居は平面形も円形のものが多くなる

・柱穴の配置もしっかりし、炉は地床炉・石囲炉・石組炉・土器埋設炉などがみられる

・大型住居は北海道から東北・北陸地方まで広範囲に広がり住居形式の拡散期となる。

<後期>

・直径150mの大きな貝塚(中妻貝塚)や直径120mの環状集落(竜ケ崎廻り地A遺跡)など大規模な集落が出現する

・円形の住居が多い、柱穴を壁際に沿って配したものみられる。

・炉は地床炉がほとんど。

 

<晩期>

・前期や中期に比べて住居群や住居規模が減少する

・円形から方形形が再び主流となる。

以上から前期から中期・後期にかけて住宅群が増加し集落規模が大きくなったことが分かります。また集団・集落の規模が大きくなるにつれて建物が方形・長方形から円形に変化し、炉の機能等が発達し集落として豊かになっていったのが分かります。

またどの時期も共通で大型住居というものが存在し、居住用の住居とは違う特性をもつ住居が存在しているのも気になりますね…!

今回の大きな流れからさらに各時期の集落の配置や住居の中身、大型住居の機能についてさらに深堀りしていきたいと思います!

 

〇参考文献

・常総市/デジタルミュージアム 『集落の変遷』

・高根沢町史/デジタルミュージアム 『二 竪穴住居の変遷』

・安斎正人編:同成社『縄文式生活構造』

(さらに…)

投稿者 hanada : 2021年10月07日  

2021年10月07日

土偶のカタチ。そして、その意味とは?ー1

みなさんこんにちは。

 

前回、縄文人は土偶に精霊を宿し、豊穣・平安、子孫繁栄を家族のために祈ったと考察しました。

自分のためではなく、“家族のため”というのがポイントになりましたね。

 

今回は実際に土偶のカタチ、時期、出土場所を見ながら追求していきます。

 

まず土偶が出現し始めたのは、縄文になり温暖化が進み、定住化するようになってからです。

定住化するのは、生活に安定を求めるようになったからです。そこでは生殖一体の生活が営まれていたことでしょう。

縄文は長いです。時代も出土した土器の特徴によって細分化されています。

・草創期、早期、前期は定住化の始まり。人口は早期2万~前期11万。
・中期は、人口の数が増え、集団が大きくなっていきます。人口は26万。
・後期になり、人口が激減。集団にかかる外圧が変化します。人口は16万。
・晩期はさらに人口が減ります。もうどうしようもない状況になります。人口は8万。

各時期で土偶のカタチはどうなったのか?祈りの対象は?を実際に土偶のカタチを見て追求していきましょう。

縄文土偶の遍歴

↑画像クリックで拡大

 

■縄文時代草創期・早期・前期

草創期、早期、前期の土偶

  • 女性の上半身のみ(顔、足はない)
  • 豊満な胸とくびれの再現

不思議なことに、この時期は全国的にほぼ同じようなカタチの土偶が制作されています。草創期、早期、前期の土偶の総数は全国で184体と全体の2%程度でかなり少ないですが、そもそも人口が2万にと少ないです。寒冷化から温暖な気候になり、定住を始めたため、そもそもの集団規模が小さかったと考えられます。

土偶の全てが女性を彷彿させています。女性は生命を自らの身に宿し、子孫を残します。集団において、女性は不可欠です。

推測するに、この頃の集団の課題は子孫繁栄、集団の継続、拡大だったのでしょう。それを実現するために絶対的に必要なのが女性だった。だからこそ、この時期の女性を性の対象、尚且つそれが美しいもの、尊いものの象徴として、土偶で”再現”しています。縄文時代の出産には母子ともに大きなリスクがあったことはほぼ確かでしょう。命がけで生命を育む(男性には絶対に出来ない)母子に対し、男性は祈ることしか出来なかった。それを差別化することなく、祈ること、支えることが男性の役割。そして、子孫繁栄の意味を込めて、単位竪穴式住居ごとに呪具として祈っていたとされています。

現代の医療は技術が進んでいますが、母子の命を尊く思い、土偶にその祈りを込めたと思われます。

 

■縄文時代中期

中期の土偶

  • 体だけでなく、顔、足も再現され、全身を制作
  • 女性を彷彿させる胸・くびれ・お尻を再現
  • 文様の出現

これは、カタチ、デザインへの追求に時間を充てるよりも、祈りを強めることへ注力したと考えるのが妥当ではないでしょうか?女性から子が生まれることへの感謝、素晴らしさに対しては草創期から継続かと思われます。そのため、やはりカタチは女性。胸もあり、くびれもあります。子を抱くなど仕草を再現したものが加わってはいますが、極論を言えば、カタチの変化はないです。

その裏付けとなるのが、(土器の記事)。

“実用品としての合理的な形状・装飾性の追求ではなく、集団間の緊張感を和らげる(相手集団に喜んでもらう)ための追求”

中期と言えば、土器のデザインがピークになった時期。土器が集団間の緊張を緩和するための贈与品としてデザインを追求していたとすれば、土偶は集団内の女性に対しての畏敬、その存在の平安の祈りを強めるためににカタチを追求。つまり集団を強くするための所作な訳です。

土器、土偶の役割を同じだ、と考察する方もいますが、それは全くの捉え違いではないでしょうか?

土器は集団間での贈与品(中期まで)、後期以降は集団人口減で実用的に。土偶は集団を強くするのが女性と捉え、それを実現することを祈るもの、と明確に異なった役割です。

 

唯一異なるものは人口の数です。前期までは人口が少ないため、身内に対しての祈りでしたが、中期になれば、人口が26万人に増え、集落となっていきます。人が多ければ働き手も増え、採取・狩猟においては有利になります。ここは上記にもつながる点ですね。

祈りを込めた土偶の対象範囲が単位竪穴式住居の枠を超え、集落または周辺も含めた共同体へと対象範囲が広がったと考えられます。完成度の高い土偶が現れたのも、より強い祈りをより広い対象へと広めるため。集団にとって一世一代の大仕事だった訳です。

 

■次回

中期までは、集団を強くするために土偶に祈りを込めてきました。

後期以降、全く異なるカタチの土偶に変化します。人口も16万人まで減少しています。集団にかかる外圧が変化し、祈りの対象が変化したと思われます。

次回は後期以降の土偶のカタチを追求していきます。

投稿者 matudai : 2021年10月07日  



 
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