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シリーズ「人類の部族移動」その7 シュメール人の出自

前回(その6)で南欧以北の欧州と原欧州人について記載しました。
今回は、人類最高の文明を作ったと言われる謎のシュメール人について迫ってみます。
部族移動の史実から『シュメール人は黒人であった。そしてシュメール人は、セム語族に皆殺しにされ、そのシュメール人の残党がインダス文明を滅ぼした』が推論されます。
2/6なんでや劇場(2) 原欧州人とシュメール人の出自 [1]
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イラン高原で登場したKが原シュメール人(黒人)。それがアナトリアに移動してセム族Jとハム族Eと混血し、6500年前の温暖期により肥沃なメソポタミア下流域に移動した。そして1万年前以前からメソポタミアに住んでいたウバイド人(黒人)と混血したのがシュメール人である。つまり、シュメール人とは、セム族Jやハム族Eの血が混じっているとは言え、ほぼ黒人であると考えてよい。実際、シュメール人は自分たちのことを「黒い頭」と呼んでいる。

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黒いシュメール(画像は、こちら [4]からお借りしました)

しかし、シュメールは4000年前にセム族によって乗っ取られる。4380年前にシュメール都市国家にセム族が侵入。セム族がアッカド建国。4200年前にはシュメールが再び奪い返すが、4000年前にはセム族がバビロニア建国。メソポタミアのシュメール人は絶滅し、それ以降メソポタミア地方はセム族に支配されることになる。
生き残ったシュメール人が、彼らの植民地であるインダスへ流れていった(シュメールとインダスが頻繁に交流していたことから考えても、インダス文明があった現在のパキスタンは人口の90%がイスラム教徒になっていることから考えても、メソポタミア~インダスは行き来が頻繁な地域であった)。このシュメール人とインド原住民の原モンゴロイドの混血がドラヴィダ人だと考えられる。

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画像は、こちら [5]からお借りしました。
インダス文明及びドラヴィダ人とシュメール人に関する参考記事をご覧ください。
インダス文明はいかにして成立したか [6]
ドラヴィダ人はシュメール人から派生しているのではないか? [7]
インドの民族~ドラヴィダ人はシュメール人とどの民族の混血か? [8]

その後、ドラヴィダ人はインダス文明を放棄して拡散していった。学説ではインダス文明消滅の理由は乾燥化説や洪水説で、アーリア人に攻められたのではないという説が主流だが、もう一方に残る次の事実は捨象されたままになっている。
インダス遺跡の一つモヘンジョダロは「死者の谷」と呼ばれ、大量の死体が発見されている。皆殺しに近い殺戮があったわけだが、それはアーリア人の仕業ではないとすれば、誰がドラヴィダ人を殺したのか?
⇒それもシュメール人ではないか。
セム族に攻められ、メソポタミアで皆殺しにされて命からがら逃げ出したシュメール人が恐怖に駆られたまま植民地インダスに押し寄せてドラヴィダ人を皆殺しにしたのではないだろうか。

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死の都と呼ばれるモヘンジョダロの遺跡と発掘された遺体(頭部に鈍器で殴られた後)
画像は、「死の都 モヘンジョダロ」 [9] からお借りしました。
次回は、いよいよ最初の略奪闘争(戦争)について記載します。

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