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2006年10月21日

インダス文明の謎?~インダス文明の担い手は-ドラヴィダ人って?

今晩は  さーねです
インダス文明を調べよう…色々探ってみましたが、謎だらけすぎます!! なので、一つ一つ解明していかないと無理そうです 😥
まず、インダス文明は誰が創ったの?=今最も有力とされているドラヴィダ人に焦点を当てたいと思います。 😮
今日引用したサイトは、●松本正剛の千夜千冊http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1005.html『インド古代史上下)』中村元著の解説より
ドラヴィダ人は、どうやら母系社会であった様。母系社会であるということは何を意味するのか
[採集生産の集団は、なぜ母系なのか?]
>①一般の哺乳類は、若♂放逐が本能原理=自然の摂理。
>②♀は生まれた集団に残る方が安定度が高い=女共認が形成しやすい。
>♀は元々集団収束力が弱い(=首雄に収束する性的存在・充足存在)。
>・集団は、生殖と生産(闘争)課題を包摂している。
>・本能次元では、♀は生殖(と充足)存在、♂は闘争存在。
>・外敵からの防衛を♂が担い、その安全域で出産・子育て・採集生産。
>・それを実現しやすい集団の在り様とは何か? という集団統合課題。
>;その素直な実現態が「母系集団」である。
(るいネット「遊牧の起源と特異性」父系集団の発生とそれによって刻印された問題http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=132199より)
ドラヴィダ人の集団は、女性が安心して暮らせる集団であったということ。この時期イラン高原では、遊牧部族によって玉突き的に掠奪闘争が勃発!多くの部族が掠奪集団化⇒父系制であったのに対して、インダス文明は、母系制=共同体的集団から始まっている!
byさーね
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以下、「松本正剛の千夜千冊」からの引用↓
>そうした信仰をかたちづくっていた原住民はムンダ人やドラヴィダ人である。母系制の社会だった。父よりも母を重んじた。古代プーナの陶工たちのあいだでは最も大きな水瓶は女が作ったことがわかっている。このことは古代インド史を見るにあたって重要な視点を提供するもので、のちの古ウパニシャッドやジャイナ教や『マヌの法典』にも、この母系制が残響した。
>紀元前2000年ころ、そのインダス文明の地域にアーリア人がくりかえし侵入して、しだいに切り崩していった。侵入は500年くらいにわたり、アーリア人はパンジャーブ地方に定着する。ヴェーダ神話にはインドラ神が金剛杵をふるって悪魔が造った障壁を破壊して河水を流したという話が出てくるのだが、これはインダス都市のダムをアーリア人が破壊したことを暗示する。それとともにヒッタイトから学んだ鉄器を使っていたことが暗示される。金剛杵とはヒッタイト譲りの鉄器なのである。
>紀元前18世紀になると、アーリア人はガンジス河流域にまで進出して、ここで定着した。森林に入ったのだ。ここで編集されたのが古代インド最古の文献の『リグ・ヴェーダ』を嚆矢としたヴェーダ集であり、ヴェーダ神話である。これが厖大にある。『リグ・ヴェーダ』だけで『源氏物語』くらいの量だ。そのヴェーダ神話の中心には猛威をふるったインドラ神が坐った。それとともにしだいに階級社会いわゆる「カースト社会」を形成していって、多数の都市国家を次々に群雄割拠させていった。かくて紀元前600年前後、ガンジス支流を拠点にした北インドに「十六大国」が出現し、なかでマガタ国・コーサラ国・ヴァツァ国、アヴァンティ国の四国が強大になっていく。
102111.jpg
「『リグ・ヴェーダ』」
⇒後に、インダス文明はアーリア人によって支配→国家が形成されていった。アーリア人は、遊牧発の父系制を敷く部族で掠奪闘争そのもの。その闘争力の違いから、母系制を敷くドラヴィダ人は、好戦的なアーリア人になすすべもなく支配されたのでしょう。
ここで、今日の気付き。インダス文明が謎に包まれている一つのキーワードは、やはり、黎明期にポイントがあるのではないでしょうか?インダスには王墓や大神殿がない。権力というものが存在しなかったことが伺えます。
アーリア人以降の研究はかなり明確になっていますが、インダス文明の謎の多くは、母系=共同体的体質に秘められているのではないでしょうか?

投稿者 postgre : 2006年10月21日 List  

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コメント

ジグラットというのは「神殿」なのでしょうか?
宗教的な必然性から造られたものなら精神的な求心性のある造形なはず。
しかし、発掘されたのが、石やアドベを積み上げた城壁というべき遺跡であったという事が示すのは、それが神殿というよりも、、現実的な「力」の世界での勝者であることを示そうとしている場。そういう遺跡であるかのように感じました。

投稿者 田村正道 : 2006年10月23日 00:34

ジグラッドとは“聖なる塔”という意味のようです。
神殿の祭壇(天につながるもの)が大規模になったものではないでしょうか?
神殿は、ウバイド初期の祠のようなものから、ウルク期になると大規模でシンボリックなものに徐々に変わっていきます。
よく図版に出てくるエリドゥの神殿などは年代によって拡大していく様がよくわかり、そこには連続性が見られます。
もともとの神殿のもつ権威と“現実的な力”とは何かが違うと思われます。(日本でいえば、卑弥呼と武力政権の違い?)
その違いってなんなんだろう?強制的であるかどうかの違い?

投稿者 Hiroshi : 2006年10月25日 09:49

私もジグラッドについて調べてみました。
言葉の意味はHiroshiさんがおっしゃっているように「聖塔」の意味だそうですね。
ここで当時の人々の信仰心ですが、「南風博物館」というサイトの「メソポタミア宗教史」(http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/babylon_rel.html#pre_religion)というところに興味深い内容が載っていました。
>メソポタミアで創造された神々は、各都市の支配者である王とともに統治にあたる格の高いものから、家にある道具の何々に宿る格の低いものまで、数え切れないほどあった。その中でも国家を守護する神は、普段は神殿の奥にいて、支配者であると同時に祭司の長でもある王を従えて、妻や家族とともに住んでいると考えられていた。<
つまり、田村さんが言っているように、当時の人々が信仰していた神は、まさしく支配者であり、だからその上を祭る場所は「現実の力の勝者の住まい」であったのではないでしょうか。

投稿者 saah : 2006年11月9日 22:43

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