2021.10.15

【縄文再考】縄文時代の外圧を動的につかむ①~縄文時代が世界に先駆けた理由とは?

この間、【縄文再考】シリーズでは、縄文の土器・土偶・集落などを追求しています。

生活技術や集団規模の変化をつかむことで、縄文人の技術・精神性を深くつかむことができると考えていますが、その変化を生み出した要因は何でしょうか。縄文時代を考える上で何よりも大事なことが、外圧をつかむことです。

当ブログでもこれまで、縄文の外圧を追求してきました。気候や海水レベルなど、それぞれで切り口が出されていますが、それらを包括した分析がまだまだ十分ではありません。

というのも、縄文時代といっても、各時代時代の外圧は異なること。大陸の影響を受けていること。そして、東日本と西日本でも状況が変わってきます。

現実は教科書と違い、刻一刻と変わる外圧が複層的に絡み合います。そこで、当ブログの過去の蓄積を活かしながら、最新の研究成果も織り交ぜて、縄文時代の外圧を「動的」に追求していきます!

 

(過去の記事)

縄文時代の外圧って何?

縄文晩期の気候変動が農耕につながった?

縄文時代の海水面、気候変動グラフ

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posted by ando-tai at : 2021年10月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.10.14

縄文再考;人骨一覧 縄文人だけではない!?

 

皆さん、こんにちは。
今回は、人骨が出土する縄文遺跡の一覧を作成し、国内の所謂縄文人が、どのように存在したのか、傾向を掴もうと思います。なお、一覧は人骨出土が伝えられるものに限りました。縄文遺跡は、住居跡、土器、石器、貝(塚)等が出土する地層年代により遺跡として認定されますその数は全国で400余りも有ります。そのうち数で紹介するのは、人骨出土の記録の有るものです。

住居や土器などは、生活していた痕跡です。年代や形、などの情報を伝えてくれますが、縄文人のルーツを考える際に、出土した人骨から形態的な特徴や、遺伝子解析などが進めば、もう少し縄文人がどういう人で、どの地域の人に近いか分かるのだと思います。が、現在の研究はそこまで進んでいません。

↑画像クリックで拡大

現在分かる特徴は、以下の通りです。

①九州地方では装飾品を身に着けた人骨が出土

②北海道礼文島人骨のゲノム解析ではエスキモーの様な寒冷適用をした人骨

③100体以上の多数の人骨が出土するのは、全国で5か所程度

④屈葬が認められる

⑤100体以上の多数の人骨が出土するのは、全国で5か所程度

 

<列島南北>

・北日本出土の寒冷適応した人骨、南日本の装飾人骨から、これらの地域は、既に所謂縄文人とは別の系統と思われます。北は、北海道の北から渡来してそのまま北海道に住み着いたアイヌの様な人々。南は、大陸から来たその後の弥生人の様な人々と素直に思えます。
・同じ縄文時代に、縄文人でない人々が日本列島に居た、と言う「事実」を押さえるべきと思います。
※そうなるとすべての縄文遺跡や遺構を、時代が同じと言うだけで「縄文」と言うのは、些か雑に思えます。土器や土偶などは、時代的な差異、位置的な差異もあることから、別の民族である可能性は多分にあると思います。

※特に南日本(九州)の装飾人骨は、集団の中の階層を想起させます。縄文時代の始まる前14,000年頃、中国では長江文明が始まり前11世紀には楚と言う王国があったとされます。比較的早い時期に大陸から階級を持つ人々、国家と言う統治機構を経験した人々が渡来してくる可能性は十分にあります。

※大陸渡来は、その後も続き、弥生時代、古墳時代を形成します。縄文時代の主役の縄文人が、渡来人ではない日本の先住民と考えることは可能で、縄文早期の日本列島に居住した人々のルーツの検討が必要です。

<多数>

・100体以上が出土することは、相当長期、或いは多数がそこで暮らしていたか、墓地であった(近くに長期間若しくは多数)暮らしていることになります。反対に1,2体しか出土しない、人骨が出ない例は、死体を別の場所に移動したか、短期的な生活で、移動の途中なのかも知れません。
・100体以上出土するのは、千葉県市川市、長野県安曇野市、愛知県田原市(二つの遺跡)、岡山県笹岡市。どれも中期以降の遺跡で、多数が暮らすのは中後期、草創期~前期は、数人規模で暮らしていたと思われます。

 

<屈葬>

・早期から死体を埋葬する習慣があった訳で、家畜と思われる犬の埋葬事例もあります。先の大陸からの渡来人の傾向かも知れません。

 

<旧石器時代>

・比較的明確な旧石器時代人骨が出土するのは、富山県、静岡県、沖縄県。
・静岡県の浜北人は縄文人と近いとされます。同じ浜北の三ヶ日人は、その後の調査で縄文時代人骨とされましたので、上表に(遺跡ではないものの)追加しています。
富山県氷見市泊洞穴で出土した旧石器時代人骨も縄文人に近似している。
石垣市白保竿根田原洞穴の人骨で、国内最古の4点のうち2点はハプログループM7Aと呼ばれる南方系由来だったそう。人骨は少なくとも19体分以上あり、旧石器時代の人骨発掘としては世界的にも最大級と言われます。人骨のうちの一体(4号人骨)は約2万7千年前(較正年代)のもので、全身骨格がほぼ残った人骨としては国内最古。4号人骨は、30代から40歳前後の男性で、身長は165.2cmと港川人(153cm)より高い。下顎と比較して上顎の歯の摩耗が顕著であり、特殊な歯の使い方をしていた可能性があります。仰向けの姿勢で、膝を胸の前に折るとともに、両手が顔の近くになるように肘を曲げられ、地上の岩の間にあった。このため人為的に安置されたと考えられ、風葬の可能性があるとされます。

※縄文時代以前(旧石器時代)に日本列島に居たと思われる原人や旧人。これらの中に後に縄文人となる人々がいるか、と言う事が根本的な問いとなります。継続して検討していきます。

(以上)

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posted by sai-yu at : 2021年10月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.10.07

縄文再考~縄文時代の集落について①~

写真:炉畑遺跡 竪穴式住居

 

皆さんこんにちは!

前回は縄文時代の墓から出土した骨や黒曜石から、集落の男女比率や生殖の仕方について追求をしました。今回は集落や集団が存在した立地条件や住居の形から彼らの生活について何回かに分けて仮説から根拠を辿っていきたいと思います。

 

■縄文時代の集落の変遷

縄文時代における人々の集落は各時期によって変化をしています。今回は縄文時代を早期、前期、中期、後期、晩期の5つに分類し特徴をあげていきます。

 

<早期>

・丘陵の頂部や台地縁辺部に小規模な集落(?)が形成している

・住居にはそれほど規則性は認められない

・二~三軒の小規模な住居群で構成している

・竪穴住居跡の平面形は方形のものが多い

・10m前後の大型住居が東北地方から北海道南部、北海道東部、関東地方東部で出現する

・居住内には炉がなく、屋外に炉がある

 

<前期>

・早期の立地に加え台地の平坦部にも形成されるようになる、また海進によって内陸部でも貝塚がでてくるようになる。

・住宅群がやや増加、中央に広場を有するものもみられる

・住居の平面形は方形・長方形が基本だが、徐々に楕円形・円形のものもみられる

・大型住居は関東地方から東北地方南部まで広域で出現するようになる

・屋内に炉が設けられるようになる

 

<中期>

・集落規模が大きくなっていく

・住居は平面形も円形のものが多くなる

・柱穴の配置もしっかりし、炉は地床炉・石囲炉・石組炉・土器埋設炉などがみられる

・大型住居は北海道から東北・北陸地方まで広範囲に広がり住居形式の拡散期となる。

<後期>

・直径150mの大きな貝塚(中妻貝塚)や直径120mの環状集落(竜ケ崎廻り地A遺跡)など大規模な集落が出現する

・円形の住居が多い、柱穴を壁際に沿って配したものみられる。

・炉は地床炉がほとんど。

 

<晩期>

・前期や中期に比べて住居群や住居規模が減少する

・円形から方形形が再び主流となる。

以上から前期から中期・後期にかけて住宅群が増加し集落規模が大きくなったことが分かります。また集団・集落の規模が大きくなるにつれて建物が方形・長方形から円形に変化し、炉の機能等が発達し集落として豊かになっていったのが分かります。

またどの時期も共通で大型住居というものが存在し、居住用の住居とは違う特性をもつ住居が存在しているのも気になりますね…!

今回の大きな流れからさらに各時期の集落の配置や住居の中身、大型住居の機能についてさらに深堀りしていきたいと思います!

 

〇参考文献

・常総市/デジタルミュージアム 『集落の変遷』

・高根沢町史/デジタルミュージアム 『二 竪穴住居の変遷』

・安斎正人編:同成社『縄文式生活構造』

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posted by hanada at : 2021年10月07日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.10.07

土偶のカタチ。そして、その意味とは?ー1

みなさんこんにちは。

 

前回、縄文人は土偶に精霊を宿し、豊穣・平安、子孫繁栄を家族のために祈ったと考察しました。

自分のためではなく、“家族のため”というのがポイントになりましたね。

 

今回は実際に土偶のカタチ、時期、出土場所を見ながら追求していきます。

 

まず土偶が出現し始めたのは、縄文になり温暖化が進み、定住化するようになってからです。

定住化するのは、生活に安定を求めるようになったからです。そこでは生殖一体の生活が営まれていたことでしょう。

縄文は長いです。時代も出土した土器の特徴によって細分化されています。

・草創期、早期、前期は定住化の始まり。人口は早期2万~前期11万。
・中期は、人口の数が増え、集団が大きくなっていきます。人口は26万。
・後期になり、人口が激減。集団にかかる外圧が変化します。人口は16万。
・晩期はさらに人口が減ります。もうどうしようもない状況になります。人口は8万。

各時期で土偶のカタチはどうなったのか?祈りの対象は?を実際に土偶のカタチを見て追求していきましょう。

縄文土偶の遍歴

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■縄文時代草創期・早期・前期

草創期、早期、前期の土偶

  • 女性の上半身のみ(顔、足はない)
  • 豊満な胸とくびれの再現

不思議なことに、この時期は全国的にほぼ同じようなカタチの土偶が制作されています。草創期、早期、前期の土偶の総数は全国で184体と全体の2%程度でかなり少ないですが、そもそも人口が2万にと少ないです。寒冷化から温暖な気候になり、定住を始めたため、そもそもの集団規模が小さかったと考えられます。

土偶の全てが女性を彷彿させています。女性は生命を自らの身に宿し、子孫を残します。集団において、女性は不可欠です。

推測するに、この頃の集団の課題は子孫繁栄、集団の継続、拡大だったのでしょう。それを実現するために絶対的に必要なのが女性だった。だからこそ、この時期の女性を性の対象、尚且つそれが美しいもの、尊いものの象徴として、土偶で”再現”しています。縄文時代の出産には母子ともに大きなリスクがあったことはほぼ確かでしょう。命がけで生命を育む(男性には絶対に出来ない)母子に対し、男性は祈ることしか出来なかった。それを差別化することなく、祈ること、支えることが男性の役割。そして、子孫繁栄の意味を込めて、単位竪穴式住居ごとに呪具として祈っていたとされています。

現代の医療は技術が進んでいますが、母子の命を尊く思い、土偶にその祈りを込めたと思われます。

 

■縄文時代中期

中期の土偶

  • 体だけでなく、顔、足も再現され、全身を制作
  • 女性を彷彿させる胸・くびれ・お尻を再現
  • 文様の出現

これは、カタチ、デザインへの追求に時間を充てるよりも、祈りを強めることへ注力したと考えるのが妥当ではないでしょうか?女性から子が生まれることへの感謝、素晴らしさに対しては草創期から継続かと思われます。そのため、やはりカタチは女性。胸もあり、くびれもあります。子を抱くなど仕草を再現したものが加わってはいますが、極論を言えば、カタチの変化はないです。

その裏付けとなるのが、(土器の記事)。

“実用品としての合理的な形状・装飾性の追求ではなく、集団間の緊張感を和らげる(相手集団に喜んでもらう)ための追求”

中期と言えば、土器のデザインがピークになった時期。土器が集団間の緊張を緩和するための贈与品としてデザインを追求していたとすれば、土偶は集団内の女性に対しての畏敬、その存在の平安の祈りを強めるためににカタチを追求。つまり集団を強くするための所作な訳です。

土器、土偶の役割を同じだ、と考察する方もいますが、それは全くの捉え違いではないでしょうか?

土器は集団間での贈与品(中期まで)、後期以降は集団人口減で実用的に。土偶は集団を強くするのが女性と捉え、それを実現することを祈るもの、と明確に異なった役割です。

 

唯一異なるものは人口の数です。前期までは人口が少ないため、身内に対しての祈りでしたが、中期になれば、人口が26万人に増え、集落となっていきます。人が多ければ働き手も増え、採取・狩猟においては有利になります。ここは上記にもつながる点ですね。

祈りを込めた土偶の対象範囲が単位竪穴式住居の枠を超え、集落または周辺も含めた共同体へと対象範囲が広がったと考えられます。完成度の高い土偶が現れたのも、より強い祈りをより広い対象へと広めるため。集団にとって一世一代の大仕事だった訳です。

 

■次回

中期までは、集団を強くするために土偶に祈りを込めてきました。

後期以降、全く異なるカタチの土偶に変化します。人口も16万人まで減少しています。集団にかかる外圧が変化し、祈りの対象が変化したと思われます。

次回は後期以降の土偶のカタチを追求していきます。

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posted by matudai at : 2021年10月07日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.10.01

縄文再考:縄文土器の変遷からみる、縄文時代の外圧と追求思考

皆さん、こんにちは。
先日、「縄文土器にみる、縄文人の外圧と生命観」という記事で、縄文土器について以下のように分析しました。

 

①縄文土器は、厳しい外圧を生き抜くために生まれた

②1万年間の自然の注視、自然との一体化が現代人をも魅了する美しさをつくった

③集団間の応合によって、さらなる表現(模様・形状)の高度化へと至った

 

今回は、1万年という長い縄文時代の中で、縄文土器の用途、形状、模様が、どのように変化していったのか、より生々しく抑えることで、前回の仮説を塗り重ねていきたいと思います。
※縄文土器の変化の大きさから、著しく技術力が向上していると過剰に評価されることがありますが、あくまで「1万年」という、長い長い期間の中での変化であることを踏まえる必要があります

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知っての通り、縄文時代は大きく6つの期(草創期/早期/前期/中期/後期/晩期)に分かれます。

草創期 約12,000~9,500年前(2,500年)
早 期 約9,500~6,000年前(3,500年) 人口2万人
前 期 約6,000~5,000年前(1,000年) 人口11万人
中 期 約5,000~4,000年前(1,000年) 人口26万人
後 期 約4,000~3,000年前(1,000年) 人口16万人
晩 期 約3,000~2,300年前(700年)  人口8万人

時代の中で、模様・形状が変化しているが、単に技術力・表現力が向上していることによる変化ではなく、その背景が時代ごとに異なっているのが重要なポイント。
時代ごとの大まかな特徴をまとめてみます(全体図解も載せているのでぜひ確認してみてください!)。

<草創期>

・平底、丸底のものが主流
・模様は非常に単純なものがとなっている
・器形は深鉢のものがほとんどで、用途は煮炊き用

<早期>

・器形は大きく変わらず深鉢で、用途も煮炊き用
・底の尖り、火の回りが良いとされる尖底土器が主流に(煮炊き用としての品質向上)
・文様や形状(様式)に地域的な特色がみられはじめる

⇒定住化により、生活品としての高度化が最大の目的であったことが考えられる

⇒また、地域ごとの様式がみられることから、一定範囲内に生活する諸集団の関係が生まれ始めたと考えられる

 

<前期>

・器形に浅鉢が加わる
・底部は尖底から丸底・平底にもどる
・円や曲線が多用された文様がみられはじめる
・技法・形状として地域的特色がより強く現れはじめる

⇒東日本の繊維混入、関東の羽状縄文、東北の円筒など、より広く技法が広がっていること、人工が11万へ増加していることから、より広範囲での諸集団の関係が生まれていたことが考えられる

 

<中期>

・人体や自然にある曲線を多用した立体的な造形が目立つ
・様式の多様化が著しい(火焔、水煙、大木、阿玉大…他)
・食物の調理以外にも、埋葬道具、火鉢、甕などとしても使用され始める

⇒「実用性とは程遠い造形、様式が統一ではなく多様化に向かったこと」と「縄文時代最大の人口26万人」を考えると、やはり集団間の贈与品として高度化されたことが考えられる

⇒そのなかで、自然や人にみられる曲線、立体感を表現として取り入れたことが、縄文人の精神性を示していると思われる

 

<後期>

・器形が著しく多様化する(注口、台付き鉢、壺、香炉形など)
・器壁の厚さも薄く、より実用性を向上させるための技術高度化がみられる
・文様が研磨により磨り消された磨消縄文が流行、光沢による高い装飾性がみられる

⇒人口が減少しはじめるなか、贈与品よりも、実用品としての高度化が重視されるようになったと考えられる

 

<晩期>

・文様は規則的かつ流麗になり、丁寧な磨きによる光沢がみられる
・形状はさらに多様化し、大きさも小さいものが増え、精巧なものが多い
・後半では、直線的文様が増え、現代的な表現に近づいていく

⇒さらなる人口減少の中、大きな流れは後期と変わらず、より実用品としての高度化が進んだと考えられる

 

↓土器変遷のまとめ

土器一覧
こうしてみると、やはり特筆すべきは「中期」における土器の進化。
実用品としての合理的な形状・装飾性の追求ではなく、集団間の緊張感を和らげる(相手集団に喜んでもらう)ための追求が塗り重ねられている背景。
その切り口として、人や自然を注視し、まねることで、価値を高めていたこと。それが、現代人さえも惹きつける美しさに繋がっていること。
これらは、豊かさが実現し、消費者さえも、なにを求め、なにが付加価値になるのかわからない現代において、重要な視点になりえるのではないでしょうか。
今後は、この中期縄文土器に注目して、文様の意味、物語、そこに価値を見出す縄文の価値観の分析をさらに深めていきたいと思います。

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posted by sibata-h at : 2021年10月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.28

縄文再考:縄文人のルーツ②~日本人のルーツをDNAの塩基配列から考える~

図:母系遺伝のハプログループ

図:母系遺伝のハプログループ(右側)

こんにちは!縄文人のルーツ続編です。

前回の記事では、スンダランド→港川人の南方モンゴロイドの可能性を探索しました。今回は、もう少し年代をさかのぼって、祖先集団(基層集団)の遺伝情報と現代人のDNAとの比較から、縄文人のルーツを辿っていきます。

 

各国の人びとの祖先のルーツを調べる上で、「ハプログループ」に注目する調査研究が近年の常套手段となっています。ハプログループとは、人間の細胞内の「ミトコンドリア」と呼ばれる器官のDNAの多型を用いて分類される遺伝的なグループのこと。 ミトコンドリアは母系で受け継がれます。そのため母系の祖先のルーツを辿ることができると考えられているのです。

図:ミトコンドリアDNA

図:ミトコンドリアDNA

 

前回の仮説で言えば、スンダランドの民を起源とする南方系モンゴロイドはハプログループM系に属します。一方で、これまで通説とされてきた東アジアの民を起源とする北方系はハプログループD系に属します。では、日本人はいくつの系統に分けられるのでしょうか?

 

日本人は祖先の系統ごとに大きく10種のに分類されています(現代日本人が該当する数が多い順に示します)。遺伝子には「祖先にどのような特徴があったのか」という情報が刻まれており、これを調べることが祖先を知る手掛かりになると考えられているのです。

 

■ハプログループD/遠い血縁=中国中部の人々

(日本人の35%以上が該当)

中国中部が起源とされるハプログループDは、日本人が該当する最大グループです。日本以外では中国や朝鮮半島にも多く、東アジア集団を特徴づけるグループといえます。この祖先集団は、中国中部で原始的な稲作を開始し、その技術とともに日本へやって来ることで弥生時代の到来に貢献したと考えられています。

 

■ハプログループB/遠い血縁=ハワイの原住民

(日本人の約13%が該当)

中国南部が起源とされるハプログループBは、ハワイを含む太平洋の島々から南米大陸まで、全世界に分布を拡げたグループです。日本には比較的古い時代に南方からやってきて、縄文人になったと考えられています。

 

■ハプログループM7/遠い血縁=スンダランドの民

(日本人の約13%が該当)

海底に沈んだ「スンダランド」と呼ばれる大陸が起源とされるハプログループM7は、日本人独特の集団で日本列島に最も古くから居住しているグループだと考えられています。数万年前に南方から日本へやってきたと考えられています。港川人もココに属します。

図:スンダランドの民

図:スンダランドの民の子孫??

 

■ハプログループG/遠い血縁=シベリアの人々

(日本人の約7%が該当)

中国北部が起源とされるハプログループGは、シベリアなど北部地域に多いのが特徴で、日本には中国経由でやってきて弥生人になったグループと、シベリア方面からやってきてアイヌ人になったグループがいると考えられています。

 

■ハプログループA/遠い血縁=アメリカ先住民

(日本人の約7%が該当)

シベリアが起源とされるハプログループAは、狩猟主体の生活をしていたと考えられており、現代では東アジアからアメリカ大陸まで広く分布しています。日本には比較的古い時代にやってきたと考えられています。

 

■ハプログループN9/遠い血縁=カムチャツカの人々

(日本人の約7%が該当)

ユーラシア北部が起源とされるハプログループN9は、北東アジアに分布しており、日本には比較的古い時代にやってきて縄文人になったグループと、 比較的新しい時代にやってきてオホーツク文化を形成したグループがいると考えられており、古代から魚を食していたと考えられています。

 

■ハプログループF/遠い血縁=東南アジアの人々

(日本人の約5%が該当)

東南アジアが起源とされるハプログループFは、東南アジアで最も多くの人が該当するグループで、それ以外にはあまり拡がっていないのが特徴です。大陸を北上して朝鮮半島経由で日本にやってきた可能性が高いと考えられています。

 

■ハプログループZ/遠い血縁=フィンランドの先住民

(日本人の約1%が該当)

中国北部が起源とされるハプログループZは、現代ではシベリアを中心に北欧の一部地域にも拡がっており、ヨーロッパとのつながりをもつアジアでは珍しいグループと言われています。

 

■ハプログループM8a/遠い血縁=中国の漢民族

(日本人の約1%が該当)

中国北部が起源とされるハプログループM8aは、大陸で歴史を築いた勇敢な民族である「中国漢民族」を特徴づけるグループといわれています。日本には弥生時代に稲作とともにやってきて弥生人になった可能性が高いと考えられています。

 

■ハプログループC/遠い血縁=中央アジアの人々

(日本人の約1%が該当)

中国北部が起源とされるハプログループCは、中央アジアからアメリカ大陸まで広く分布しており、日本には弥生時代に一部の人々がやってきたと考えられています。

 

以上のように、現代日本人は複数のハプログループのDNAを遺伝情報として持っており、どれか一つを起源として結論づけるのは難しいというのが実態と言えるでしょう。いくつかの民族が日本列島に入っており、その中で混血したり、民族として途絶えたり、旧石器時代~縄文時代に生存外圧によって淘汰されたと考えるのが全うであると思われます。さらには、弥生時代、古墳時代に日本に入った渡来人もいるため、このように多種多様なDNA系統が受け継がれてきたのだと考えられます。

 

次は、今回挙げたハプログループ系統の祖先がどのようなルートを辿ってきたのか?を更に深堀していきたいと思います。

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posted by asahi at : 2021年09月28日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.24

縄文再考~縄文時代の母系社会について~

縄文の母系制社会はどんなものだったのでしょうか?

 

現在日本では父系社会が一般的となっていますが、江戸時代の庶民(貴族・武家階級をのぞく)は母系社会が存続されていました。

では改めて、母系社会の中身は?どんな風に子供を産んだの?女の役割は?男の役割は?について追求していきます!

 

まずは当時の人口構造や生殖をしていたのかを当時の社会について紐解いていきましょう。

 

■縄文時代の人口推移

日本大学松戸歯学部 五十嵐由里子さんの『縄文時代の出産率と寿命-骨からの推定-』の研究から、出土した遺跡の骨から集団の男女の比率について調査しています。

 

彼女の研究では北海道、蝦島(宮城県)、三貫地(福島県)、吉胡(愛知県)、伊川津(愛知県)、津雲(岡山県)の6ヵ所から出土した人骨(いづれも縄文時代後期から晩期、北海道に関しては続縄文時代の人骨)を対象に調査し、

(1)頭蓋骨の形、(2)骨盤の形、(3)骨格筋の付着部の発達程度、(4)骨の大きさから性別の判断をしています。

分析した結果、いづれの地域も出土した骨の性別は女性の方が人数が多い(多いところでは9人、少ないところでは1人)ことが分かります。

キャプチャ縄文

遺跡によって骨が埋葬されていた時期や期間は異なるので一概には言えませんが、墓に埋葬されている骨が女性の割合が高いことから、定住しているムラでの集団の生活の中心は女性だったのかもしれませんね。

 

■縄文時代はどのように生殖をしていたのか

縄文時代の集団規模はおよそ15~20人ほど(大きくて50人)と言われています。もし集団間の結婚だったとしたら血縁者同士の結婚になりそうですが、実際はどうしていたのでしょうか?

 

譽田 亜紀子さん著『日本人が知らない「縄文人」の意外な恋愛事情』のブログでは以下のように述べています。

 

“縄文時代は私たちが思う以上に列島内での交流、交易が盛んに行われていて、伊豆諸島の八丈島にある倉輪遺跡からは、関東、東海、近畿を中心に、遠くは青森の土器も見つかっている。縄文人たちは小さな丸木舟に乗って荒波を越え、島に向かう旅をしているのだ。2

もちろん、陸路もある。70カ所ほどある黒曜石の産地のうち、縄文人たちにとって最高のブランド黒曜石は長野県産のものだったようで、数百キロ離れた遺跡から見つかることも多い。

もちろん、物だけが移動するはずもなく、人が運んでいる。集落から産地に赴き、入手することもあれば、現在のように仲介人のような存在が運んでいたことも考えられる。つまり、集落以外の人間がやってくる機会がそれなりにあったということ。

これは、年頃の娘がいる集落にとっては絶好のチャンスである。

物も欲しいが、婿はもっと欲しい。

集落のオサをはじめ、総出で旅人をもてなし、少しでも長く滞在させたことだろう。居着くこともあれば、娘と恋仲になって子どもだけをつくり、外に出ていってしまうこともあったはずだ。”

 

ムラでは長期遠征に行っている男性もいるのであれば、ムラに定住する女性比率が高くなり、女性中心の生業が行われていそうなのは想像できそうですね。

 

〇参考文献
日本大学松戸歯学部 五十嵐由里子 『縄文時代の出産率と寿命-骨からの推定-』http://minato.sip21c.org/humeco/anthro2000/igarashi.pdf
・譽田 亜紀子 著 東洋経済『日本人が知らない「縄文人」の意外な恋愛事情』
・縄文の移動交通手段・丸木舟制作  性能とデザイン いい家大研究 https://blog.goo.ne.jp/replankeigo/e/f96b98b148a8494becbe4f368f75b9e7

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posted by hanada at : 2021年09月24日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.21

【縄文再考】縄文人の寿命はどのくらいか?

縄文人はどのくらいの寿命だったのでしょうか?

「縄文時代の平均寿命って30歳くらいだよね?」と、何となくうる覚えの知識を持っていますが、本当の所はどうだったのでしょうか。

現在の日本は世界トップクラスの長寿命国ですが、太古の昔は医学が未発達であることも踏まえ、30歳説はなんとなく、そうかもしれないと思いがちです。

しかし、本ブログのテーマは縄文再考です。

改めて、どのくらいの寿命だったのか?追求していきます!

 

■縄文人寿命30歳説

「縄文人寿命30歳説」は、1967年に発表された「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」に基づくようです。今から55年前の調査に基づく推測です。

この研究での年齢推定は、

●頭がい骨の縫合線の状態(たとえば20代では縫合線が消失することはほとんどありませんが、50代では消失してしまう縫合線がかなりある)

●骨端の癒合の状態(軟骨だったものが徐々に硬い骨になります)

●恥骨結合面の状態

の3点で行われています。

頭蓋骨骨盤

写真左:頭蓋骨の縫合線で年齢とともに消失していきます

写真右:丸で囲ったところの点線(恥骨結合面)も、年齢とともに変化し、年齢推定に活用

 

分析は、縄文時代前期から晩期までの男性133体、女性102体の合計235体について行われました。この結果、平均死亡年齢が男性で31.1歳、女性で31.3歳となり、15歳まで成長した場合の平均余命が16.2歳(=31.2歳で死亡)となりました。

 

この結果が、「縄文人寿命30歳」と受け止められました。ただし、1967年の論文では、「考古学的に知られている事実から、当時の住民の寿命が本研究で見いだされた程度の短さであったことの理由を具体的に説明づけることは、きわめて困難なこと」とも指摘しています。

なお、1978年の脊椎骨の研究による「縄文時代の35歳=江戸時代の45歳に相当する」という指摘もあるようです。

 

■「もうちょっと寿命が長かったかもしれない」という説

この「縄文人寿命30歳説」に対して、もっと長寿命だった可能性を示す研究結果が2008年に公表されました。

この研究は、1967年の研究と異なり、腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)の観察によるものです。

腸骨耳状面

写真:腸骨耳状面(ちょうこつじじょうめん)は、背骨のうちの腰の骨である仙骨(せんこつ)と接合する腸骨(ちょうこつ)の接合面。この面を観察して年齢を推定

腸骨耳状面とは、腰の骨と背骨が接合している面で、若いうちは表面に水平方向のうねりがあり、この面の輪郭もはっきりしているのが、年齢とともに表面のうねりがなくなって大小のくぼみや穴が生じたり、輪郭が盛り上がったりする、といった変化があるようです。

 

この年齢推定方法は、1985年にアメリカの人類学者が体系化し、2002年に別の人類学者らがより客観的な方法を提唱しました。

 

2008年の研究では、2002年の方法を用いて分析したところ、死亡時年齢34歳以下が32.1%で、35歳以上64歳以下が35.4%、65歳以上が32.5%となり、15歳時点での平均余命が31.52歳という結果になりました。

 

65歳以上が全体の3割以上になり、縄文人は思っていたよりも長寿だった可能性が出てきました。

1967年の研究も、2008年の研究も、15歳以上と判定された人骨を対象に研究をしています。したがって、「無事に大人になれた場合の寿命」を算出しているのであって、乳幼児を含んだ全体の寿命を算出しているわけではありません。

乳幼児の死亡率はわからないので、厳密な寿命はわかりませんが、「無事に大人になれた場合の寿命」は、2008年の研究では1.5倍にまで伸びて46歳程度、となります。

 

縄文人、思っていたよりは長生きしていた可能性があるのですね!

もちろん、成人で46歳というは現代からみれば短いため、過酷な環境にあったと思います。それでも、縄文時代は、想像よりも食糧があり、安定した社会環境であったと捉えることができそうです。

 

参考文献

茅野市尖石縄文考古館HP https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/jomonlifespan.html

小林和正1967年「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」(『人口問題研究』第102号)

鈴木隆雄1978年「縄文時代より江戸時代に至る日本人脊椎骨の古病理学的研究」(『人類学雑誌』第86号)

長岡朋人2010年「縄文時代人骨の古人口学的研究」(『考古学ジャーナル』第606号)

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posted by ando-tai at : 2021年09月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.21

田中秀道名誉教授「日本史を変える30の新発見」ユダヤ人説への反論試行

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皆さんこんにちは。

田中秀道東北大学名誉教授の著書『ユダヤ人埴輪があった! 日本史を変える30の新発見』から引用するブログ。http://blog.jog-net.jp/201912/article_4.html「田中英道教授の『日本史を正す』戦い」より。幾つか引用し、反論してみようと思います。

(以下引用)『記紀』についても、「天武天皇、持統天皇、そして藤原家によって、高天原に天皇の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨される前に多くの神々がいたと書くことで天皇家の正統性を示す根拠とするために捏造されたもの」と言われてきました。しかし私は、高天原の物語は単なる幻想や作り話ではなく、縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた話だと考えています。(引用終わり)

・縄文、弥生時代の記憶がない、とは恐らく誰も言っていない。日本で書かれたものであるので、歴史風土の積み重ねが当然ある。記紀の不自然な点は、人間の様な「神」が登場すること。釈迦やキリストを神とする宗教は、余り自然なものとは言い難い点がある。

(以下引用)埴輪の中には、異常に鼻が高い人物埴輪があり、飛鳥時代以降の日本人の姿とあまりにも異なっています。特殊な冠や庇(ひさし)のある帽子をかぶり、耳元には鬢(びん)、つまり美豆良(みずら)がついており、顎髭(あごひげ)をはやしています。これはつまり、日本の古墳時代にユダヤ系の人々がいたことを端的に示しており、こういった特徴を持つ人物埴輪は、千葉県や茨城県など主に関東で発掘されています。(引用終わり)

・姫塚古墳出土埴輪で有名な、あごヒゲがあり帽子(又は天冠)を被る男性埴輪。しかし、だからと言って「ユダヤ人」であるとは言い切れない。中国のさらに西の西アジア、東欧の人々が、古来日本に来ていてもおかしくはない。 彼らをユダヤ人とする根拠は何か。

・古墳から多く出土する埴輪は、武具を付けた兵士であることが多い。同類闘争(殺し合い)がこの時代に一般化していることを示している。しかし、日本人(例えば縄文人)がそうだと言い切れない。縄文時代人骨に争いの後は殆どない。

(以下引用)日本に渡ってきたユダヤ系の人々が、機織りの技術や絹の生産技術、あるいは農業技術、灌漑施設の建設技術、そして、古墳を作る土木技術などを持っていたと考えられます。それらは中国や朝鮮にはない技術だからです。同時に彼らは日本に渡ってくる途中で入手したアジア各地での技術や物品をもたらしました。これが、天平時代、8世紀中頃に始まった「正倉院宝物」に、なぜ中国・朝鮮のものよりも中央アジアからペルシャに至る広い地域の様々な装飾品や物の方が多く収められているのか、ということの理由と思われます。(引用終わり)

・中央アジアから渡来人が来ていても、おかしくはない。

・機織り、絹の生産など、建設、古墳など中国や朝鮮にも紀元前からあると言われる。

・田中教授は、秦氏=ユダヤ人説だが、秦氏の血を引く鼻が高く顎髭を生やす日本人は、その後あまり見られないのは何故か。天皇家は、明らかに東アジア人(朝鮮)の面相だが混血はしなかったのか。

日本人のルーツ、成り立ちをどこに求めるかは、重要な課題です。縄文人なのか、その後の渡来人なのか。田中教授の様にユダヤ人(主に秦氏)説は多く、しかしその割にユダヤ人風の人がその後の日本に少ない、そこまで融和したか、と言う疑問が残ります。

引き続き検討します。

(以上)

 

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posted by sai-yu at : 2021年09月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2021.09.17

縄文再考:縄文土器にみる、縄文人の外圧と生命観

皆さん、こんにちは。

土偶に続いて、今回は「縄文土器」について追求していきます。
縄文土器といえば、火焔土器など、優れた造形力で有名。芸術家・岡本太郎も愛したという形状、模様の魅力。
なぜ土器が創られたのか、形や模様の変遷、その意味するものについて、縄文時代の外圧環境を踏まえながら分析していきたいと思います。

 

縄文土器にふれて、わたしの血の中に力がふき起るのを覚えた。濶然と新しい伝統への視野がひらけ、我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいることを知ったのである。民族に対してのみではない。人間性への根源的な感動であり、信頼感であった――――岡本太郎

 

キャプ1

■厳しい外圧を生き抜くために

 生まれた「縄文土器」

縄文土器は、その名のとおり、寒い「氷期」が終わりに向かい、寒暖を繰り返しながら、暖かくなっていった縄文時代と共に生まれます。
暖かくなるにつれて、針葉樹が減少し、食べることのできる木の実をつける広葉樹・照葉樹が増えた時代でした。栄養価の高い木の実を安定して採取できるようになり、飢餓の圧力も弱まったことで「定住生活」が可能になったのです。
マンモスの乱獲説含め、非常に豊かな時代だったという説もありますが、当時の縄文人の技術から考えれば信ぴょう性は低い。遺跡人骨の同位体分析データ(歯に残されたストレス)からも、縄文人の平均寿命の短さからも、イノシシやシカを狩ることは難しく、食料は植物性に依存(6~8割は木の実)し、栄養状態・健康状態がたびたび悪化するなど、厳しい生活であったことが推測されます。

 

その中で、木の実(硬いもの、アクの強いものでも)を確実に摂取することが縄文人にとって重要な課題。そこで、火にかけ、煮炊きするための道具として「縄文土器」が登場したのです。

 

土器は、粘土採掘、素地の不純物の除去、成形、模様施文、感想、燃料の確保、醸成、醸成後の目潰しなど手間のかかる工程で、意外とエネルギーを要するもの。必要性があったから創られていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

■1万年間の自然の注視、自然との一体化が

 生み出した「美しさ」

 

縄文土器は、1万年という長い期間塗り重ねられてきたものにも関わらず、製作技術という点では大きな違いはないのです。大きく変化したのは、直接機能性には影響を与えない「文様・形状」。初現期の土器には、製作過程で生まれた簡単な縄文様、粘土を張り合わせたパッチワーク状のものが多く、年を重ねるにつれて、火焔土器のような複雑な形状・文様が施されています。

 

キャプ2

 

縄文人は単に利便性を追求していたわけではなく、なにか別の切り口から追求をおこなっていたと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

縄文土器の形状・文様の特徴として挙げられるのが「正面性(装飾の集中、人や動物のモチーフ)」と「アシンメトリー(非対称)の徹底」。ちなみに弥生土器では集中的な文様はなく、形状・文様ともシンメトリー。人や動物には正面性(顔)があり、自然界のありとあらゆるものは非対称であることと一緒です。

 

その背景には、縄文人の世界観があります。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現しています。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という考え方。

 

夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。――――武光誠

 

つまり、縄文人にとって動植物や自然物、人工物は、単なる料理の具材、資源、道具ではない。すべてが、かけがえのないイノチ。だからこそ「生命感」を土器に込めることを追求し、形状・文様が変化していったのではないでしょうか。

1万年という長い時間の中で、自然を徹底的に注視して、そこで感じ取った生命感をカタチ(形状・文様)にした。徹底して生命原理に沿った造形だからこそ、岡本太郎のように、多くの現代人が、縄文土器の魅了されてしまうのかもしれません。

 

■応合による、

 さらなる表現の高度化

 

これだけ、形状・文様とも複雑な縄文土器にも関わらず、実は、時代によって「」というものが存在します(それで時代が推定できるほど)。南北にのびる日本列島で、どのように型が共有され、広がったのか。

それは、集団間の圧力を緩和するために行われた「贈与」が大きく関係していると考えられます。

人口も増加し集団規模が拡大していった縄文時代。「仲間が全て」である共同体集団として生き抜いてきた人類は、生活必需品ではなく希少価値の高い物を贈ることで集団間の緊張を緩和しようとしました。道具の材料となる黒曜石や、装飾品の材料となるヒスイやコハクなどが贈与されていたとされています。

 

しかし、近辺の集団同士では、地域特性のあるモノに希少価値は余り無い。そこで、製作技法を他集団以上に著しく上昇させることで、(縄文)土器を「贈与するもの」とし始めたのでは、ないでしょうか?縄文中期~後期に盛んだった生産様式は採集生産であるが、主要な生産を女が担うため、防衛力を期待された男の時間は余っていた。その時間が、集団間の緊張を緩和するための役割=縄文土器の高度化に使われたと考えられます。

 

「贈与」とは、集団間の応合性の発露であり、珍しい土器の方が喜ばれる(評価される)。また、集団間の距離が近くネットワークが形成されている場合、様々な集団から工夫された土器が「贈与されてくる」ため、更なる応合をと、”凝った”土器を作ろうとする縄文人がいたとしても、不思議ではないですね。

 

つまり、複雑に抽象化された縄文土器とは、縄文人の(他集団に対する)応合性の発露であって、世界にも類を見ない高い芸術性は、縄文人の高い応合性に支えられていたのです。

 

 

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posted by sibata-h at : 2021年09月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

 
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