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環壕はなぜ忽然と姿を消したのか?

弥生時代の人々の意識を解明する上で、「環壕」が忽然と消え去ってしまった原因をおさえておく必要があると思います。
今回は、「環壕の起源」「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を、
邪馬台国の道 [1]から紹介したいと思います。
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高島 日本最大の環壕集落として知られる吉野ケ里遺跡は紀元前3、4世紀から紀元3世紀までの約700年間、継続的に存在した。その初期の環壕が遺跡南側で確認されているが、形状はどうも韓半島にも類例がある楕(だ)円形のようだ。
 韓半島における環壕集落の成立は吉野ケ里遺跡より古く、その後、日本でいう弥生後期まで続いている。
韓国南岸には多くの環壕集落が確認されており、その中に環壕の形状が楕円形もある。南山(ナムサン)遺跡などがそうで、吉野ケ里遺跡のように大きくはないが、成立年代も同じとみている。形状や成立年代など類似点は多く、日本の環壕集落の起源は韓半島の可能性が高い。
西谷 関係の深さを感じさせる遺物も多い。福岡市の板付遺跡に代表される弥生時代初期の環壕集落から出土する磨製石器と同じ形式のものが検丹里(コムタンリ)環壕集落で確認されている。磨製石器のほかにも韓半島に源流を持つ支石墓が吉野ケ里遺跡の近くにある。環壕だけでなく付随する遺物や遺構までそっくりだ。やはりルーツは韓国と考えたほうが自然だろう。
引き続き、「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を紹介します。
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高島 それでは日本で環壕集落という集落形態を普及させたのはだれなのか。弥生時代に始まった稲作は、韓半島や中国からの渡来人が日本に伝えたとの説が有力だが、環壕集落も渡来系がつくったのだろうか。それとも在地の縄文人なのか。
西谷 担い手はやはり渡来人だと思う。ただその人たちだけでなく、在地の人々も先進的技術や文化を受け入れ、育てていったと考える。
 私も縄文人と渡来系が融合し「弥生人」となりつくり上げたと考える。例えば縄文時代終わりの代表的な土器「夜臼式土器」に、韓半島から伝わった無文土器が影響を与え、弥生土器に変わっていった。このように在地の人々と移住した渡来人が協力し合い普及させていった。
高島 では環壕は何を目的につくられたのか。
西谷 壕や木柵などあれだけの大規模な土木工事を見れば、やはり防御という面が大きい。ただ初期と吉野ケ里遺跡が繁栄した後期とは防御の対象が違う。当初は周辺のムラだったが、大規模環壕集落となった後者はクニに対するものだった。
高島 初期の環壕は、緊張関係にあった在地の縄文人に対するもので、開拓者だった渡来系がコロニー(移住者の集落)として設けたと考えてもいいのか。
西谷 唐津市の菜畑遺跡など環壕を備えていない遺跡もあることを考えると、コロニーには疑問が残る。菜畑はむしろ渡来人と在地の縄文人が一緒に集落を形成していったというのが自然。当初から環壕を備えていた集落は、地域の象徴的存在とか拠点とみるのが自然だろう。
環壕のある集落は、色濃く半島の影響を受けているようです。
そのような地域の象徴的存在を具現化していたのが「環壕」だとすると、それが忽然と姿を消したということは、集団を統合していた原理に、何か大きな変化があったのではないでしょうか?
観念統合という視点からの分析も必要なようです。。

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