2006年10月25日

2006年10月25日

人口減少に憂う縄文人

縄文時代の人口は気候変動などの要因もあり、中期に最盛期を迎え以後減少してゆきます。
縄文草創期 1万2千年~1万年前  人口不明   
・縄文時代の基礎構築時代
縄文早期  1万年~6千年前    約2万人     
・南九州で縄文文化が開花
縄文前期  6千年~5千年前    約10万5千人
・文化の中心が東日本に移る
縄文中期  5千年~4千年前    約26万1千人
・人口が最高となる・縄文文化の最盛期
縄文後期  4千年~3千年前    約16万人    
・気候の寒冷化・人口激減
縄文晩期  3千年~2千5百年前  約7万6千人  
・出生率の低下・渡来人の帰化始まる
縄文人は人口減少危機に対応するため祭りや文化を発達させていったようです。
土偶は、魔よけや動植物の繁殖、子孫の繁栄を願って製作されました。しかし、縄文中期には全国に26万人いた人口が、後期から晩期には7万5千人にまで急減したと推定されています。藤田富士夫氏は、縄文人がこの事態を新しい祭式を導入することによって乗り切ったと推測しています(「生と死の姉妹土偶」富山新聞2003年6月10日)。これまでの土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。真脇遺跡(石川県能登町)からは天狗のように目をつり上げて怒りをあらわにしている土製仮面(縄文後期)が出土しました。顔を仮面で覆い、呪術者が精霊に化身したと推定されています。
 この仮面祭祀が盛んに行われるようになることで、それまでの土偶の姿にも変化がおこりました。仮面を装着した土偶を製作することで、より一層の呪力や効果を期待しました。
 土偶が大型化し、独鈷石や石刀、石剣などの祭祀・呪術的な遺物が増え、桜町遺跡(小矢部市)のように祭礼の場とみられるウッドサークル(縄文晩期)が造られるなど後期~晩期は縄文時代の精神文化が色濃く表れてきます。
 長岡八町遺跡から出土した土偶は、わざとこわされ、谷に捨てられていました。こわして谷に捨てることによって、新たな命の誕生を願うまつりごとを行っていたと考えられます。2点もの大型土偶が用いられた背景には、縄文時代の長岡八町ムラが周辺地域の村々の人々が集まり、祭祀が行われていた拠点的な集落となっていたと推定されます。当時の人々のよりどころとなっていたのでしょうか。

投稿者 tiwawa : 2006年10月25日