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2007年01月22日

古代市場1:貨幣(コイン)の始まり~国家(支配者)が発行した~

こんにちは、Hiroshiです。
最近縄文と文明も、縄文・メソポタミアから中国も含め範囲が広がってきましたね。
さらに深く追求するため、数回にわたって古代の市場を追求してみたいと思います。ここでは西アジアから地中海が舞台になると思います。
まずみなさんが普段使っている“お金”(貨幣、コイン)の起源から入りたいとおもいます。
お金っていつ頃なんのためにできてきたのでしょうか?

まずは、世界で最初のお金(コイン)はこれ!
C0019.jpg
[■リディア王国 1/3ステーター貨 ] ヨーロッパコインの源流さんよりお借りしました。
>ヘロドトスほか古来の伝承が伝えていることは、円型の金属片に刻印を打ったコインの発明はリュディアのギュゲス王の仕事であったということである。彼は紀元前670年に金73%、銀27%の合金であるエレクトロンのコインを作成したのである。(『文明の「血液」』)
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E101.jpg
[■アテネ テトラドラクマ(4ドラクマ)銀貨 BC.449-413〕古代ヨーロッパの神々さんよりお借りしました。
>このギュゲス王に早速追従して、ヨーロッパ世界で最初のコインを作ったのはギリシャのアルゴス王のパイドンである。これは銀貨、ドラクマ銀貨であって、紀元前650年のことと言われている。(同上)

[■前5世紀頃のギリシャとアカイメネス朝ペルシア帝国の地図 このころリュディア(Lydia)は、ペルシャに併合されるが、小アジア(トルコ)のギリシャ側に地名が見える](UT Library Online – Perry-Casta)より
●貨幣(コイン)が作られ始めた動機は、通常考えられていうのは商売や交易の際の利便性からですが、実際は違っていたようです。※ヒントは、貨幣(コイン)を発行したのが、国家であり支配者の顔などが刻印されていたこと。
湯浅赳夫氏の『文明の血液』より
>コインは、支配者や国家機関によって造幣され、国家や支配者の明確な記章であるとすれば、コインの原初の目的は何らかの形で支配者か支配機構の利益か便宜にかかわるもののはずである。
>クラーイは、紀元前7世紀、とりわけ紀元前6世紀のギリシャの生活は、大変複雑であったという。当時、高揚していた植民活動によってギリシャ人によって占拠された土地は拡大し、その相互の関係は密接になっていた。原料や製品が大量に取引され、各地で冨が蓄積された。このことは当時の文化面、社会面に反映しないはずがなく、政府の役割は多様化して、そのおのおのについて国家の支払いと受け取りの機会が増大していたのである。
 
>入港税は、国家の大きな収入源であったし、罰金、科料、その他の税金の支払いも増えていた。支払いとしては、傭兵や兵士に対する支払い、専門家への給料、公共事業による支出(これには物品に対する支払いと労働者、職人への支払いが含まれる。)などがあった。これらを地金で計量することによって行なうのは極めてわずわらわしいことである。そこで、地金を一定の純度、重量のコインとし、公的な授受はこのコインをもってなされるよう定められることとなったというのである。

このようにコイン(貨幣)は、交易の便利のために発明されたのではなく、簡単に言えば、国家の収入と支出作業の簡素化のためにコインをもって授受するように定めたということだ。
しかしコインが誕生すると、交易と結びついて爆発的に普及して、市場経済の血液となっていく。
さらに一般の人が利用するようになっていくのは、兵士や傭兵への支払いにコインを使ったことも大きいようだ。
>貧しいこの国を富強に導いたのは、パンガイオンの金鉱の占拠により獲得した金資源で造幣したスタテル金貨であった。この金貨こそマケドニアがギリシャのもろもろの都市国家を制圧するにとどまらず、アジア征服をも可能にした物資的基盤であった。・・・・そのスタテル金貨がダイレイコスの8.4グラムに対して、8.7グラムという良質のものであったために、ペルシャ帝国に大量に雇用されていたギリシャ人傭兵を引き付けることができたからである。(同上)
国家の発行するコインに群がってくる傭兵たち。目に浮かぶようです。お金に目がくらむようになったのはこのころのようですね。
“市場は国家の寄生物にすぎない”(参照)ことから考えると、国家が市場を整備してその血液・インフラである貨幣も発行するようになったのは当然かもしれない。そうやって交易市場・取引市場が普及して、だれもが貨幣で何でも買えるようになって、人々は貨幣の虜になっていったのでしょう。
次回はすこし遡って原始貨幣とお金(コイン)との違いか、貨幣が現れる前の西アジアの取引について考えてみたいと思います。
(by Hiroshi)

投稿者 ihiro : 2007年01月22日 List  

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コメント

縄文人って日本海をかなり自由に行き来してたようですね。
ただ、親潮が流れてるから、新潟とかから北海道方面に行くのはいきやすそうだけど、逆はしんどい感じ。
それとも、各地の縄文集団の贈与ネットワークが発達していて、だんだん遠くまで伝わっていったのかもしれない。
また記事で面白いとおもったのは、贈与品がアクセサリーのような装身具が多い点。やっぱり原始でも貴重なものだったのでしょうね。

投稿者 Hiroshi : 2007年1月27日 00:28

Hiroshiさん、コメントありがとうございます。
>親潮が流れてるから、新潟とかから北海道方面に行くのはいきやすそうだけど、逆はしんどい感じ。
北海道から沖縄or九州なんてホント大変ですよね、まさに命がけだったように思います。だから迎えるほうも精一杯の歓迎?をして貴重品を贈ったのでしょうかね。
それにしても船泊には装飾品の製作工房まであったようですから、驚きです。

投稿者 eto : 2007年1月29日 21:43

ご返事ありがとうございます。
もう一つご存知だったら教えて欲しいのですが、縄文人の行動範囲はどのあたりまでだったのでしょうか?
朝鮮半島、沿海州、サハリンなどの日本海沿岸と少し入った内陸まで及んでいる感じですが(すいません証拠があるわけではないですが、そう聞いたことがあるような?)
だとすると、いったいそんなところまで、何のために??

投稿者 Hiroshi : 2007年1月31日 16:03

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