2022年6月23日
2022年06月23日
弥生人はどのように日本列島に根を下ろしたか。融合と征伐。
皆さん、こんにちは。弥生時代あたりの追究を続けています。弥生時代になると、青銅器が現れ土器とは一段上の「文明」「技術」に到達しました。青銅器は、急に日本に現れたのではなく、メソポタミア、エジプト辺りの遺物が最古と言われています。今回は、青銅器の伝来から、日本の弥生時代をどう見るか、検討したいと思います。
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青銅器の発生
・殷(いん:紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)は、古代中国の王朝。考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝。殷の時代には贈り物としてタカラガイが使われ、周から春秋戦国時代にかけて青銅器も贈与や賃金に使われるようになる。
・メソポタミア・エジプトでは紀元前3500年ごろから青銅器の開始がはじまる。なおオリエントにおいては、ヒッタイトの登場とともに本格的な鉄器の使用がはじまる紀元前1500年前後までが青銅器時代である。
・三崎山遺跡(山形県飽海郡遊佐町)では大陸との交易によって入手したとみられる約3000年前の青銅刀子が出土している。(以上Wikipediaより抜粋)
弥生時代に日本列島に渡来した人々は、青銅器を持ち、刀や銅鐸などを製造した人々です。青銅器は上記の通り、世界的には紀元前3500年ころから始まりますが、日本ではまだ縄文前期の時代。紀元前1000年ころの青銅器が日本で出土する最古のものなので、青銅器が日本に伝わるまで2500年を要しています。隣接する中国大陸では、殷で通貨があり、周で青銅器(やはり紀元前1,000年ころ)なので、おそらく同時代で同じような人々が渡来した、と考えられます。
縄文から弥生 青銅器を持ち込んだ人々はどう日本に住み着いたか
縄文時代に日本にいた人々は、土器や土偶の違いなどから、一つの民族とは考えにくいと思います。シベリア経由、中国東北部由来、朝鮮半島経由、南方由来など、大きくは4つの民族が固有の文化、様式を持ちながら日本列島に渡来し、住み着きました。弥生時代になると水稲、弥生土器を持つ別の民族が大量に日本列島に渡来して、北九州から近畿圏にかけて、大きな集団を形成しました。縄文文化は、次第に弥生の文化に置き換えられましたが、東北~北海道にかけては弥生の人々は展開せず、縄文文化が7世紀ころまで続いたとされます。恐らく南西諸島(沖縄周辺)も、あまり弥生の人々が進むことはなく、縄文の人々が島の文化へと姿を変えて新たな民族へと変わっていったと考えられます。
弥生人とは、前述の通り中国大陸で国家を形成していた人々と思われます。大陸に興きた国家とは、武力により生活圏を守る仕組み。ここから押し出された民族が、朝鮮半島を経由して日本列島に住み着いたと考えるのが自然です。
弥生土器、埴輪、銅鐸など、それまでの日本列島にはなかった遺物。北九州から中国地方、近畿地方に色濃く残ります。果たして、縄文人とはどのように融合したのでしょうか。武力で蹴散らしたとすると、「融合」は進みません。もっとも日本には征夷大将軍という言葉(役職)がある通り、東に蝦夷がいたとされます。近畿当たりの中央政府からすると、東には、違う民族がいて、征伐する対象ということです。最初の東夷将軍は709年の巨勢麻呂ですので、7世紀ころまでとされる続縄文文化との関係も見えてきます。この蝦夷が縄文人の系統と言う考えは、無きにしも非ず、です。
融合と征伐が入り乱れて、その後の日本人が形成されてと見てよいと思います。
引き続き検討します。
投稿者 sai-yu : 2022年06月23日 Tweet