2022年6月27日

2022年06月27日

【縄文再考】力強い縄文建築と繊細な弥生建築、日本の精神はどちらにも宿っている

みなさんこんにちは!

今回は日本の木造建築の歴史についてしらべてみます。

 

戦後の日本近代建築において日本的な建築とは何かが議論された「伝統論争」では

「縄文」と「弥生」の対比が用いられました。

 

“縄文=益荒男ぶり(男性的な力強さ)”⇔“弥生=手弱女ぶり(女性的な繊細さ)”

http://touron.aij.or.jp/2017/08/4344

 

縄文の力強い建築様式、弥生の繊細な建築様式について特徴を遡りながら当時の思想にクローズアップしていきます。

 

 

 

■縄文の建築の特徴(山内丸山遺跡)

https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/

三内丸山遺跡では以下の木造建築の遺跡が残っています。

 

・大型掘立柱建物跡

地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。

 

・竪穴建物跡

縄文時代の住居は地面を掘り込んで床を造りました。中央には炉があります。住居の平面形や柱の配置、炉の位置や構造は時代によって変化が見られます。

 

・大型竪穴建物跡

長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。

 

・掘立柱建物跡

地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられます。集落の中央、南盛り土西側などから密集して見つかりました。

 

大型の建物が存在していたことから、縄文人が巨大建造物を造る知恵と技術を持っていたことが明らかです。

※ちなみに…縄文尺(長さの基準。35センチ)が存在したこともわかっており、この尺は、福井県から北海道に至る縄文時代の他の大型住居跡にも当てはまり、各地で供用されていた。

 

またこれらの建築群を青森県教育庁文化課の岡田康博氏は以下のように語っています(https://www.jsnr.or.jp/meeting/docs/24_02.pdf)

 

“三内丸山遺跡の特徴について述べる。次の3つの言葉、キーワードで表現できると考える。「大きい」「長い」「多い」”である

 

「大きい」は遺跡の集落規模で35ヘクタールと広大なこと、「長い」は集落が少なくとも1500年間継続したこと(現在でいえば古墳時代から現在までの長さ)、そして「多い」は膨大な情報量を持っていること。

 

その背景のひとつに、川幡穂高氏、山本尚史が研究している環境的な要因として挙げられます。(https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_02_11.pdf

 

“食料については,陸奥湾内の海洋の生物生産は約7,000年前以降増加し,特に約5,900年前以降急速に増加が顕著であった。陸上においても,気候の温暖化によりクリなどの生産が拡大した。従って,海陸ともに温暖となり,特に陸の食料が顕著な増大を示したことが,三内丸山遺跡成立の重要な一つの要因であったと考えられる”

 

“4,200年前の三内丸山遺跡の衰退期の寒冷化は,クリの安定的な収穫を阻害し,人口が増大しつつあった遺跡の人々の食糧確保に深刻な影響を与え,遺跡の衰退を十分に招きえるものであったと結論づけられる。

なお,この気候の寒冷化は日本全国で起こり,縄文人の人口減少の重要な原因であった可能性が高い”

 

■弥生の建築の特徴(吉野ヶ里遺跡)

https://www.yoshinogari.jp/introduction/

吉野ヶ里遺跡には弥生時代の建物の遺跡(竪穴建物、高床建物、平地式建物)が残っています。

また住居や倉庫の他に、吉野ヶ里遺跡の北内郭の主祭殿のように祭祀的な性格を備えた大規模な建物も地域の中心的な集落には存在しました。主祭殿は柱配置から重層の楼のような建物であることが推定されました。

 

これらの発見から吉野ヶ里遺跡の物見櫓や主祭殿の復元は、弥生時代の建築物の構造についても、再考を促す機会となりました。

 

当時の建物は頑丈な縄で木材と木材を縛ったり、柱や梁を加工して組み合わせるのが基本だと考えられてきました。しかし、吉野ヶ里の物見櫓は柱と柱の間が大きくしかも高さがあるため、柱と柱をしっかりと繋がないと不安定な建物になってしまいます。

 

そこで、柱の中心に穴をあけてそこに横木を通して柱と柱を繋ぐ「貫」という建築技術が使われたのではないかと推定されました。

 

北内郭から北墳丘墓および周辺の区域は集落内でもっとも祭祀的性格が強い場所であり、

「クニ」の中核的集落であることから、祖霊への豊饒祈願や冬至・夏至など節気に関連する祭祀など、

様々な祭祀儀礼が行われた場所であるとともに、祭政を司る祭祀権者とこれに従う一般祭祀者による

祭祀儀礼を中心とする生活の場であり、祭祀を総括する最高祭祀権者もここに居住していたと考えられています。

https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/kitanaikaku/

 

※この時代の信仰は縄文時代の精霊信仰に加えて、稲の豊穣を祈る穀霊信仰と祖霊信仰が大きな柱となり、

北内郭のような高い建物や重層の建物が出現してくる背景にはこれに基づく穀霊を運ぶ鳥への崇拝があったと想像できます。この北内郭の周りにある溝からはこれらの精霊や祖霊に対して結界や境界が存在し始めたと考えられます。

https://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/rites_1.html

 

★自然の力強さ(そのまま自然が隆起したような)建物の縄文建築と、精霊・祖霊に対する崇拝に対し、建物の軸線や境界をはっきりと分け、格の違いを表現した弥生建築。

自然への感謝と崇拝という部分は日本人のもつ共通の精神性かもしれません。

投稿者 hanada : 2022年06月27日  



 
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