2021.09.17

縄文再考:縄文土器にみる、縄文人の外圧と生命観

皆さん、こんにちは。

土偶に続いて、今回は「縄文土器」について追求していきます。
縄文土器といえば、火焔土器など、優れた造形力で有名。芸術家・岡本太郎も愛したという形状、模様の魅力。
なぜ土器が創られたのか、形や模様の変遷、その意味するものについて、縄文時代の外圧環境を踏まえながら分析していきたいと思います。

 

縄文土器にふれて、わたしの血の中に力がふき起るのを覚えた。濶然と新しい伝統への視野がひらけ、我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいることを知ったのである。民族に対してのみではない。人間性への根源的な感動であり、信頼感であった――――岡本太郎

 

キャプ1

■厳しい外圧を生き抜くために

 生まれた「縄文土器」

縄文土器は、その名のとおり、寒い「氷期」が終わりに向かい、寒暖を繰り返しながら、暖かくなっていった縄文時代と共に生まれます。
暖かくなるにつれて、針葉樹が減少し、食べることのできる木の実をつける広葉樹・照葉樹が増えた時代でした。栄養価の高い木の実を安定して採取できるようになり、飢餓の圧力も弱まったことで「定住生活」が可能になったのです。
マンモスの乱獲説含め、非常に豊かな時代だったという説もありますが、当時の縄文人の技術から考えれば信ぴょう性は低い。遺跡人骨の同位体分析データ(歯に残されたストレス)からも、縄文人の平均寿命の短さからも、イノシシやシカを狩ることは難しく、食料は植物性に依存(6~8割は木の実)し、栄養状態・健康状態がたびたび悪化するなど、厳しい生活であったことが推測されます。

 

その中で、木の実(硬いもの、アクの強いものでも)を確実に摂取することが縄文人にとって重要な課題。そこで、火にかけ、煮炊きするための道具として「縄文土器」が登場したのです。

 

土器は、粘土採掘、素地の不純物の除去、成形、模様施文、感想、燃料の確保、醸成、醸成後の目潰しなど手間のかかる工程で、意外とエネルギーを要するもの。必要性があったから創られていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

■1万年間の自然の注視、自然との一体化が

 生み出した「美しさ」

 

縄文土器は、1万年という長い期間塗り重ねられてきたものにも関わらず、製作技術という点では大きな違いはないのです。大きく変化したのは、直接機能性には影響を与えない「文様・形状」。初現期の土器には、製作過程で生まれた簡単な縄文様、粘土を張り合わせたパッチワーク状のものが多く、年を重ねるにつれて、火焔土器のような複雑な形状・文様が施されています。

 

キャプ2

 

縄文人は単に利便性を追求していたわけではなく、なにか別の切り口から追求をおこなっていたと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

縄文土器の形状・文様の特徴として挙げられるのが「正面性(装飾の集中、人や動物のモチーフ)」と「アシンメトリー(非対称)の徹底」。ちなみに弥生土器では集中的な文様はなく、形状・文様ともシンメトリー。人や動物には正面性(顔)があり、自然界のありとあらゆるものは非対称であることと一緒です。

 

その背景には、縄文人の世界観があります。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現しています。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という考え方。

 

夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。――――武光誠

 

つまり、縄文人にとって動植物や自然物、人工物は、単なる料理の具材、資源、道具ではない。すべてが、かけがえのないイノチ。だからこそ「生命感」を土器に込めることを追求し、形状・文様が変化していったのではないでしょうか。

1万年という長い時間の中で、自然を徹底的に注視して、そこで感じ取った生命感をカタチ(形状・文様)にした。徹底して生命原理に沿った造形だからこそ、岡本太郎のように、多くの現代人が、縄文土器の魅了されてしまうのかもしれません。

 

■応合による、

 さらなる表現の高度化

 

これだけ、形状・文様とも複雑な縄文土器にも関わらず、実は、時代によって「」というものが存在します(それで時代が推定できるほど)。南北にのびる日本列島で、どのように型が共有され、広がったのか。

それは、集団間の圧力を緩和するために行われた「贈与」が大きく関係していると考えられます。

人口も増加し集団規模が拡大していった縄文時代。「仲間が全て」である共同体集団として生き抜いてきた人類は、生活必需品ではなく希少価値の高い物を贈ることで集団間の緊張を緩和しようとしました。道具の材料となる黒曜石や、装飾品の材料となるヒスイやコハクなどが贈与されていたとされています。

 

しかし、近辺の集団同士では、地域特性のあるモノに希少価値は余り無い。そこで、製作技法を他集団以上に著しく上昇させることで、(縄文)土器を「贈与するもの」とし始めたのでは、ないでしょうか?縄文中期~後期に盛んだった生産様式は採集生産であるが、主要な生産を女が担うため、防衛力を期待された男の時間は余っていた。その時間が、集団間の緊張を緩和するための役割=縄文土器の高度化に使われたと考えられます。

 

「贈与」とは、集団間の応合性の発露であり、珍しい土器の方が喜ばれる(評価される)。また、集団間の距離が近くネットワークが形成されている場合、様々な集団から工夫された土器が「贈与されてくる」ため、更なる応合をと、”凝った”土器を作ろうとする縄文人がいたとしても、不思議ではないですね。

 

つまり、複雑に抽象化された縄文土器とは、縄文人の(他集団に対する)応合性の発露であって、世界にも類を見ない高い芸術性は、縄文人の高い応合性に支えられていたのです。

 

 

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posted by sibata-h at : 2021年09月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.14

縄文再考:土偶に生命の精霊を宿し祈る~万物との一体化と土偶への一体視で恩恵を得る~

土偶

皆さんこんにちは。

今回は、縄文再考「④土器、土偶の意味するものは?」の土偶について扱っていきます。

 

皆さんは土偶と聞いてどういうイメージ持ちますか?

私は、土偶は子孫繁栄を願ったものだと考えていました。というもの、私の認知していた土偶は胸があり、おなかが大きいため、妊婦を象ったように見えたからです。

ところが色々調べていく中で、土偶が子孫繁栄の祈りのためだけではないことが分かってきました。

 

〇縄文人は万物と自身(家族)を一体視し、祈りを込めた呪物として扱っていた。

縄文人の祈りは「豊穣・多産」が多いとされています。

縄文時代は現代と比べ寿命が短く、また季節によっては食糧確保が難しく、かなり厳しい生活をしていました。そんな自然外圧の中で否定視しても仕方ない。だから祈り、待つ。そうやって家族と過ごし、集落の存続のために働くことが使命だったのだと考えられます。

祈ることも仕事のうちで、大事な所作なのです。

 

では、どのように祈りを捧げていたのか?

 

①豊穣・平安

縄文時代は暖かくなり、豊かになっていった時代とされていますが、それでも寒冷です。冬になれば食糧の確保が困難になり、生活は貧しい状態になります。

 

女体を模したとされる土偶は、子孫繁栄を祈ったものとこれまで専門家の研究で言われてきましたが、木の実などの堅実食の豊穣を祈ったものではないかという説もあります。

※ちなみに、火焔型土器も豊穣を祈ったものという説があります。火焔型土器が出土した位置を日本地図にプロットすると、豪雪地域周辺に集中しており、「春に開芽して」という祈りからという説もあります。

自身のためというより、家族のためにという想いが強いことが分かります。

 

②子孫繁栄・多産

竪穴式住居で暮らしていると、水が溜まり、蛙、それを餌として蛇が多く集まってきたようです。蛙、蛇ともに一度に多くの卵を産みますよね。この生命力旺盛な生物を畏怖して肖りたいという想いで、土偶に蛙・蛇の精霊を宿し、多産を祈りました。

また、南アルプス市に「故郷伝承館」に展示している、胴体が中空の土偶で体の中央に「出産線」が在る子宝女神ラビと愛称されている土偶。これは経産婦のお腹には子午線が残り、それを生命の不可思議とし尊いと感じ、生命に対する畏怖を素直に表現しています。

 

〇中間総論

縄文人は自然外圧の高さから、万物を注視・一体化し、土偶を自身(家族)と一体視。そして、土偶に生命の精霊を宿し変態させ、祈りを捧げていました。生命が持つ生態から肖い、精霊を土偶に宿すことで、自身(家族)にも恩恵が及ぶとものとして捉えていたことはほぼ確か。

この一体化、一体視の思考と、感謝の念で祈ることが重要な仕事であったのです。土偶は集団を支える重要な像だったと言えます。

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posted by matudai at : 2021年09月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.14

縄文再考:縄文人のルーツ~旧石器時代の「港川人」は日本人の祖先か?~

港川人の復元画像

皆さんこんにちは。

縄文再考の追求がいよいよ始まりました。

今回は、縄文人はどこから来たのか?

そのルーツについて考えていきたいと思います。

 

現代日本人のルーツは、これまで縄文人と弥生人(渡来人)の混血説がDNA解析などの結果から最も有力とされてきました。縄文人は、約1万5000年前~約3000年前にかけて北海道から沖縄まで広く居住していたことがわかっています。一方で、その縄文人はそもそもどこから来たのか?その謎は未だにほとんどわかっていません。

 

であれば、縄文時代のさらに昔、旧石器時代に目を向けてそのルーツを探る必要があります。

現在、はっきりと確認される日本で一番古い人類の化石は、沖縄県の具志頭村港川石灰岩採石場(現・八重瀬町)で1970年に発見された「港川人(みなとがわじん)」です。発掘当時、4体分の人骨(港川人1~4号)が見つかりました。1号は男性、2~4号は女性で、男性の推定身長は150~155cmと小柄で、骨格の細い上半身に対して下半身は骨格が丈夫で荒れた土地を走るのに適していたとされます。(下写真:「港川人」発掘調査の様子)

港川遺跡(発掘当時)

放射性炭素年代測定(14C法)で求められた推定年代は、約2万2000年前。同時代の東-東南アジアの人類化石と比べると、骨格は中国の山頂洞人や柳江人よりも、インドネシアから出土するワジャク人に似ていることがわかっています。こうしたことから、港川人、さらに縄文人は南方から黒潮に乗ってやってきた人たちの子孫だと考えられる説が浮上しました。しかし、縄文人と港川人の顔の骨格があまりにも似ていないこともあり、関連学会では論争になっていた模様です。(下写真:「港川人1号」の人骨レプリカ)

港川人の人骨レプリカ

 そして、2021年6月。ついに、総合研究大学院や東邦大などの研究チームが「港川人」の遺伝情報の解析に成功しました。日本国内の旧石器時代の人骨から、ミトコンドリアDNAの塩基の全配列の解読に成功したのは、初めてです。

 

同研究チームが、「港川人」の遺伝情報と、縄文人・弥生人・現代日本人・中国等の東アジアの人びとのミトコンドリア配列を比較したところ、直系でつながる系統が存在しないことがわかったようです。一方で、縄文人や弥生人に多く見られるタイプの祖先型の遺伝子(広義では、東アジアを含む「ハプログループM系統」の祖先集団(基層集団))であることもわかったようです。骨格は東南アジアから出土する人骨に似ており、遺伝子は東アジアを含む祖先型の情報と似ているということになります。

 

「港川人」の存在が確認された約2万2000年前より、さらに昔に目を向けると、約1万4000年前~約6000年前頃にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に沈んだ“スンダランド”が思い浮かびます。東南アジアから出土する人骨と骨格が似ていることから、陸続きであった時代に南方系のモンゴロイドが沖縄に入ったとの説とも整合します。そうすると、「港川人」は、スンダランドの民であったとの説が有力にも考えられます。(下図:氷河時代の陸地予想図)

 スンダランド

しかし、現段階で日本国内で出土した旧石器時代の人骨は、「港川人」の4体のみ。その後、どのように本州に入ったのか?あるいは途絶えたのか?縄文人、弥生人、現代日本人との直系が確認されていない今、「港川人」が縄文人のルーツと断言するには時期尚早にも思えます。ただ、有力な説として今後も解明が注目される研究の一つといえるでしょう。

 

次回は、もう少し年代をさかのぼって、祖先集団(基層集団)の遺伝情報と出土分布から、縄文人のルーツを辿っていきたいと思います。

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posted by asahi at : 2021年09月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.02

縄文再考~受け入れ気質、何も考えないは本当か?~

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皆さんこんにちは。

これまで縄文時代は、縄文人気質が受け入れ体質で争いが無い、食料(自然環境)が豊か、土器・土偶などの製造技巧に優れ、結果として弥生人(渡来人)に負けた、などが「通説」となっています。

特に「弥生人に負けた」と言う点では、外傷人骨が大量に出土すること、王権、政権が渡来人によるもの、からそう言われていますが、生存における勝ち負けは、それほど単純ではないようにも思います。「勝つ」と言う事が、同類殺りくにより得られるものなら、その勝ちは、本源的とは言い難い。その後の日本社会が弥生人の殺りくによる勝ちだけに根ざしているとすると、日本人の精神性なども大きく変えざるを得ないほどの論理矛盾があると思います。

今後当ブログチームでは、通説に捉われず、「右脳的」感覚と左脳的分析で、縄文時代や日本人のルーツ、日本国の形成などについて見直していきたいと思います。

その際、以下の点が重要と思います。

①民族における勝ち、負けとは何か。縄文人は負けたのか?

②縄文人のルーツ。人類アジア起源説の可能性は?

➂縄文の母系制社会はいかなるものか。男の役割は?

④土器、土偶の意味するものは?

⑤弥生人は何者か?

⑥弥生人(渡来人)と縄文人は、どのように共存(?)したのか。

例えば①では、縄文人は弥生時代以降消えてなくなったのではなく、弥生人と融合しながら現代日本人へと繋がっている。特に東北や長野では、色が濃い様でもある。その受け継がれたものは縄文気質なのか、それはどんなものなのか。争いをしないと言っても、生き続けるには必要なことがあって出来てきたから絶えることは無かった。受け継がれることを「勝ち」と言えるのかも知れない、と思います。

②では、そもそも縄文人はどこから来たか。染色体などから、欧米人と異なり東南アジアとも言われる。人類起源は、今のところアフリカと言われるがそれだけではないかも知れない。

➂では、そもそも集団は母系制(血縁が明確、かつ生産と生殖が一体)がまずあってその後家督云々で父系制に変わる。しかし所謂支配階級はそうでも一般の農民や村人は、変わらず母系制でもあった。弥生式社会と縄文式社会が、一つの国に階層別に同居しているのが、明治時代辺りまで続いている。母系制社会での男の役割は、争いが無いとしたら狩猟、工芸、大工仕事位。より重要なのは、生殖の「種」の役割。母系制で男はどう暮らしていたか、女たちは男をどう扱っていたか。

④は、世界的にも珍しい火焔式土器土偶を生み出す精神世界、信仰や文化はどういうものか。

⑤は、渡来人として秦氏の役割は大きいと言われる。天皇家を技術やネットワークで支えた。各地に秦氏の名残はあり、全国で活動した様子。何故そのような仕組みが必要だったのか。

⑥は①から⑤までを通して、弥生人は国家を築き、縄文人は自給自足で勝手に暮らし統治に興味を示さない。天皇が誰かなど気にも留めず、自分たちの暮らしを続ける。そのまま、日本の統治機構は幕藩体制、明治維新と続き、現代でも「お上」と区別する風が消えない。

以上の様に、単に「受け入れ体質」「何も考えない」と言うのとは少し違う様な気がします。また、仮に受け入れ体質と言ったところで、様々な疑問の答えは殆ど出ていない。恐らく仮説が間違えているか、浅いので、答えの根拠と結びつかない、気が付かない状況と思います。

次回以降、これらに応えだすべく、とことん追求していきますので、引き続きよろしくお願いします。

 

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posted by sai-yu at : 2021年09月02日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.08.26

精霊と一体化しようとした縄文人は自然に何を求めたのか?⇒絶対的な力であり、生き抜く活力である。

縄文人は一体何を考えていたか?最も原始人類の系譜を受け継いでいると思われる縄文人の思考に同化すると見えてくる。
縄文人やアイヌが蛇や熊を神として崇め、祭祀でも最も象徴として取り上げている。これは蛇や熊と一体化することで自然の持つ力を自らの活力に取り込みたいという現れである。

また縄文人が自然界で最もエネルギーが高いものの象徴として「火」「焔」がある。
火山がもたらす爆発的なエネルギーは自然界の精霊そのものであった。だから彼らの祭祀や土器の文様に火の表現が様々登場する。つまり、縄文人が表現するもの全てに精霊と一体化する仕組みが表れている。今日紹介する装飾品や体に刷り込む入れ墨もまた、それらの表現の非常に明確な形なのである。縄文人、さらに古代人類が求めたものは自然の力=絶対的な力であり、なぜそれを求めたのかは、彼らが「活力源をどう作り出すか」という事を切実に求めていたからに違いない。

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2021.08.19

人と動物のかかわりの歴史~暮らしの中の動物

人間は、自然に抱かれ、自然とともに生きてきました。その中で動物は、ペットとなり、食料となり、労働力となるなど、常に人間と関わってきました。人間と動物との関係は、『古事記』『万葉集』などの書物や絵巻物はもちろん、遺跡から出土する資料からも明らかにできるのです。

「人とともに暮らす」動物の代表は、犬などのペット。縄文時代や弥生時代にも人間のそばには犬がいましたが、狩猟のために飼育されていたもので、ペットとして愛玩されていたのではありません。  動物をペットとして飼うようになったのは、今から約1500 年前の古墳時代。奈良・平安時代には大陸からさまざまな動物が持ち込まれ、珍しい動物を飼うことが流行しました。特に猫は「手飼いの虎」と呼ばれ、可愛がられました。ただし、ペットを飼っていたのは、天皇や貴族など一部の権力者だけ。ペットが庶民に広まるのは、金魚や小鳥の大量繁殖が始まる、江戸時代後期(約200 年前)になってからのことです。

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2021.08.19

巫女の役割=集団を背負って人身を捧げる存在

地図というのは不思議な図面だ。

平安時代まだ何も地図がない時代になんと東経135.74度のラインに重要な遺跡が集積していたという。またその入り口は渡来人の入り口。何を示しているかというと渡来人がこのラインに沿って南へと流れた証とも言えるし、それを地の縄文の女達が取り込んでいった拠点とも見て取れる。ブログ「風の旅人」の中でこのラインに起きている古代の事象を解説している。⇒記事

巫女や女神がこのライン上に多く史実を残しているそうだ。この記事では135度のラインの話とそこで果たした巫女の役割の異なる2つの物語が書かれている。有事の際に前に出たのは女だった。「敵なのか味方なのかわからないマレビトを計る役目も、巫女が背負った。巫女は、人柱にもなり、人質にもなった。」というように集団を背負って人身を捧げる存在が巫女だったという。現代でもその構造は同じかもしれない。非常に自我がすくなく、集団に生きて活かされた女が現代でも居て、それは同じ役割を担っていけるのかもしれない。

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平安京の中心軸となった朱雀通り(現在の千本通り)は、東経135.74度で、このラインにそって羅生門や大極殿、船岡山などが位置するが、このラインは、近畿のど真ん中を南北に貫いており、その南端が、本州最南端の潮岬で、北端が、若狭の小浜となる。 そして、第2代天皇から第9代天皇までの欠史八代と呼ばれる初期天皇の宮が築かれていた奈良県御所市周辺は、この東経135.74度で、数年前、このライン上の御所市の中西遺跡で、弥生時代初期の最大の水田遺跡が発見された。また、南北朝時代、南朝が築かれた吉野の丹生川のそばの吉野三山や、京田辺の甘南備山、斑鳩の中宮寺跡、奈良盆地の全ての川が合流する広瀬大社など、東経135.74度上には、古代の重要な場所が多く存在する。

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この東経135.74度上には、女神や巫女の聖域が多い。コノハナサクヤヒメやイワナガヒメ、天津羽羽神、豊受大神、聖徳太子の母親の穴穂部間人もまた、そこに含まれる。そして、このラインの北端の小浜には、八百比丘尼の入定の洞窟がある。小浜湾に面したところで、背後には後瀬山城があり、鯖街道と呼ばれる南川、北川が小浜湾に注ぎ込む場所であり、古代から渡来人が上陸し、鯖街道を通って、京都や奈良方面へと移動していく要の場所だった。

 八百比丘尼というのは、人魚の肉を食べたことで不死となった女性であり、全国に伝承が残されているが、入定(死なずに永遠の瞑想に入ること)した場所は、この若狭の小浜ということになっている。人魚の肉を食べて不死になるという伝承は、いったい何を意味しているのか?八百比丘尼は、自らの好奇心で、人魚の肉を食べたのではない。村の男が、異人からもらった肉を、自分で試すのは怖いので、八百比丘尼に食べさせたのである。つまり、八百比丘尼は、異物が何ものであるかを調べるための犠牲であり、これは、古代において、巫女の役割だった。コノハナサクヤヒメやイワナガヒメなどの女神もまた、水辺で機を織っている時に異人(マレビト)に声をかけられて結ばれる一夜妻である。古代は川や海が交通路であり、水辺は、マレビトとの接点だった。

巫女は、所属する集団に降りかかる厄災を引き受ける犠牲者であり、もし集団が何かしらの厄災に見舞われれば、その罪は、巫女にあった。

 かぐや姫の物語のなかで、かぐや姫の罪とは何なのか?ということがよく議論になるが、近代的価値観にそって、かぐや姫個人の罪のことを考えても答えは出ない。かぐや姫というのは、巫女であり、その罪というのは、天災や疫病など、集団が見舞われた厄災のことである。

 魏志倭人伝の中に持衰(じさい)の話が紹介されているが、航海の時、一人の人間を持衰として決め、もし航海が無事に終われば、持衰を神のようにもてはやし、航海中に病人が出たり嵐に見舞われると、持衰は、その罪を背負って海の中に放り込まれたとある。

 神のそばに仕える巫女というのは、現代的な価値観では理不尽というしかない罪を背負う存在だった。しかしそれは悲劇というわけではなく、誉でもあった。巫女は、ただ美しいだけではなく、聡明で、振る舞いにおいても気品があっただろう。神やマレビトに対して、その集団を代表する役割を担っていたのだから。
だから、敵なのか味方なのかわからないマレビトを計る役目も、巫女が背負った。巫女は、人柱にもなり、人質にもなった。

 話を、若狭の小浜に戻すが、なぜ全国に伝承の残る八百比丘尼の物語において、800歳の時に入定した場所とされるのが、小浜なのか?その理由の一つは、小浜が、大陸からやってくる人たちの入り口になっていたからだろう。小浜は天然の良港であるし、朝鮮半島の、かつて新羅という国があった所から船に乗ると、対馬海流に乗って、ちょうどこのあたりにたどり着くのだ。そして、福井県の若狭町に、瓜割の滝という日本の代表的な名水の里があるが、この周辺は、膳氏の拠点であり、膳氏のものと考えられている古墳が多く残っている。

 膳氏というのは、古代、天皇の食膳に仕えていた氏族だが、単純に食事係と思ったら、大きな間違いになる。天皇の食事を仕切るということは、天皇が行う全ての祭事における食事の準備をすることである。また、天皇の生命に関わる仕事であるから、天皇の側近中の側近であり、当然ながら、その警護も担うことになる。また、大切な客人をもてなす食事、つまり外交も仕切ることになる。安倍晴明で知られる阿部氏と、膳氏が、この役割を担っていた。

現在、天皇陛下の後継は男になっているが、飛鳥時代から奈良時代にかけては、男性天皇の在位期間よりも女性天皇の在位期間の方が長い。しかも、男どもの権力抗争のなかで世が乱れる時、必ずといっていいほど女性天皇が即位し、さらに推古天皇をはじめ在位期間が非常に長いし、斉明天皇や称徳天皇など、一度は男性天皇に譲位しながら、すぐに世の中が乱れたので、再び天皇の地位に戻っているのだ。古代において、女性は、明らかに、異なる勢力のあいだのバランスをとるために大きな役割を果たしている。古代の巫女が背負っている役割と、その罪は、そのことに大いに関係している。

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posted by tanog at : 2021年08月19日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.08.15

修験道の精神とは五感・六感をすべて使って世界の原理を感じ取ること~縄文人と通じる精神

またもや風の旅人さんのブログからの紹介です。

佐伯剛さんの書かれるこのブログは2004年から書かれ既に17年間、日常を散文的に描きながら時に歴史のこと、精神世界の事に触れている。その踏み込みや文体含めた表現は面白く、何か読者の意識の奥に届けとばかりの言葉が発せられている。今回は縄文人の世界観として修験道を取り上げていること、さらに修験道の本質を以下のように書いてあるのは面白い。この表現を読むだけでワクワクする
>本来、その修行とは、滝に打たれたり肉体を極限まで追い込むようなものである必要はなく、山に入って、森の中や急流を渡りながら、五感および六感をすべて使って世界の原理を感じ取ることだろう。そこにはあらゆる生命が潜み、絶妙なバランスがあり、劇的な変化がある。天候も気圧の変化で読めるだろうし、何かしらの不穏は音や匂いだけでわかるだろう。それを感じることは、現代でも可能である。

 そしてそれらの思考性は後の行基や空海に繋がっていく。著者が提示した”衆生の救済”という言葉は面白い。それはキリスト教の神の救済とは違った認識の創造に近い、なにかモノの本質を明らかにしていくことで開放されていくような清々しい活動のようだ。このブログでも過去、空海はいくつか書いてきたが、徹底した現実直視と生きることへの肯定視だったように思う。一つ前の記事、命とは・・・と合わせて読んでみてほしい。

―――――――――――――――――――――――――――

 縄文人は、おそらく永遠と無常の世界観を、ごく当たり前のように感じ、その不可思議な、流動的で循環的な調和世界を司るエネルギーを、神の力として受け止めていたことだろう。その霊的エネルギーの一部として生きている彼らは、ニヒリズムに陥ることなく、前向きに生きていられた。形にこだわらず、形あるものを動かしている霊的エネルギーの方が重要であるということを知っていたからだ。

縄文人の方が、釈迦やソクラテスよりも上とか下とかではなく、この違いは、生きている風土の違いによるものなのだろう。

こうした縄文世界に、大陸の苛烈な風土で育てられた世界観や生命観を持つ人たちが少しずつやってきて、どちらか一方が他方を実力で強制的に支配管理するのではなく、少しずつ両者の世界観や生命観が重なり合っていくことで、日本独自の精神世界が形成されていった。縄文のような世界は地球上の他の地域にあったかもしれないが、人間の集団移動が簡単な場所であると、自分を有利にするための手段を多く身につけている狡猾な人々に、あっという間に支配されてしまう。新たにやってきた狡猾な人たちは、その土地の人たちを自分たちのシステムに組み込むため、その人たちの世界観、生命観の形成に通じるものを根絶やしにするだろう。そして、混血を重ね、たちまち一つの価値観を共有する集団がそこにできる。

 しかし、日本はどうやらそうはなりにくかった。日本人の遺伝子を調べると、現在でも、縄文系と弥生系の違いがはっきりしている人がたくさん存在している。これは、大陸における被支配国ではあり得ないことらしい。弥生時代が始まってから、日本列島には大陸から人々がやってきて住み着くようになったが、その数は少しずつであり、現地の人たちと対立的ではない方法で生きていくことが重要だった。そのため、日本においては、過去の精神世界が破壊されず、積み重なってきている。その積み重なりが膨大になったゆえに、複雑化し、本来の姿がわかりにくなっているが、本来のものが消えて無くなってしまったわけではない。

 現在、複雑なものをより複雑にしていく研究が立派な学問のように思われているが、(難しくてわかりにくいほど高尚に見える)、複雑さの中に埋もれてしまっている本来のものを露出させることが、今こそ重要になっている。

 (中略)

 釈迦が必死の思いで創造した世界観に関しては、古来の日本人にとって目新しいものではなかったが、悟りに達した釈迦が自らの救いのためにも実践していった”衆生の救済”という精神は、古来の日本人にとって当たり前のことではなかった。この精神の輸入によって生まれた日本の新たな宗教としての仏教の始まりは、おそらく修験道ということになるだろう。

 修験道と聞くと、多くの人は、悟りを得ることを目的に山へ籠もって厳しい修行を行う山伏の姿を思い浮かべる。そして修験道とは何かを知ろうと思って本を読むと、修行の内容やら歴史やら、修験者が信仰する神のことやら色々と複雑である。しかし、それらの内容は後の時代に色々と後付けされた結果であり、始まりはもっとシンプルであった筈だ。おそらく上に述べたように釈迦が辿り着いた世界観に関しては、山と森と急流の多い日本の風土の中では、自明のことだった。

 現在でも日本の国土の約70%が山岳地帯だが、古代においては海岸線は今よりも山に近く、大阪平野や濃尾平野なども、その多くの部分が海の底だった。つまり、山岳地帯は、70%よりも広かった。縄文の世界観は、その風土の中で育まれていた。地上の形あるものは、山からやってきた霊的エネルギーによって動いており、死んだら、霊的エネルギーは山に帰る。人間はどこから来てどこへ行くのかということにおいて、哲学的な問いは必要なかった。

 仏教は、形あるものは消えていくという空の概念を伝え、それゆえ執着することの無意味さを説くが、そんな自明のことより、古来の日本人にとって新鮮だったことは、生きているあいだに何を成すか、というポイントだった。

 修験道というのは、古来の日本人が備えていた山を中心とした魂のコスモロジーにくわえて、現生において、”衆生の救済”の実現を目指していく新しい精神的実践活動だった。

 山から離れた生活を続けてしまうと、改めて山にこもって修行をしなければならなくなる。しかし、本来、その修行とは、滝に打たれたり肉体を極限まで追い込むようなものである必要はなく、山に入って、森の中や急流を渡りながら、五感および六感をすべて使って世界の原理を感じ取ることだろう。そこにはあらゆる生命が潜み、絶妙なバランスがあり、劇的な変化がある。天候も気圧の変化で読めるだろうし、何かしらの不穏は音や匂いだけでわかるだろう。それを感じることは、現代でも可能である。

  仏教が入ってきた頃の日本は、すでに各地で分断が起きていた。縄文時代の足るを知ることによる万物の調和や心の安穏は失われつつあり、歪みが至るところに出ていた。特に稲作は、山の生活と比べて、天候の変化で大きな影響を受けた。日照りや台風が致命的な結果を残す。そうした困難に陥っている衆生救済するための日本人の精神的実践活動の始まりが、行基集団の活動であり、その活動の主導者である行基668-749)を守り、支えたのが修験道者だった。

 仏教と修験道が統合されたうえでの”衆生の救済”という社会活動の実践は、平安時代が始まると空海によって受け継がれていく。
空海関係の参考投稿)
空海は縄文である~”無垢の知”でもっていかに生きるべきか
空海は縄文である2~密教の本質は徹底した現実肯定にある

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posted by tanog at : 2021年08月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.08.10

「美化されすぎた明治維新」~明治維新以後150年の歴史が大きな節目を迎えている~

戦後の国民作家である司馬遼太郎氏が創り上げた<明治維新の夢>から目を覚ます時を日本人は迎えている。元スタンフォード大学の西 悦夫氏が「誰も知らない明治維新の真実」という講演で明治維新の真実を暴露したり、原田伊織氏の「明治維新の過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」という本が出版され、結構売れているのもおそらく、そんな時代の大きな変化の現れである。

そう言えば小栗上野介忠順の甥である蜷川 新氏の「維新正観」という名著も本年、再刊されたようである。知ろうと思えば、本当の事を知ることのできる環境が整ってきたということであろう。まだ、一方でNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のような明治維新勝利者側の官製プロパガンダドラマも相変わらず放映されていたが、間違いなく日本の長い歴史から考えても現在、日本は大きな節目を迎えていると考えていいだろう。私たちは、平安時代の藤原氏の摂関政治でも150年ちょっとしか続かなかったことを思い浮かべるべきなのだ。明治維新以降の現在まで続く藩閥政治もちょうど150年、そろそろ幕引きの時を迎えている。明治維新の時はイギリスと、戦後はアメリカと取引している。

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2021.08.05

命とは何か。死とは何か?霊的エネルギーを預かってお返しする。私達は生きているのではなく、生かされている。

命の考え方、死の考え方、そしてなぜ私達は生きているのか、何のために生きているのか、その考え方は砂漠の中の価値観を持つ西洋人と湿潤で豊かな自然の中で生きた東洋人、とりわけ日本人とは180度異なる。この差を善悪として考えるのではなく、今世界中がコロナで命を落とす人が多い中、生も死も身近なものとして私達に問いかけてくる。

日本人の持つ死生観は独特なものがあり、それが生命原理、自然の摂理に乗った非常にしなやかな考えを持っていることだけは注目に値する。
下記に紹介する論説は「命は何よりも大事」という今最も言われているこの言葉を中心に展開している。ただ、本意は命より大事な命とは死しても残る霊的エネルギーの事であり、おそらく自然界の中心にある精霊の命のようなものなのであろう。私達はその精霊から命を預かり、また精霊にお返ししていく。

今回はブログ「風の旅人」さんから紹介します。2020年6月に投稿された記事です。

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今回のコロナウイルス騒動で、強く感じた違和感。「命は何よりも大事」という時の”命”とは一体何を指しているのかということ。
 生命尊重という言葉を使っていると、現代社会においては、まず誰からも非難されることはなく、腹の中で何を考えていようが、良心のある人徳者としてふるまうことができる。 しかし、生命尊重の”生命”が指すものが、単に肉体的なもの、すなわち物質的なことにすぎないとすれば、それこそ死んでしまえば何もならないということになり、それは大きな意味で”生命”の意義を貶めていることにならないのだろうか。
 人は必ず死ぬ宿命だけれど、30年より60年、60年より90年というカレンダー上の長さ、つまり物資的なスケールが生命の重みを計る基準だとすると、何か救いようのない気持ちになる。その基準は、どれだけ多くのお金を稼いだか、どれだけ立派な肩書きを得たか、どれだけ大きな家を建てたかなどの物質的なスケールの基準が、人間の幸福を決定するという考えと重なっている。
 しかし、いくら努力しても人間は万能ではない。自らの努力とは関係なく、容赦なく過酷なまでの宿業を背負うことがあり、そのことによって物質的なスケールにおいては乏しい人生になってしまうことだってある。その場合は、価値のない生命ということになってしまうのか

 この不条理の問題について、人間ははるか古代から考え続けてきた。
 生命の定義を物質的な側面だけに限定してしまうと救われないし、やりきれない。そして冷静に自然界を観察していると、たとえばミツバチの働き蜂は、短い一生を、自分が産んだわけではない子供を育てることのみに捧げるし、倒木の幹からは新たな芽が育っており、生命が個体の物質的な限定を超えて他へと繋がっているケースを幾らでも確認できる。ならばきっと人間だって同じだろう。特定の宗教が説くように、たとえ肉体が滅んでも、あの世で魂が生き続けることができるというビジョンも救いになる場合があるが、この世とあの世の二つに分けなくても、一つの世界のなかで、自分の生が何かしらの形で他の生につながっている。そして、そのつながりは、生命を育てる霊的エネルギーのようなものであり、霊的エネルギーを介して、個は他の個とつながっていると考えることだってできる。
 「命は大事」と言う時、たとえ物資的には滅んでも霊的エネルギーは存在し続け、その霊的エネルギーを介して他の個がまた新たな生をつないでいくという意味においての”命”のことでないと、個体としては必ず滅びることが宿命づけられている人間は、救われない。

 また、死んだ後の救いとして、死んでも誰か他の人の心の中に生き続けるなどという、死んだ後も自己承認欲に縛られたことである必要もない。
 肉体はあくまでも器であり、自分の身体が生きているあいだ預かっていた霊的エネルギーを、身体が滅んだ後は山や海にお返しする。その霊的エネルギーの循環に終わりはない。
 祖先を敬うという場合も、自分と血縁のつながった特定の誰かを指すのではなく、霊的エネルギーを循環させ続けてきた万物全体のことを指している。

 自分の祖先が歴史上活躍した人だとか、そうでないとか、そういう人間に限定された世俗的な問題ではなく、祖先の口から入ってお尻から出ていった循環物全てに対する崇敬が、本当の意味で、祖先を敬うということだろう。

 生きているのではなく生かされているということの納得感は、そういう霊的エネルギーを預かって、お返しするだけであるという認識を自然に持てた時に得られる境地なのだろうと思う。

  人間の生命観は、生きている風土による影響が大きい。
 乾いた砂漠の中で育まれた世界観と、湿潤な森の中で育まれた世界観は異なる。
 コロナウイルスの騒動の中でも、しきりに”科学的な分析と判断と対応が必要”という言葉が聞かれた。現代社会において、科学は、もはや一種の権威装置であり、それに抵抗することは簡単ではない。しかし、現代人が圧倒的に信頼を置く科学というのは、西洋文明の科学のことであり、西洋文明というのは、古代ギリシャ文明とキリスト教の強力なタッグのもとに築かれている。

 第1級の科学者として尊敬されているアインシュタインやニュートンも、西洋人が信じる唯一絶対神が作った宇宙の法則を、古代ギリシャを見本とする理性と論理で解きあかそうとする精神の運動に従ったまでのことだ。アインシュタインやニュートンは、神はサイコロをふって決めるような曖昧さでこの宇宙を作ったのではないという強い信念を持っていたからこそ、その法則の解読のための努力が、唯一絶対神に対する敬虔さの証明にもなった。
 ”科学的”という言葉を使う時、そのことを忘れるわけにはいかない。もし、私が、ニュートンやアインシュタインが信じた唯一絶対神を、何の違和感もなく共有できるのであれば、そこから生まれた近代科学に、自分の生命観を委ねることに躊躇はない。
 しかし、審判において天国に行けるか地獄に落ちるかという二者択一の発想は、乾いた砂漠から生まれたコスモロジーとつながっている。砂漠の上で死んだものは、乾いた骨となり風に吹かれて消えていく。砂漠における物質の滅びは、孤独極まりなく、その孤独に耐えるための信仰が必要であり、そこから、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの旧約聖書を共有する唯一絶対神を仰ぐ宗教が発生した。

 日本には日本の風土があり、その風土から生まれたコスモロジーがあり、そこで育まれた生命観がある。
苦しい局面に立たされた時は、心の拠り所をそこに向けるしかない。

 万物は流転し、形あるものは必ず滅びる。そして、形あるものが存在しているのは、霊的エネルギーのようなものを一時的に預かっているからであり、それが終わったら、お返しするだけである。お借りした霊的エネルギーが帰っていくところは、それが帰っていきそうだと直感的に感じられるようなところであり、そのことが実証できるかどうかは大きな問題ではない。他の誰かからそう信じるように仕向けられるのではなく、自分が、そう感じられればそれが救いにつながるのだから。

霊魂は存在するかどうかと科学的に問われれば言葉に詰まるが、霊的エネルギーのようなものはあるだろうし、それがなければなぜこうやって生きていられるのか説明ができない。心臓が動いて血液を循環させて栄養と酸素を云々という機械論的な説明に、自分の生命を置き換えることの方が違和感がある。そういう機械論的な説明ですんでしまうのなら、胸が圧迫されるような悲しみなんか生じるはずがない。

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posted by tanog at : 2021年08月05日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List