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中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史①~略奪の始まりは羌族か?

さーねさんの前作 [1]では、人間扱いされなかった「羌」や「南」の“異民族”のことが紹介されましたね。
この「羌」とは一体何者なのか? 調べてみました。
>羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。(「送魂路 [2]」さんより引用)
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。
(「レアメモリー [3]」さんより引用です)・・・漢水とは長江の支流のことで陝西省の南部を指します。
>チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。松岡正子氏の論文 [4]より引用です)
ここで中国の地図を載せておきます。
青海湖辺りに西羌族、天水辺りに南羌族がいたわけですね。
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古代で遊ぼ [5]さんよりお借りしました。)
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前回紹介した「西戎 [8]」にあたるのが羌族なのでしょう。犬をトーテムとしていたことから「犬戎」とも呼ばれていたようです。
さて、疑問が湧いてくるのが、
故地を追われた数千年前というのは何時のことなのでしょうか? また誰に追われたのでしょうか?
、、、さらに西や北にいた遊牧民族に追われたのでしょうか。中原(黄河下流と長江下流の間)の地へ進出したのが三皇五帝以前ということですから、夏王朝よりも前、BC3000年頃でしょうか。
なぜ集落周辺に、大規模な環濠を設置するのかの理由の一つが、羌族や北戎の存在でした。後代、中国中原を支配する王朝総てが、その勢力の侵攻に悩ませされ、政権の維持に危殆が生じます。 有史以前であっても、中国のみならず、ユーラシア大陸の文明地帯において、周辺遊牧民族の存在は、外敵として、かなりの脅威でした。
生産力で、定住民に劣る遊牧民が、農村集落を襲撃して略奪し、中には征服して定住化するものもいました。 遊牧民の侵攻以外にも、周辺集落相互の水争いも含む農業好適地を巡る紛糾と、富や人間の略奪を目的とした争闘もありました。(レアメモリーさん)

環濠集落の歴史は古く、黄河、長江ともにBC8000年くらいから見られますが、遊牧民による略奪がそこまで遡るのか、ここはも少し検証が必要ですね。この古代羌族が故地を追われ、内部に進出していったのが中国における略奪の始まりかもしれません。
ともあれ、この羌族は東進、南進しながら各地に定住しては文化を築いています。そして、BC3000年頃には黄河下流の龍山文化や、長江下流の良渚文化との交流があったようなのです。このあたりは、、、長くなるのでまた次回に紹介いたします。
 (by eto)
古代羌族を祖先とする少数民族は、今も四川省や雲南省の奥地に住んでいるのです。↓↓
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送魂路 [2]さんよりお借りしました)

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