2022.09.05

古墳はどのようにつくられたのか、当時の現場はどのように動いていたのか

みなさん、こんにちは。出身が大阪府の和泉市で、百舌鳥の古市古墳群など、古墳を目にする機会が多くありました。今回は、このような巨大な古墳はどのようにつくられたのか、世界三大墳墓のひとつに数えられる仁徳天皇陵古墳を事例に見ていこうと思います。

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2022.08.27

農村民家は地域と生産によってかたちとなった

みなさんこんにちは!

今日は民家の木造建築の特徴について追求したいと思います。

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2022.08.22

古墳時代の日本先住民

皆さん、こんにちは。今回は、これまでの追究を念頭に、改めて縄文(前16,000年頃~前3,000年の13,000年間)、弥生(前3,000年~後3世紀の3,300年間)、古墳時代(後4世紀~7世紀の400年間)を俯瞰し、日本人の成り立ちについて考えてみます。

※古墳時代では、渡来人が日本で社会の基礎を創り、縄文人や弥生人などの、先住日本民族は、どこかに消えてしまったように見えます。が、本当にそうなのか。

国立歴史民俗博物館考古研究系教授の藤尾慎一郎さんの「弥生文化の輪郭 灌漑式水田稲作は弥生文化の指標なのか(2012年)」より引用します。

弥生文化を「大陸・半島から移住してきた人びとがもち込んだ灌漑水田稲作農耕と連動する一連の社会システム」の存在として,縄文文化と区別するのは山田康弘である[山田2009:179 頁]。一連の社会システムとは社会文化と精神文化に分かれ,前者には排他的テリトリーの成立を象徴する環壕集落と武力による問題解決という,新しい思想の生起を意味する集団的戦闘行為の発生。後者には土器埋設祭祀「生と死と再生・豊穣」という,循環的思想に基づいて発現・施行させる土器埋設祭祀の消滅と,稲魂を運ぶ容器として機能して送り返すといった用途を担った鳥形木製品をあげる。
つまり一連の社会システムとは「弥生化」のプロセスが認められることに他ならず,弥生文化の地域性とは,弥生化のプロセスにみられる違いということになるから,弥生化への複雑化がみえない利根川以東の地域を弥生文化の枠内で捉えることはできず,あくまでも弥生文化とは別の文化,ということになる。
弥生文化に後続する古墳文化は政治史的観点から弥生文化と区別されてきたし,現在もその点に変わりはない。特に古墳時代の前半期を経済的側面で弥生文化と区別することはできないからである。3 ~ 4 世紀の古墳前期は名実ともに変化した5 世紀以降とは異なり,集団的催眠状態による巨大古墳築造の時代として位置づけられていて,汎列島的な政治同盟が初めて形成された時代とはいっても,各地の社会段階や政治関係には大きな差異があり,汎列島的に統一化された時代にはほど遠い段階であった[土生田2009]。
つまり弥生文化と古墳文化(特に前半期)を分けているのは,生産・経済的な側面ではなく,地域ごとの差が著しかった祭祀・葬制・宗教が汎列島的な共同幻想にとりつかれて,首長層が同じ墓制をとり同じ祭祀を行うに至った点にある。

葬制、祭祀を再検討

藤尾教授によれば、古墳時代に祭祀、葬制、宗教に関し汎列島的に共同幻想に取りつかれた、とのことです。それまでの弥生文化が地方で差があるのに対し、古墳時代になるとほぼ一斉に古墳を創り、地域の有力者を埋葬するようになったとの指摘です。

「弥生文化の輪郭 灌漑式水田稲作は弥生文化の指標なのか(2012年)」図3弥生文化の三要素の時期別地域別分布

葬制に関してはこれまでも、
【縄文再考】すべては循環している~”死者”は”生者”と、そして集団の中で共に生き続ける~

①「単葬単独墓」「再葬合葬墓」は共通して生者と死者が近接し密接な関係にあること
②再葬合葬墓(縄文中期以降)は一つの墓に死者を集結させ単一集団を組織集団に統合するために行われていたこと

土葬から古墳への進化の過程~弥生時代の埋葬・墓制より考える

弥生時代には縄文時代には見られなかった“墓”や“棺”が作られるようになった。
■九州
・支石墓(弥生時代前期~後期)甕棺墓(弥生時代前期~後期)石棺墓・箱式石棺墓(弥生時代前期~後期)
■畿内
・方形周溝墓(弥生時代中期~古墳時代)方形台状墓(弥生時代中期~古墳時代)
■関東・東北
・再葬墓
弥生時代に「有権者」が現れたことにより人々の意識が循環→消失へと移ろい、その消失を避け固定(=墓)へとしていった

など、記事にしてきました。

そして、藤尾教授の言う集団催眠、共同幻想で古墳時代化。死者にどう対応するか。当初は、死体への物理的対応と再葬合葬するという循環をイメージさせるもの、身近なものでしたが、古墳は王や豪族の長など、有力者を埋葬し祭祀を伴うものです。

葬制の違いは民族の違いか-日本先住民が古墳を創る理由

この違いは、日本的なものと大陸渡来の文化、風習の違いと考えがちです。

これまで見てきたように、弥生時代が各地で均質でないこと、定着度に差があるものの中国山東半島由来の灌漑式水田稲作があることから、先住縄文人以外の渡来人が地域ごとにそれぞれ根付いたと考えることは自然です。一部に大陸の古代王朝で殺し合いを経験した人々もいたようですが、大きな戦にはならず、各地で部族なりの生産、風習で暮らしていた、と思います。中には東北地方や北海道、南九州や沖縄などの様に弥生化の進まない地域もありました。

その後一斉に古墳を作り出すのですが、これを大陸由来とすると、日本の先住民(いわゆる縄文人や弥生時代の日本人)は、服従したか居なくなったか、と考えるしかありません。

が、古墳を創る理由に着目すると少し変わるように思います。

大陸からの渡来は、弥生時代後期により活発化し、戦争経験者も多くなる。日本列島内で併存するうち、「何か違う」ことが懸念されるようになり、「防衛」や「対抗」など、要するに負けて殺されたり、服従するのは嫌だ、と先住民らは思うようになります。

相手が神やら王やら言うなら、同じ仕組みにして同じ=劣ってはいない様にせねばならない。そうして、馴染みのない墳丘墓を作り出す。

こうした先住民部族が続出したと考えると、必ずしも、縄文~弥生を生きてきた原日本人ともいうべき人々が、古墳時代にも生き続けていると考えることが可能と思います。

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posted by sai-yu at : 2022年08月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.08.19

日本で弥生文化が浸透しなかった事実は何を示しているか?~中国の歴史と重ねてみる

弥生時代という時代区分がありますが、一方で、弥生文化自体は日本列島全体には浸透しなかったという一定考古学的な事実があります。
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縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6134?p=1

縄文の壁」は、6つの地域に存在したという。
(1)南島の壁、
(2)九州の壁、
(3)中国地方と四国の壁、
(4)中部の壁、
(5)東日本の壁、
(6)北海道の壁だ。
このうち、南島と北海道は、弥生時代には突破できなかった。

北部九州でも、水田、環濠集落、金属器、弥生土器すべてが揃うまで、約200年を要している。弥生時代前期の関門海峡の東側では、日常生活でいまだに縄文系の道具類を使用していた。また、板付遺跡を起点にして、関東に弥生文化が到達するまで、400~500年、最初の水田が北部九州にできてからだと、約700〜800年かかっている。
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この事実は一体何を示しているのか。追求したいと思います。

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posted by sawane at : 2022年08月19日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.08.16

海外の墓制から見る日本人のルーツ

みなさんこんにちは、前回(土葬から古墳への進化の過程~弥生時代の埋葬・墓制より考える~ )で縄文・弥生時代の人々の「死」についての価値観や意識の変化を押さえていきましたが、今回はそこに海外の墓制からの視点を加えて日本人のルーツに迫っていきたいと思います!


前回の最後に
>縄文時代では”死”を生命の循環の一つと捉え常に死と身近に生きていたが、弥生時代に「有権者」が現れたことにより人々の意識が循環→消失へと移ろい、その消失を避け固定(=墓)へとしていったものと思われる。<
と、書きましたがこの「有権者」は国内で誕生したのでしょうか?また日本の墓に代表される古墳はどこから来た文化なのでしょうか。

以下リンク参照
東アジア世界の中で北部九州は、古来より中国や朝鮮などの文化を受け入れる窓口でした。福岡市内における板付遺跡やこの吉武高木遺跡などをみれば、中でも朝鮮半島からもたらされた文化(無文土器文化・青銅器文化)の影響が色濃く表れていることが分かります。しかし、その背後には東アジア世界に多大な影響を与えた中国の存在があります。つまり、日本における弥生文化の成立とは、中国文化の東進を遠因とするもので、中国を核とする東アジア社会の一員となったあかしであるということもできるでしょう。

このように、大陸よりもたらされたさまざまな文物や技術は、日本の文化を一変させ、さらに社会を複雑にしていきます。そして、人々はより強力なリーダーの存在を求めるようになりました。

消えた?「早良国」
そこで誕生したのが、吉武高木遺跡の特定集団墓、そして「最古の王墓」3号木棺墓です。「国」の原形は、古くから「早良」と呼ばれるこの地、早良平野にできあがりました。

『漢書地理志』の「分かれて百余国」、『魏志倭人伝』の「伊都国」(糸島市周辺)・「奴国」(春日・福岡市周辺)のように、中国の歴史書では、中期後半以降の弥生社会における地域的なまとまりは「国」と記述されています。弥生時代中期の初頭、吉武高木遺跡は早良平野の中核となる有力集団であったと考えられますが、この中で「早良国」という記述はみられません。国や王墓の萌芽がありながら、早良平野では結果的に伊都国や奴国のような「国」と呼ばれるほどの広範な地域的統合を形成できなかったようです。

樋渡古墳(墳丘墓)
「伊都国」や「奴国」に王が出現した弥生時代中期後半(約2,100~2,000前)、吉武遺跡群では樋渡地区に墳丘墓がありました。墳丘墓とは、土盛りを持った墓のことです。墳丘は南北約26m、東西約17mの大きさで、発掘調査により甕棺墓など32基の墓が発見されました。甕棺墓からは、青銅製武器(銅剣)に加え、鉄製武器や中国製の鏡が出土しています。

樋渡墳丘墓は優れた副葬品を持つ、吉武高木遺跡の特定集団墓に続く有力者たちの墓であると考えることができますが、それでも、鏡などの大量の副葬品を中におさめた奴国・伊都国の王墓とは大きな格差が存在しています。なお、吉武高木遺跡の大型建物も同じ時期の所産です。

ところで、樋渡墳丘墓最大の特徴は、5世紀前半の前方後円墳(帆立貝式古墳)である樋渡古墳(吉武S-1号墳)の下から発見されたことです。つまり古墳は、弥生時代の墳丘墓を利用し、さらに土を盛り上げて築かれていたことが分かりました。

また、藤井氏の見解では
戦国時代以来、中国では、墓は墓主の「住宅」と意識された。埋葬施設、外部施設の各空間は、墓全体を包括する脈絡のなかで意味づけられる。
元来、墓地は「寝」「廟」から構成され、「寝」
は被葬者の魄が居する所、「廟」は降神すなわち被葬者の魂を一時呼び寄せ祀る場である。東漢魏晋以後、家形の喪葬施設あるいは房屋壁画が供献飲食器を伴う現象が広くみられ、そうした家屋形の喪葬空間は、生者が被葬者を祀る儀礼の場であると同時に、被葬者の「住宅」そのものであった。
東漢代以後の墓地では、墓は「栖魄」の場、祠(廟)は「栖神」の場となり、すなわち両方
とも魂(神)と魄の「居住」場所であった。

中略

日本の古墳は、喪葬空間として、いかなる「場」を形づくろうとしたものか明確にされているだろうか。中国の場合、その「場」の意味を失わず高次に昇華させることが、社会性・秩序の維持装置機能を生み出した。
たとえば、南朝では、墓―居宅=帝陵―皇宮=世界の中心、という思想
世界が構想された。北朝では、墓―祖廟=帝陵―国家的祖廟=秩序の具現化、という陵墓観念が存在した。
それゆえに社会秩序の象徴たりうるのである。日本の古墳の場合、大規模な墓=権力・
政治性と自明的に理解されるが、その脈絡は不透明である。古墳の政治性・階層性はいわば常識化しているが、しかしそれを真に説くことができるためには、古墳の根幹にある墓としての文脈を見出す必要があるのではないだろうか。

とある様に日本の墓(古墳)には中国・朝鮮に見られるほどの”場の意味”が薄いことが窺える。
これは縄文時代からいた日本人らが自ら作り上げたものではなく、外から来た人々の文化と相まって生まれたもののために”模造品”となっているのだろう。

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posted by yanagi at : 2022年08月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.08.10

土器模様の変化と文様のつくり方

みなさんこんにちには。先日、東京国立博物館へ足を運び、縄文から弥生、古墳時代をメインに発掘された、土器や埴輪を見てきました。

土器は時代ごとに、さまざまな形状、文様のものがあり、その意味合いもさまざまであることを肌で感じました。と同時に、どのように土器のような形状、文様が変化し、つくられたのか?当時の制作過程や様子についても気になったので調査していこうと思います。

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2022.08.07

弥生時代の大集落③~服装と生業~

画像はコチラから引用

庶民と富裕層に衣装の相違/最先端の生業は鉄の生産

弥生時代のファッションは、一般庶民と富裕層で異なります。庶民階級は「貫頭衣(かんとうい)」という衣服を着ていたとされています。これは従来、長い布の真ん中に穴を開けて頭を通す衣服と考えられていました。しかし、これには肩から膝までを覆う布が必要になりますが、各地の弥生遺跡から検出される織布は幅30センチ前後が最大です。このため、現在では2枚の布をたすき掛けして頭と肩を露出させ、胸部で綴じ合わせた形態の衣服ではないかと推定されています。

 

こうした形態の衣服はシンプルで動きやすいため、弥生文化との親近性が指摘される東南アジアの稲作民族が現在も、日常着として着用していることが注目されています。

左が庶民/右が富裕層

富裕層とは、集落内にあって権力を有する層のことを指します。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、「道で『大人(たいじん)』に遭った『下戸(げこ)』は、あとずさりして道端の草むらに入り、うずくまるか跪き、平伏の姿勢を取って敬意を表さねばならない」と記されています。この『大人(たいじん)』に相当するのが富裕層であり、『下戸(げこ)』に相当するのが一般庶民と推察されるでしょう。佐賀県の吉野ヶ里遺跡での発掘調査の結果、富裕層を葬ったと思われる甕棺墓(かめかんぼ)から、袖を縫い合わせたと考えられる絹織衣服の部分が見つかりました。富裕層は貫頭衣(かんとうい)とは作りが異なる絹製の袖つき衣服を着用したようです。

 

衣服以外では、成人男性の髪形がミズラであること、「魏志倭人伝」が記すように全員が素足ではなく、地方によっては木製の履物を履いていたことなどが、近年の発掘調査によって判明しています。

 

弥生時代は、農業経済社会であり、生業のほとんどは稲作をはじめとする農業でしたが、山野での狩猟、河川・湖沼・海での漁業、堅果類の採集が生業として成り立っていたと考えられています。また、製塩や石斧製作など専門的な生業に携わった集落もあったことが明らかになっています。

 

弥生時代において最先端の生業となったのは鉄器の生産と考えられています。鉄器使用は縄文最晚期及び弥生草創期に北部九州で始まりました。鉄器は当初、舶来品を使用していたと考えられますが、弥生前期末には北部九州で小型の鉄器生産が開始されるまでに国内の技術力が進展し、弥生中期には用具のほぼすべてが国内生産の鉄器に移行しています。ゆえに、鉄器生産は、弥生時代繁栄の基盤となった技術であり、生業と言えるでしょう。

 

■吉野ヶ里遺跡(佐賀県)

吉野ヶ里遺跡は、神埼市と吉野ヶ里町にまたがる、日本最大級の弥生時代の環濠集落遺跡。発掘調査では、環濠集落跡、墳丘墓、楼閣跡、甕棺墓(かめかんぼ)列などの貴重な遺構が次々と出土。弥生時代700年間の移り変わりを知ることができる。発掘当初、遺構が「線志人伝」の配す邪馬台国に酷似していたため、「幻の邪馬台国ついに発見」とセンセーショナルに報じられ、世間の大きな注目を集めた。

 

→鉄製品

製鉄は、弥生時代を代表する先進技術。鉄斧、鉄製鋤先、鉄鎌など多数の鉄製品は、吉野ヶ里遺跡の先進性を物語る物証といえる。

 

→身分が高い人の衣服と貫頭衣

本格的農耕の開始は、身分の序列を生んだ。土地の所有者など集落の運営に携わる人々は、高貴な身分となり、そうでない人々は一般庶民となった。衣服は、身分の差を一目でわからせる重要なアイテムだった。縫い目が残る絹織物も見つかっており、服飾史上の点からも貴重な遺物。仕立て技術という観点からも多くの情報を提示している。

貝の腕輪

遺跡からは、ゴホウラやイモガイの腕輪が出土。これらは奄美大島や沖縄に生息する貝で、当時既に交易があったことを示す。

 

管玉・小玉・勾玉(くだたま・こだま・まがたま)

当時としては最高級の装身具である管玉・小玉・勾玉。ヒスイは新潟県糸魚川産の貴重なもので、宗教的用途で使われたと考えられる。

■戦いの痕跡

弥生時代は集落問の闘争が激化した時代でもあった。吉野ヶ里遺跡からは明らかに「戦死者とみられる人骨が多数検出されており、弥生時代の素顔を伝える。

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posted by asahi at : 2022年08月07日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.07.31

古墳時代の建物と社会の繋がり~争いが減り、身分階層がより明確になった~

みなさんこんにちは。

本日は古墳時代の住居・豪族居館から当時の時代背景に迫っていきます。

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posted by hanada at : 2022年07月31日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.07.25

弥生時代は均質なものではない

皆さんこんにちは。弥生時代に関し追究していますが、今回は、そもそも弥生時代をどう見るべきか、考えてみたいと思います。

画像はこちらから

寺前直人准教授による『文明に抗した弥生の人々』

「文明に抗した」とは意味深ですが、要するに、弥生時代に朝鮮半島から渡来した文明に対して、大阪湾沿岸部当たりでは、(縄文時代の)東日本からの栽培や祭祀を取り入れていた、と言う趣旨です。近代日本の「明日は今日より良い」的な史観でなく、弥生が縄文を取り入れる、などの先祖返り的なこともあったという意味です。

「文明に抗した弥生の人々」(吉川弘文館 寺前直人駒沢大学文学部准教授著)より引用します。

(以下引用)
文明と野生の対峙としての弥生時代-エピローグ

発展の日本神話
本書において、私は100年前の近代日本成立期におこった弥生時代・文化像の成立過程にせまった。それは江戸時代、分権的政治体制であった列島社会が中央集権的政治体制に、そして欧米列強の進出におびえる小国が、植民地を有する帝国への歩みを進めたちょうどその頃の出来事であった。

1930年代における山内清男らの活躍によって、弥生時代論は近代ヨーロッパの自我に通じる自立的な社会発展論を得た。それが森本六爾によって水田農耕論と結びつけられることにより、日本文化起源論へと改変されることになるのだ。

さらに、その後の唐古池における木製農具の発見、そして登呂遺跡での水田の発掘は、「天皇」制に依拠しない国民国家の叙事詩となりうる弥生時代像を用意したのである。ただし、1950年代までの議論をみると、山内や杉原荘介といった研究者のみならず、小林行雄も、弥生時代における文化の地域差に言及していることには注意が必要だ(小林一九三八・一九五三)。

ただし、弥生時代の日本列島を文化的小地域に区分しようとする議論は、やがて青銅器の分布、特に銅鐸の分布と銅矛・銅剣の分布圏という、近畿と九州との政治圏の議論に矮小化されていった(岩永一九九七)。また、伊藤信雄をを中心とした東北弥生時代研究は(伊東一九七〇ほか)、東北地方における水田耕作の存在をあきらかとし、この地域が農耕社会への「発展の図式」からとり残されていなかったことを証明していった(高瀬二〇〇四、一三頁)。結果として日本列島の大部分を占める「弥生文化」は、その均質さが重視されていく。それは国民国家として、共有しやすい歴史像の提供でもあったと言えよう。

近代日本の創成期にうみだされた弥生時代像は、このような順当な発展や成長の物語であり、「明日は今日より豊かになる」という大きな物語、「発展神話」への信頼と期待でもあった。この正解感が実社会においても実感できた一九九〇年代前半までの日本社会は、この歴史観をおおむね好意的に受け入れられてきたのである。

発展神話への幻滅

しかし、経済の停滞と人口減が現実となった一九九〇年代後半から二一世紀において、この発展神話は、それまでの求心力を失いつつあるように思える。それと同時に歴史学、そして考古学も大きな物語への関心を急速に失ってきた。
(略)
豊富な資料群のなかで、私が着目したのは、弥生時代の前段階である縄文時代にみられる日本列島の地域的な変動である。縄文時代後期以降、それまで目立った集落が存在しなかった西日本に広域において定住的な集落が出現し、東日本に由来する大量の土偶や石棒類が、局地的に認められる。さらにこの変動に呼応するかのように、中部関東から西関東を中心に栽培されていたアズキやダイズが九州島にまで広がっていったとすると意見がある(小畑二〇一六)。東から西に儀礼とともに、栽培が伝わり、人口が増加していった可能性すらあるのだ。

このような東から西への流れは、朝鮮半島からアワ、キビ、そして水田稲作を伴う文化複合が伝来した弥生時代会式においても儀礼面で継続する。大阪湾沿岸部地域では東北地方の屈折像土偶に起源をもつ長原タイプ土偶が盛行し、主要な環濠集落では関東や中部高地で見られるような大型石棒が使用されていた。

「文明に抗した弥生の人びと」より

朝鮮半島に近い玄界灘沿岸地域において、石製武器を中心として階層的な社会が形成され、水田耕作経営が定着していったのに対し、これらの地域では東日本で発達した祖霊祭祀を軸にした平準な社会を志向して、儀礼の継続が図られたと私はみた。この志向性はすでに祭器化していた武器形石製品や木製品の影響を受けて非実用化され、銅鈴は在来の文様が付加されることにより、いずれも既存の価値体系の中に包括できるよう記号化された。これらの創出により、一時的とはいえ近畿地方南部を中心とした列島中央部の人々は、大陸・半島からもたらされた魅力的な文明的価値体系に抗することに成功したのだ。
(略)
野生と文明の交差する日本列島史
(略)
この長大な日本列島を論じるとき、文明を基準として地域を序列化することは確かに一つの整理方法だといえる。しかしながら、弥生時代をみる視点は、ここまで議論してきたようにそれだけではない。本書では先学に導かれながら、西からの文明の視点とあわせて、東からの「野生」の視点からの分析を進めてきた。文明と野生の交差した時代としての弥生時代像である。(引用終わり)

縄文、弥生、古墳をどう見るか、どう再編するか

我々の追究は、先人が区分した時代ごとにおおよそ行われます。が、その区分が本当に適切なのかは、あまり考えません。弥生時代の人々は、縄文先住民とどう融合したか、を考えていましたが、寺前淳教授のいうように、栽培や祭祀を取り入れながら、平準化した(階層的でない)社会を営む弥生時代の人々もいた、となると、縄文と弥生は、地域的にはまだら模様となります。

確かに、広大な日本列島で、一度に同じ制度、社会システムに塗り替わるのは恐らく不可能。そういう地域もあればそうでない地域もあるというのが、実情ではないでしょうか。

縄文→弥生→古墳、と言う時代の進化、各時代を均質なものとしてとらえるのは、もはや適切でない、とも言えると思います。

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posted by sai-yu at : 2022年07月25日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.07.22

縄文と弥生の境目~水田稲作はどのように始まったか

前回に引き続き、縄文と弥生の境目について、弥生時代が始まったとされる「水稲=水田稲作」がどのように日本で始まったか。

渡来人から伝わったことはある程度事実だと思いますが、それだけ❓でしょうか。

追求してみたいと思います。

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posted by sawane at : 2022年07月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

 
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