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古墳時代の建物と社会の繋がり~争いが減り、身分階層がより明確になった~

みなさんこんにちは。

本日は古墳時代の住居・豪族居館から当時の時代背景に迫っていきます。

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古墳時代の住居

神奈川県の古墳時代の住居は竪穴式住居が一般的であり、平面形が方形、床面に柱穴を掘って、

屋根を支える柱を立てています。

 

また古墳から出土される家形埴輪や銅鐸から当時の家の様子がうかがうことができます。

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赤堀茶臼山古墳(建物配置も正殿、後殿、脇約による構成になっている。切妻造・寄棟造、破風や平地建物・高床建物と多彩な建築の様相になっている)

 

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今城塚古墳

 

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伝讃岐国の出土の銅鐸

(切妻造・草葺、階段があり妻、先端部分に千木が突出した高床式倉庫)

 

 

古墳時代中・後期の住居

古墳時代は壁面に煮炊きをするためのカマドが作られるようになり、古墳時代初頭では九州や近畿など限定的、5世紀以降は広範囲に伝播しました。

 

竈は煙道で排煙したり、屋内で排煙し、燻しをしたことも考えられます。

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豪族の家「豪族居館」

古墳時代になると弥生時代の大規模な拠点的集落にみられた、ムラをまもるための環濠や土塁がみられなくなり、首長層が民衆の住む一般の集落から離れて、みずからの居館を営むようになりました。

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(南のブロックの西よりには一辺一四メートルはどの大きな建物があり、この建物の西南には八角形の屋形をもつ井戸が、また東北には居館の西方から導水橋によって水を引いた石敷の小さな池のような施設がある)

群馬県三ツ寺遺跡では濠の内側は全体が柵で囲まれ、さらにその内側にはそれぞれ柵で囲まれた南と北の二つのブロックがあります。
南のブロックは、居館の主であるこの地の首長が、神まつりを執り行なう聖なる空間でした。

北のブロックはまだ一部が調査されただけで全貌は明らかではありませんが、一部に竪穴住居が検出されており、豪族の日常生活の場であろうと考えられています。

 

豪族居館から見える時代時代背景として、

 ①環濠や堀がなくなったことから弥生時代ほど争いがなくなった

 ②豪族居館から分かるように身分の差が明確になった

ことが考えられます。

 

 

建物様式はどこからやってきたのか

 

建物を象った陶器は中国からも出土しており、明器も建築の造形を象っていること、楼閣を象り、各層で軒を支える支柱や建物の四周を囲む塀が構成されるなど、日本の遺跡と似たような環境と構成がうかがうことができます。

 

縄文時代から続く竪穴式住居は日本で塗り重ねられていること、楼閣や祭事に使われる建物は中国から伝来されているのではないかと考えられます。

参考:かながわ考古学財団 考古学資料館 https://www.kaf2.org/josetsu/kofun/kofun_iko/kofun_house [7]

   日本建築史講義: 木造建築がひもとく技術と社会(海野聡 著)

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