2021年10月22日

2021年10月22日

【縄文再考】縄文土器の文様はなにを示すのか~無文字文化の中での集団・意識統合

皆さん、こんにちわ!

先日掲載した「縄文再考:縄文土器の変遷からみる、縄文時代の外圧と追求思考」という記事では、早期から晩期までの土器の変遷を抑えなおし、縄文時代における生々しい外圧の変化、縄文人の追求思考を分析しました。

中でも、特筆すべきは「中期」における土器の進化。実用品・日用品としての高度化とは明らかに異なる方向での進化こそ、縄文人の精神性が表している可能性が高い。

そこで、今回は、中期の縄文土器に中心に“縄文土器の「文様」はなにを示しているのか”について追求していきたいと思います!

 

文様の意味は学術的にはいまだ明らかになっていない課題!記事を読みながら、みなさんもぜひ一緒に考えてみてください♪

 

■無文字文化の中で、集団を、意識を統合するための縄文様

縄文人は文字を残していません。現代では欠かせない情報伝達、意識統合手段としての文字がないにも関わらず、狩猟や採集、さらには高度な漁撈・根菜雑穀の単純農耕を行い、定住性の高い社会をつくっている。中でも、人口が26万人にまで増えた中期では集団間の接触・交流も多かった。

そうした外圧の中で、縄文中期の土器は火の通り、安定性、用途に対応した機能進化ではない、形状・文様変化がみられる(形状・文様の複雑化)ということは、集団内の統合、集団間の共生のための進化であった可能性が高いと思います。

文様が最も複雑化している火炎土器や水煙土器は、中期以降の人口減少と共に、当然姿を消し、用途に対応した器形の多様化や器壁を薄くすることでの実用的進化に向かっていくことからも、文様の複雑化が、集団を、意識を統合するためだったというのは整合するのではないでしょうか。

 

■複雑文様の土器は希少で、特別な用途に用いられていた!?

複雑文様の火炎土器や水煙土器は、一定の地域で集中的に出土し、地域的特色が表れていますが(個人の趣向によるものではない)、総数に対する割合でいえば約2%(※)と非常に希少な土器であったことがわかっています。明らかに、日常的に使用する土器と特別な用途として使用する土器が分かれており、複雑文様の土器は特別用途であったことがわかります。

※火炎土器の発掘された笹山遺跡から出土した土器総数928点中、火炎土器は20点のため20/928=約2%

 

ではなぜ、文様を複雑化させたのか。

温暖化し、実りが多くなったことで、時間にゆとりができ、装飾に凝るようになったという説をよく耳にしますが…「縄文再考:縄文土器にみる、縄文人の外圧と生命観(http://web.joumon.jp.net/blog/2021/09/4130.html)」でも紹介したように、食べ物と共に、中期は人口が爆発的に増え、食いぶちも増えているため、食べ物を得る(採る)ための労力はあまり変わりません。

他時代と最も言葉るのは集団の数が増え、集団同士が接触する機会が増え、緊張圧力が増したという点。統一された言葉、文字を持たないなか、集団間での衝突を防ぐ(緩和)するための贈与品として用いられ、進化を遂げたというのが最も自然といえます。

 

 

■自然の注視・一体化が収束軸であり、美しさだった

中期の土器には「円筒土器上層、北筒式、中期大木式、阿玉台式、狢沢式、勝坂式、加曽利E式、曽利式、唐草文系、北関東加曽利E式、五領ヶ台式、新保・新崎式、串田新、大杉谷式、上山田・天神山式、咲畑・醍醐式、舩元・里木式、阿高式」と数う多くの形式が存在しますが「①自然にある曲線を多用した立体的な造形が目立つ、②単調な文様の繰り返しではなく渦巻やS字や逆U字などの組み合わせた複雑文様であること、③全く同じ組み合わせはない」ことが特徴的。

現実に存在する自然を対象化し、それを注視して捉えた内的イメージを視覚化させている。それが集団統合ツールであり、集団間の贈与品であるということは、自然の注視・一体化こそが収束軸であり、みなが「美しい」と感じるものだった縄文人の生命観を現していると言えるのではないでしょうか。

 

 

中期の縄文土器にみる縄文人の意識・集団統合。それは自然の注視・一体化が収束軸であり、それこそが美しさに直結するという生命感

現代人も縄文土器に魅せられることを考えると、改めて、自然の注視・一体化は人類にとって普遍の可能性であり、日本人の原点ともいえそう。

だからこそ、なぜ中期以降、縄文土器は別の進化を辿ったのか。人口減だけでは説明のつかない謎を継続して追求していこうと思います。

 

※以下、参考図書

縄文文化の超自然観-死と再生のシンボリズム- http://www.isc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/area/ne_asia/Jomon/index.htm

データ検索情報誌2018~2019 火焔土器のデザインと機能  http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress019/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/%E7%81%AB%E7%84%94%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E6%A9%9F%E8%83%BD/

投稿者 sibata-h : 2021年10月22日  

2021年10月22日

縄文再考:縄文人のルーツ③~多方面からやってきた日本人の祖先たち~

先回はミトコンドリアDNAの解析によるハプログループ分類から、日本人のルーツをたどってきました。今回は縄文時代から少し遡った旧石器・新石器時代、さらに遡ってホモ・サピエンスの拡散ルートをたどってみます。そして最後に、直近の研究で明らかになった日本人のルーツの“第三の存在”について少しだけ触れたいと思います。

 

■多方面からやってきた日本人の祖先たち

人類の祖先であるホモ・サピエンス類は、30万年より前にはアフリカで出現し、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)に進化をしながら、10万年前頃にはアフリカ大陸から出始め、世界を旅して広がって行ったと定説では考えられています。現生人類は時間をかけて全世界の隅々にまで到達したということですね。アフリカを出た10万年前は旧石器時代にあたります(ただし、この定説は近年のDNA解析技術の進展で、アフリカ起源説→多地域起源説にくつがえりつつあります。そのテーマは、また後日考察します)。

図:現生人類(新人)拡散の推定時期

アフリカを出た現生人類は、4万年前~3万年前には日本列島にも到達したと見られています。アフリカをあとにして広がった人類は大きく3つのグループ(ヨーロッパ/東アジア/南・東南アジア方面)に分かれたと言われていますが、これまで当ブログでも追求を深めてきた通り、Y染色多型体の分析による最新の結果では、日本に到達したルートは以下のように考えられています。

 

①旧石器時代にシベリア経由で到達した

 (北方ルート)

②旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達した

 (対馬ルート)

③弥生時代に華北・朝鮮半島経由で到達した

 (航海による対馬ルート)

④南方から沖縄経由で到達した

 (南方ルート)

(さらに…)

投稿者 asahi : 2021年10月22日  



 
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