2020.06.25

女たちはなぜ強くなったのか?⇒元来、女性は強い。江戸末期から明治初期の女たちと現代女性は驚くほど似ている。

現在は女が元気に時代だ。
私の会社にも女性が2割程度所属しているが、社内にいつも響いているの女性たちの笑い声や話し声。また仕事の場面でも安定した成果を出すのは活力の高い女たちである。また、ここ数年は社会的にも女が強く、男は中性化(女化)してしまっている。差がないというか明らかに女性が元気だ。
日本の女性はいつからこんなに強くなったのだろうか?確かに自由や恋愛、男女平等とった西欧由来の近代思想の影響はあるが、そもそも(日本の)女とは弱いものではない。

特に集団がしっかりあり、役割があり、女仲間がいる日本のかつての社会を見ると実に現代と何も変わっていないのだ。そして女たちは生き生きしており、強い。女のかわいさ=美しさとはそのりりしい強さも示している。

下記「欧米人の見た開国期の日本」の著書の中から実際に見た、書いた外国人の外交官達の言葉から当時の女性を浮かび上がらせたい。
切り抜きになるので、繋がっていない部分もあるが想像して読んでもらえれば幸い。全て150年前の明治初期の話である。

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日本女性の社会的地位を著しく低いとする意見がある一方、オリファントのように、日本の女性の地位をむしろ西洋女性のそれに近いと見るものもある。彼によれば、日本女性は東洋で一番多くの自由と享楽が与えられているという。「東洋には」という条件がつきながら、男性の下位に置かれているものの日本女性は、他の諸民族にくらべて一番地位が高く、一番自由であり、ずっと尊敬と思いやりで遇されているとする意見は、オリファントのほかにも多くみられる。
どういう点で彼らは日本女性が東洋で一番自由と享楽を与えられていると見たのであろうか?さきほど述べたように、彼らは上流の妾女を、まるでハーレムの女性のようにほとんど軟禁状態におかれ、外出もままならないとみた。一方で中・下層の女性については、彼らがいちように驚愕してその解釈に頭を悩ませたように、湯屋で平気で男女が混浴し、裸のままで家に戻る事実を知った。

それだけではない。彼らは中・下層の女性が、自由に外出し、とくに女どうしが互いに行き来し、長居しておしゃべりを楽しんでいる事もとくに注目している。彼女たちが社交好きで、物見遊山にも出かければ、舟遊びも楽しみ、とくに芝居見物を非常に好み、自分自身でも踊りや三味線をたしなんだことについての指摘は多い。こうしたばあいには、男性も加わるのが普通で、アンベールは男女が何の拘りもなく会話のできるのが日本だと感心している。

今と変わらないと言えば娘たちの生態もそうである。男尊女卑社会といっても娘たちは結構甘やかされてたらしい。スエンソンが日本娘の青春謳歌をつぎのように描いている

「若い娘は自由きままを満喫していて重労働をやらされることも稀で、娘時代になすべきふたつの仕事、楽しむ事と身を飾る事に身分相応、十二分に没頭する事ができる。娘たちの優雅なる暇つぶしは笑う事、おしゃべり、お茶を飲む事、煙草をふかすこと、化粧、それから何度もある祭りの催しに参加する事である」

とはいうものの中・下層の女性たちはこうした社交や遊びにうつつをぬかしていたわけではない。彼女たちの労働についても欧米人はしっかり観察している。オレインブルグの一行は商家の店先に女性が売り子として座っていることを見ているし、多くの茶店や旅籠に給仕や女中として、女性が忙しく立ち働いているさまについては多くの報告がある。
商売ではどうやら女性が主役を演じていたようで、ウィリアムズは下田で観察したところとしてその日記につぎのような記録を残している。

「女たちが商売の切り盛りになんともえらい働きをしているかを見て、驚かされたものだった。うすのろ亭主が、われわれが買おうと思っている商品の値段について、女房の考えを聞かざるを得なかったことから、がみがみ女房といっしょになって亭主をからかい、面白がっている大勢の連中を見た事がある。どの店でもほとんどが台のところへ出てくる。何事であれ女はしゃしゃり出るのだ」

女の仕事は商売にだけとどまっていたわけではない。アンベールは、女たちはすべての産業部門にその働く部署をもっていると言い、江戸の本所地区で見たところにもとづいて、日本には大規模な工場は存在せず、家族労働による家内工業であることに注目している。家内工業には男ばかりか、女たちも働いたのである。たいていの家では男は何もしないで囲炉裏端に陣どぅてタバコを吸っているだけだが、女たちはみな糸を紡いだり、縫物をしたりというように忙しく働いていた。

会津戦争に従軍したイギリス人医師ウィルスは越後地方の女性を日本の代表的美人とみているが、ただし、彼女たちはなよなよした美人なのではなく、たとえば険しい坂道を背負って黙々と運ぶたくましさと忍耐力をそなえている。

クリフィスはそれらとは別に、彼の著書「女性の地位」という一章を設けそこで一般論として、日本の女性(妻)は表向きは男性に服従してるが、実際は気転、言葉、愛嬌、魅力などによって男性(夫)を巧みに支配している。と分析している」

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次回以降には同様に男の事を書いてみたい。女は元来強い生き物。だとしたら男は何か?

私は男は没頭したり熱中したり、・・・つまり追求力の強さである。それが時代とともに変わったのか変わっていないのか。女が150年前から変わっていないとしたら、男も実は江戸時代から大きくは変わっていないのではないか?そこに期待をして記事を探してみます。

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2020.06.18

核家族が教育を担えないのはなぜか?これほどまでに無効な学校を延命させ、子供たちを無能にし続ける真犯人は誰か?

コロナ離婚、コロナ鬱などコロナを起点に社会問題が表面化しているが、既に30年以上前から核家族の問題が社会に広がり閉塞させている。
その延長に子育て、教育の問題がありこれほどまでに酷くなった学校教育の根本にこの核家族の問題が隠れている。つまり核家族化し、家庭が消費生殖のみの場となり生産場面が一切失われた。結果、家庭は教育機能を失い、学校教育に子どもの育成、教育を押し付け(=外注化)母親は子供に勉強を強いるだけの教育ママに化していく。 この現在の教育の問題と核家族化した家庭の問題、その中で消費だけの専業主婦が教育ママに化身する実態。この核家族の母親の存在こそが子供の活力を吸い取り、勉強付けで暗記脳と思考停止を招いた役に立たない大人たちを再生産する中核存在である。悲劇的なのは母親本人は全くその事に気が付いていない事である。

核家族の問題、専業主婦の問題を切開しない限り、教育問題は解決しない。

かつては家庭に生産があり、祖父母を初めとする高齢者や地域の子育て経験者が実質の教育を担ってきた。子供は集団の中で初めて育つ、そういう環境が江戸時代からつい最近の明治時代まで日本の教育を支えてきた。教育とは社会で役に立つ全うな人格、人を育てる事である。それが代々継承され、再生産されてきた。

今日は2つのサイトの記事から「かつての教育」を紹介したいと思います。
この記事を読んでもわかるように家庭の教育不在の問題とは生産の問題なのです。つまり家庭や地域に生産が根差しているかどうかが子育てや教育を行う上で決定的に重要であり、それがない消費を中心とした現代の過程とは教育、生産という面では全く社会的に役割が担えない、そこが本質であり問題の照準です。

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2020.06.11

必要か否かが本質を炙り出す~現在の遊行と元禄の娯楽

コロナに席巻された2か月。人々の意識は奥底で大きな変化を起こしている。先週の実現塾では2か月ぶりに小中学生や大人達が集まった。このコロナで長い自粛生活を経て本来必要ないものは何か、あるいは必要なものは何かという問いを出し合った。

面白い答えが並んだ。

必要ないものは)
ぜいたく品、娯楽、趣味
学歴、学校、勉強の大半、オンライン授業
マスコミ、テレビ
旅行
ゲーム
夜遊び、飲み会。
外食。

必要なもの)
おしゃべりする友達

運動・自然
追求する事、追求できる仲間
常識に捕らわれずに事実を知る事

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2020.06.04

人類が北方へ移動したのはなぜか?~石灰岩(洞窟)の分布が示す北上の証

アフリカ又は東南アジアで誕生した人類はその何百万年もかけて北上している。
特に北京原人は日本の北海道くらいの緯度まで上がって洞窟の中で定住した。また、数万年前にはデニソワ人はチベット高原を超えてバイカル湖付近にまで移動している。さらにネアンデルタール人はヨーロッパに広く分布し、フランスやイタリア北部の比較的寒冷な地域で適応している。
なぜ北上したかの説には様々あるが、大型哺乳類の動物(例えばマンモスやバッファロー)を追って北上したという説、狩猟技術が上がって毛皮を身に着ける事ができたから北上できたという説、など食うや食わずの極限人類にそれだけの余裕があったのか甚だ疑わしい。
しかし、12000年前~8000年前にかけて、あるいは何十万年前から数万年前にかけて古代人類が北上したのは事実だ。この謎を追求、解明する事がその後の人類史の拡散に寄与するのではないかと思われる。

先日、実現塾で出た仮説を紹介したい。
「人類が北上した理由は食料か逃走(=安全)か。逃走ではないか?南の温暖な地域は肉食動物が多く、また寄生虫や毒虫も多い。人類が安全に暮らすにはリスクが高い。何とか生きながらえる為に古代人が最初に考えたのは安全ではないか?安全で食料のある地を探した。その結果が寒冷地を目指す北上ではないか?或いは高地を目指す登山ではないか。食料はどうなる?そういう疑問もあるが、そもそも温暖な地に居てもまともに食料にはありつけない。せいぜい動物の骨の中の骨髄と、死体から発生した蛆虫である。さらに葉や根子、食べれるものは何でも食べた。北上したとて、そのような食糧事情であれば大きくは変わらない。蛆虫は死体があれば居るし、北上しても葉や根はある。それほど安全を確保するのは人類にとって食べる事より優先順位が高かったと考えれば整合する」

ではどうやってそんな長距離の移動を果たせたのか?ここが最大の謎になる。
実現塾で出た仮説は洞窟を渡って行ったのではないか?という説。
ひとたび洞窟の外に出ればすぐに捕食されてしまう人類、夜の間に移動できる程度の距離あるいは筏や舟で沿岸を徐々に移動するなどの手段になる。

洞窟などそんなに多く分布しているのか、あるいは各所に点在していたのか?
この疑問が生じた。そこで今回の記事は洞窟の分布を調べてみた。

 洞窟の分布)
洞窟はどういう条件でできるのか?

下記のブログから記事を紹介してみたい。どうくつの探し方という記事で洞窟探検家がどのように探すかが書かれている。どうやら洞窟とは石灰岩の地域にあるらしいという事がわかる。
>情報がないのにどうやって洞窟を見つけるの? と思うだろう。最低限必要な情報である、地質と地形の2つを調べて当たりをつけるのだ。 洞窟がありそうな地形を見つけて地質図と照らし合わせて場所を特定する。規模的に大きく、距離も長く、鍾乳石が発達している洞窟のほとんどは、石灰岩が雨水などに溶かされてできた「石灰洞」だ。石灰洞の場所を見つけるために、次に地質図を机の上に広げ、石灰岩の分布を調べる。さらに石灰岩がつくる地形の候補の中から、地底に洞窟がありそうな場所を探すのだ。どんな地形がよいかというと、洞窟用語で「ドリーネ」と呼ばれている、すり鉢状の地形が理想的。ドリーネは、雨水を漏斗のように集めて洞窟の中に水を流し込む。

次に石灰岩は世界中でどれくらい分布しているのか調べた

■石灰岩の形成過程
地球の表層はプレートと呼ばれる岩板からなっており、プレート同士が年間数cm程度の速度で相対的に移動しています。海嶺(かいれい)においてマントルから上昇してきたマグマが冷えて固まり、新しい海洋プレートとなり次々に海嶺の両側へ移動していきます。また、海洋底にあるマグマの噴出口(ホットスポット)から上昇してきたマグマが固まり海山が出来ますが、海面上にまで達した海山の頂部にはサンゴ、石灰藻、コケ虫など炭酸塩の殻を持つ様々な生物が複合して礁を形成します。このような生物礁が現在の石灰岩の「もと」になるのです。shoukai_19

石灰岩は比較的浅い土中に在り、世界中にほぼ分布している

★以下の地図ではそれを示している。
赤で示した範囲が石灰岩の分布である。特に東南アジアに多いのがわかる。

このように見て行くと石灰岩の作った洞窟を転々と移動しながら人類は安全を求めて北上した。こういう説が成り立つのではないだろうか?
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「石灰岩の分布~世界地図」

 

 

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2020.05.28

日本でなぜ感染爆発しなかったのか~世界が注目する日本、日本人、そして縄文的自然観

5月25日に改正新型インフルエンザ等特別措置法に基づく緊急事態宣言が解除された。

4月7日に発令されて1カ月半、印象としてはかなり長い期間だったが、この1カ月半で世界は大きく変わったとも言えるし、あまり変わっていないとも言える。私のようにいつも通り仕事をしていた人は反って仕事しやすかった、町が静かで動きやすかったなど良い面もあった。しかし確実に変わったのはこの5月に入って報道される、世界中で高まる日本の評価だ。私たち日本人は普通に生活し、普通に生きている事が海外から見れば軌跡とかジャパンミラクルとか言われる。

阪神大震災や東日本震災でも評価されたが、有事の時の日本人の行動は実に美しい。これが縄文体質を持つ日本人のDNAなのだ。今回は特集としてネットで掲載された3つのニュースコメントを紹介したい。坂本龍一のYAHOOニュース⇒産経抄⇒飯田浩司のOK! Cozy upの順番で紹介します。

■坂本龍一のYAHOOニュース

「そもそもなぜ日本で感染爆発しないのか、死亡者数が少ないのか。これはぼくに限らず世界中が不思議に思っていることです。日本に限らず韓国や武漢を除く中国など、アジア圏は総じて欧米にくらべると感染者、死亡者が少ない」 その理由を考えて、これはよく報道されているアジアと欧米の食生活、生活習慣のちがいはもちろんあるだろうと思ったそうだ。 「たとえば欧米人に多い糖尿病や肥満、肉食による心臓病といった生活習慣病がアジアでは比較的少ない。新型コロナウィルスは血管を攻撃するので、心臓病や高血圧など血管に関わる病気があると重症化して死に至るケースが多くなりますよね。これはわかる」

そしてもうひとつ気がついた。 「日本にいるときにニュースで見たんですけど、町のふつうのおばちゃんが“コロナ? 人間が調子に乗ったバチでしょ。自然が怒っているのよ”って、さらっと言っていたんです。こういうアミニズム的な発想、自然と人間の関係の捉え方というのは、なかなか欧米人からは出てこない。

日本人だと21世紀のいまでもそれがさらっと出てきて、聞くほうも自然に納得してるこれは世界的には非常に特殊なことでしょう何千年も前から続くアジア的な自然観ですよね。自然に対してやりすぎた報いなんだから自制しようとか、謙虚に暮らしや考え方を見直そうとなる」 こうした日本をふくむアジアの自然観が、感染拡大の中、なんらかの作用を及ぼしているのかもしれないという考察だ

ただし、感染者や医療従事者に対するいわれなき差別が世界的に拡がる中、日本でも同じような事象があることには本当に腹を立てている。 「感染者や、日々最前線で闘っている医療従事者への差別や攻撃をするなんて最低ですよ。そんな差別主義者は土星にでも移住すればいいと思いつつ、でもこちらが排外主義者になってはいけないので、そういう考え方はよくないと社会全体で根気よく言っていくしかないですね」

 

産経抄

日本の奇妙な成功 生半可なコロナウイルス対策が何であれ功を奏している」。米外交誌フォーリン・ポリシー(FP)電子版は14日、この見出しの論評を掲載した。論評は書き出しから刺激的だ。「コロナウイルスとの闘いで、日本はすべて間違ったことをしてきたように思えた。ウイルス検査を受けたのは人口の0・185%にすぎず、ソーシャルディスタンス(社会的距離)の取り方も中途半端だ。国民の大多数も政府の対応に批判的である。しかし、死亡率は世界最低(水準)で、医療崩壊も起こさずに感染者数は減少している。不可解だが、すべてが正しい方向に進んでいるように見えてしまう

FPが日本の「成功」の論拠としているのは死者の少なさだ。感染者数は、検査数が少ないのであてにならないが、死者数は確かな「指標」になるというわけである14日時点での人口100万人当たりの死者数は、日本が5人、米国が258人、スペインが584人、欧州での防疫の成功例として挙げられているドイツですら94人に上ると指摘。日本の少なさは「ほとんど奇跡的」と評した

日本の死者が少ない理由としてFPは、他人を思いやる気持ちが強い文化▽握手をしない風土▽衛生意識の高さ-などを挙げたが、これだけでは「数的に説明がつかない」と分析。「単なる幸運なのか、政策が良いからなのか、見極めるのは難しい」とやや皮肉交じりに結論付けた。

医療従事者の献身的奉仕が「奇跡」の一端を支えているのは明白であるが、一方で、日本人も気づいていない隠れた理由があるのかもしれない。最近、日本、韓国、インドなど結核予防ワクチン、BCGの接種義務がある国の死亡率が、接種習慣のない欧米諸国と比べて際立って低いことが注目されているが、因果関係は不明だ。
記事では「新型コロナの流行で最も驚くべき特徴は、東アジアと欧米の間には大きな差があることだろう」とし、感染者数や死者数を比べれば「東アジアはウイルス管理において欧米より優れた結果を収めていることは明らかだ」と分析した。

 東アジア地域の特性について記事は「簡単に言えば、東アジア人は個人主義的な欧米人よりもルールに敏感であるという傾向がある。抗議文化で知られる韓国でも暴力はまれだ」と指摘した。香港でも昨年の「逃亡犯条例」改正案に端を発した抗議活動で、整然としたデモの様子がたびたび報じられた。日本については「世界屈指の高齢者人口を抱えながら死亡率が低いことは特筆に値する」と評した。イタリアの死亡率は日本の「約45倍」と指摘し、高齢者が介護施設ではなく在宅で生活している割合は両国ともほぼ同じという調査結果も紹介した。「日本は検査数が少ないことで広く批判されてきた。だが、世界で最もリスクの高い(高齢者)人口を抱え、高度な医療システムを持つ日本は、新型コロナの最も致命的な症状の一つである肺炎の治療法を開拓してきた」と分析した。
さらに「日本のロックダウン(都市封鎖)は軽度」だが、「大規模な集会の禁止、マスク着用、手の消毒などの指示が広く守られている」とし、韓国とともに社会的な規範意識の高さを称賛した

■飯田浩司のOK! Cozy up

世界と比べて日本での死者数は極端に少ない~「日本の奇跡に学べ」
青山)大事なことの1つは病気ですから、その過程でどんなに苦しんでも、命を保つことができれば克服できるのです。どれくらいの方が亡くなるかということがいちばん重大なことです。客観的な数字として人口100万人当たりで考えると、私は信念を持って武漢熱と呼んでいますが、日本では武漢熱で亡くなった方は、イギリスの100分の1です。アメリカと比べても50分の1以下です。それを考えると、いままでの国民の努力は政府の要請と合致して、経済でも大変な苦しみがいま起きていますが、対応としては、実は成功しているのです。海外の方からは、今回の日本の対応について「ジャパンミラクル」と言われるのです。
飯田)ジャパンミラクル。
青山)WHOの首脳陣は、テドロス事務局長を含めて中国支配だと私は以前から批判しているのですが、現場には非常に優れた方々がいらっしゃいます。日本の方もいらっしゃるのですが、そういう人たちの共通の言葉も「日本の奇跡に学べ」です。まもなくこの異常事態からは卒業して行きますから、国民の方は自信を持たれて、最後の踏ん張りとして、いままでのペースを守っていただきたいと思います。
私のところにも不安の声がたくさん届くのですが、その不安は痛みと同じで、なければ滅ぶものです。痛みがないと、怪我や病気に気がつきません。不安があってこそ対応策を考えるので、不安そのものにこだわらず、不安があることは自然だと考えていただきたい。今回、39県で緊急事態が解除されて、残るは東京を含めた8都道府県です。段階は上がっているということを、みんなで確かめて、連帯すべきを連帯したいと思います。

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2020.05.21

ウバイド人もシュメール人も同じ民族である~灌漑農耕が私権社会への引き金となった

ウバイド人もシュメール人も謎が多く、出自に諸説あり未だに民族の系譜は明らかになっていない。
挙句の果てにはシュメールは宇宙人だとか、ウバイドはキングメーカー等と極端な説が登場しており、未だ謎のままである。

今回はこの出自の問題にケリをつけたい。
これらの民族がなぜ謎なのかの一番の理由は今から7000年も8000年も前にも関わらず高度な文明の痕跡を残したという事のようだ。
その解明のヒントは以下の部分にある。
黄金の利用価値を理解していたため、ウバイド人たちは世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図った。収集の方法は、ウバイド人が各地に移住し、高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に密かに収集していた。灌漑によって飛躍的に食料生産規模を高めたエリアは文明が発達していった。リンクより引用

ウバイド人は黄金を理解していた、そこに目を付けがちだが、この文章で重要なのは灌漑技術の発見である。種から栽培し人工的に植物を生み出す農業は既に11000年前に人類史に登場しているが、灌漑技術はそれから下って約8500年前に登場したと言われている。灌漑技術とはそれまでコントロールできなかった“水資源”をコントロールできるようになったこともあって、河から水路を作る事で乾燥地であってもで水を必要な時に農地に供給する画期的な仕組みを編み出した。それまでは限られた湿潤地帯でしかできなかった農業を河川周辺であればどこでも農業が可能になり、多くの人を養う事が可能になり、都市の形成が始まるきっかけとなる。実際にメソポタミアでは1万人を超える都市国家が生まれている。

灌漑農耕の最大の謎は鉄がまだ登場していない時代に「どのように土を掘り、水路を固める等、大掛かりな土木工事をする事ができたのだろうか」という点。この謎には別途取り組んでみたいが、私が考えるに馬や牛に木製や石造の農工具を引かせて固い土を切り開いたのではないだろうか?またウバイド人は既に高度な土器文化も持っており、粘土質の河川周辺の土も水路の表面を突き固める材料として上手く利用した可能性がある。いずれにしてもこの時代に大土木工事をするというのは相当な人工と集団の結集が必要になった事は明らかで、乾燥地帯に登場した彼らが「厳しい外圧」を直視して生み出した人類最大の産業革命であっただろう。

しかし一旦灌漑農業が発明されるとその後はその民族、その地域は圧倒的に進化する。

それが彼らが高度な文明を持っていたとされる所以で、すべては最初の灌漑農耕にあったのだと解釈。ウバイド人はこうして灌漑農耕を起点に定住し、土器を発明、黄金の収集も行った。まとめると元々メソポタミア地方周辺に居た土着採取民、農耕民が牧畜を開始、そこで得た動物のコントルール技術を元に灌漑土木工事を遂行、乾燥を契機に灌漑農業を開発し、地域一帯に広がった。歴史を長く俯瞰すると戦争の始まりが私権社会の始まりであるが、この灌漑農耕の発生が私有意識を生み出し、水の利権争いを発生させ、やがてその争いは民族同士の闘争=戦争へ繋がっていく。灌漑農耕の時代=ウバイド期はその後5000年間継続する私権時代の前夜だったと言える

次に約6000年前に登場したシュメール人である。歴史上はウバイド人はシュメール人に押し出されてメソポタミアにはシュメール人が残り、メソポタミア文明はシュメール人によって生み出されたとされている。但し、このシュメール人の出自が明らかでなく、一説にはドラビダ人、さらに宇宙人という説もある。しかし実はシュメール人は突然来たのではなく、これもウバイド人同様に土着の民が灌漑技術を元に都市国家を形成したのである。なぜ土着かと言えば、最大の理由が日本人同様に彼らの言語体系にある。膠着語という言語様式を持っており、この言語は古代人である縄文人(→日本語)でしか見られない最古の言語形態だ。そう考えると、シュメール人とウバイド人は同部族であり、ウバイド人=シュメール人である事はほぼ確実だ。実際、ウバイド人とシュメール人は戦争の痕跡もないし、どちらも高度な灌漑技術をもっていた。また、彼らはセム・ハムで言えばハム系であり、シュメール人もその後周辺の武装部族に押し出され、インド、北アフリカへ移動する。

シュメール人はその後、インドでインダス文明を立上げるが、500年後には武力部族のアーリアに押し出され、西方へ。大月氏としてチベットの奥でしばらく定着。2230年前に中国に進出し、秦を立ち上げる。秦の始皇帝はシュメールと何らか重なっており、秦時代の技術者=秦氏が日本に渡来し、天皇系に繋がる。秦の始皇帝は中華民族ではなく、異人と言われ、西方から来た事は既に歴史書に書かれている。秦や天皇家がシュメールと繋がるという学者は居るがどよのように繋がっているかを示した説は殆どない。当ブログでは、上記に書いた経路が始皇帝、天皇家=シュメール人と言われる流れとして提起したい。

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下記、メソポタミアの灌漑農耕について書かれたブログの引用である。概況がよくわかる。

人類が最初に灌漑農業をおこなったとされているウバイド期は、BC6500~3800年の2000年以上もつづいた。しかし、ウバイド期がどのような社会であったのか、よくわかっていない。
e382a4e383a9e382afe6b0b4e588a9わかっているのは、泥の日干しレンガで家屋を建設していたこと、灌漑農業をおこなっていたこと、コムギ、オオムギ、豆類、亜麻などを栽培していたこと、ヒツジ、ヤギ、ウシの牧畜をおこなっていたこと、漁撈をおこなっていたこと、彩色土器がさかんにつくられたこと、10ha以上の「都市」があらわれたこと、社会の階層化が徐々にすすんでウバイド期の代表的な遺跡としては、エリドゥがある。エリドゥは、最大時に1万人が居住し、世界でもっとも早く登場した「都市」と考えられている。いったことなどである。古代のメソポタミアの農業についての研究は、粘土板文書の文献研究が中心で、考古学的な研究がほとんどすすんでいない。文献研究では、前川和也先生の研究がある。e69da1e692ade3818d

前川先生は、ウル第三王朝時代の粘土板文書から、“erin”と呼ばれる集団労働組織が存在し、灌漑の専門の仕事に従事していたのではないかと推察している。水門、用水路などの灌漑施設の建設と管理は、部族集団の組織的な労働、高度な知識の蓄積、社会の階層化、ポトラッチによる部族間の利害の調整など、社会の高度化をもたらした。そして、都市の登場によって、知識の集積と社会の高度化が急速にすすみ、農耕文明の成立につながっていったと思われる。

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2020.05.14

「日本人シュメール起源説」の謎

現在の歴史学が“世界最古”とする文明はシュメール文明です。シュメール文明は、シュメール人によってメソポタミアの最南部、チグリス・ユーフラテス川の下流域に築かれた文明です。

シュメール人は、遥かな古代、どこからともなくこの地に姿を現し、何の手本もなしに、独力で人類最初の文明を築き上げ、今から4000年前、突然その姿を消してしまったとされますこのシュメール人の存在は、わずか150年ほど前の1850年代まで、全く知られていませんでした

メソポタミアの歴史に詳しい聖書も、古代ギリシア・ローマの文学も、シュメール人については一言も触れていません。シュメールという名称そのものが、数千年の長きにわたって、人類の記憶から消え去っていたのです。現在でも、シュメール文明の興亡は、人類史上最大の謎のひとつとされ、歴史学はそれを「シュメール人問題」と呼び、解き明かせぬ歴史上の難問のシンボルとして扱っています。

シュメールは、数多くの文明が興亡を繰り返してきました  メソポタミア地方の最南部に興った。だが、いつ、どのような経路を通ってその地に やってきたのか誰も知りません。

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2020.05.14

ウバイド人を明らかにする~落合莞爾 史観より

メソポタミア文明を担った中心にシュメール人が居り、シュメール人は出自もアッカド人に追われた後も謎と言われている。あまりにも高度な文明装置を一気に揃えた事や天文学に長けていたことから一説には宇宙人などという説まで登場する。また現代の私権社会に繋がる戦争を初めとする全ての基礎的仕組みができあがったのもこの時代だ。私権社会を解明する上でシュメール人の謎を事実ベースだけを題材に明らかにする事は改めて重要だと感じている。しかしこのシュメール人が登場する前に既にメソポタミアで高度な文明を築いていたのがウバイド人である。シュメール人を解明する前にウバイド人を調べる事を優先したい。

その中で、ウバイド人という名前を付け、現在謎と言われている民族こそウバイド人の末裔であると表現する研究家が居た。落合莞爾氏である。1941年生まれの落合氏だが、日本の皇統や秘事を次々と書籍で発信し、その独自の分析に落合史観とまで評され、未だに根強い支持者がいる。

今回はブログ落合史観研究会からウバイド人のページを紹介したい
落合氏の説によれば、ウバイド人とは金の採取に長けた民族で、その後海洋人となり世界各地に拡散、その一派が日本では秦氏を名乗っている。
フェニキア人やスキタイ人の上層部に潜り込んだり、何より彼らの特徴はキングメーカー(裏から王を生み出し、操る)という処にある。

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 ウバイド人とは、紀元前5500年頃メソポタミアに登場した旧人類とされる人々で、「ウバイド文化」を担った人々。

学術的に「ウバイド文化」は存在するが、当時生きていた人々に対しての呼称がないため、落合莞爾氏が著作の中で便宜的に「ウバイド人」と使用。ウバイド人は、ビュルム氷期を寒冷地適応することなく高山地帯で過ごし、ビュルム氷期が終わった紀元前8000年頃から、しばらく時を経てメソポタミアに登場。ウバイド人のような旧人類は、その他にもビュルム氷期中でも比較的温暖であった太平洋沿岸の地域にも存在し縄文文化を担った人々(縄文人)もその一つとされる

ウバイド人はメソポタミアに登場した際から、農耕、漁労、牧畜の三つに社会的分業を行っており、各生業で生ずる余剰生産物交換における媒介として「黄金」が機能することを予め知っており、円滑な社会的分業から文明度を高める術を持っていた。また、黄金の利用価値を理解していたため、ウバイド人たちは世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図った。収集の方法は、ウバイド人が各地に移住し、高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に密かに収集していた。灌漑によって飛躍的に食料生産規模を高めたエリアは文明が発達していった。

メソポタミアには紀元前5500年から3800年頃まで存在し、以降はシュメール人にメソポタミアエリアの文明を引き継ぎ、東西への移住を推進した。

東に向かった人々がインダス川やウラル海に注ぎ込む内陸のアムダリア川に到達した。インダス川からガンジス川に内陸で移った後かその前か、一団が船団で東南アジアから日本に到達した。この海から渡ってきた一団の中に、日本皇統となったウバイド人たちもおり、海から日本に到達した人々を、落合莞爾氏は「タチバナ」と呼称している。
到達した先は和歌山県の熊野エリアで、さらにここから一部が博多(那の津)に展開した。なお、海人ウバイドのタチバナは、その後の姓では、和田(楠木)、橘、津田、井口、菊地(土編)、橋本、井上などを名乗っているが、さらに様々な名字が派生しているようであるが、井口や井上同様に灌漑技術に優れていたので「井」が入ることも多いらしい。また、ウバイド人同士の時は、自分たちのことを「イシヤ」と呼ぶようで、現在でもウバイド人の密度が濃い和歌山や大阪南部では「イシヤ」を使う人々が存在。

ところで、ウバイド人ではあるものの「タチバナ」とは別で呼称されるのが「サエキ」。佐伯と紛らわしいので「サエキ」と表記されるが、高山地帯で生きて来たからか修験のようでもあるので、「修験サエキ」とも呼称されるサエキは主に大陸で活動した人々を指すことが多いようで、アムダリア川やシナの黄河や長江を灌漑していた人々は「サエキ」と呼ばれる。シナの伝説的な王と言われる「尭」、「舜」、「禹」もウバイド人で、特に「禹」が高い灌漑能力を発揮した。

大陸で活動する中で、黄金を管理や移動を担う氏族はシナでは「呂」氏となり、黄金を使って王を生み出すことからキングメーカーとなり、歴史上では太公望呂姜、呂不韋、呂公などとして現れる。また日本ではこの「呂」氏は「秦」氏と名乗っている。秦氏は呂氏系秦氏の他にも、彼らが率いて来たその他の民族が秦人と呼ばれるので、必ずしも秦人=呂氏ではない。なお、サエキは、日本ではさらに呂氏以外も存在し、大伴氏、佐伯氏、阿刀氏、緒方(初期)氏などである。

ウバイド人は、世界に拡散する中で、スキタイ人の上層部として入っていたり、ケルト人やフェニキア人と呼称されたりしている。
世界史上謎の民族とされている人々がウバイド人でなるのかもしれない。

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posted by tanog at : 2020年05月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2020.05.07

カルタゴの歴史はローマによって抹消~奥の院の出自は抹消されたカルタゴ発

現在の金貸しの奥の院である「サボイ」「デルバンコ」「タクシス」はいずれもフェニキア人(海賊)の末裔と言われている。かつてはカルタゴで貿易国家を謳歌していたフェニキア人達は、ローマに殲滅されヨーロッパの各地へ拡散、追っ手の恐怖に怯えながらイタリアやスペインで生きながらえた。彼らがその後逆襲に出ながらも決して表舞台の国家や政治を担わずひたすら裏で支配の手を磨いてきたのもカルタゴ消滅の歴史に拠る。

以下、いくつかのブログからカルタゴとフェニキア人を紹介しておきたい。

著者はかなりカルタゴやフェニキア人に入れ込んでおられるが、少なくとも史書が焼き捨てられ、歴史を抹消されたとする件は、日本における奈良時代の藤原不比等の歴史書き換えによる国家乗っ取りと似ている。日本人は歴史を抹消されただけで縄文人を母体とする土着は生かされたが、地中海のフェニキア人はローマ人に徹底的に迫害、殲滅された。その凄まじさが奥の院の徹底した現実主義、生きる為の追求エネルギーにその後転化したのでは。

 リンクより掲載

フェニキア人の地中海における交易路 

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■カルタゴとフェニキア人
私達が今日目にすることができるのは、勝者であるローマが作り上げた歴史のみです。
その中では、カルタゴは野蛮なアフリカの一国家であり、バール神に人身御供を捧げ、地中海で海賊行為を働き、ローマに討伐されたことになっています。また、第2ポエニ戦役で活躍したカルタゴの名将ハンニバルについても、酷薄な野心家として描写され、第2ポエニ戦役勃発の責任を、全て彼の条約破棄による独断専行が原因であると決めつけています。しかし、本当にそうだったのでしょうか?

敗者カルタゴの歴史は抹消され、検証すべくもありません。ローマは、第3ポエニ戦役の後、カルタゴの城邑を破壊し尽くし、民を殺し、その地に塩を撒いて、人の住めない荒地にしてしまいました。何故そこまでする必要があったのでしょう?私はここに、勝者ローマの作為を強く感じます。
カルタゴ人の祖先、フェニキア人は、私達が世界史で最初に習ったように、アルファベットを考案した民族でした。彼らは、ローマがまだ未開の地であった頃に、高い文明を打ち立て、交易相手を求めて、勇敢に地中海へと乗り出していったのです。そして、今のチュニジアに建国した中継都市がカルタゴでした。

従って、カルタゴは、純粋な商業都市国家であり、王というものは存在しません元老院・百人会・民会という3つの議会により全てを決定し、対外的な代表としてスフェスと呼ばれる執政官を選出していました。軍隊は自衛用にわずかを保有するだけであり、ギリシア等と争いが起こった時には、隣国ヌミディア(今のスーダン)を初めとする外国の傭兵を雇い入れていたのです。これは、日本の戦国時代の「堺」に良く似ています。
地中海世界の殆どの国が、未開か、原始的な王制であった、紀元前700年という時代に、カルタゴは既に貴族主導とはいえ民主制を導入していたのです

ローマにとって見れば、膨大な商業利権と富を持ちながら軍事力を持たないカルタゴは、自国の権益を拡張する上で、目の上の瘤であると同時に、絶好のターゲットであったはずです。カルタゴが作り上げていた貿易ネットワークに新規参入してきたローマは、最も簡便で効果的な方法を採りました。「相手を叩き潰して、根こそぎ奪い取る」です。ローマは、軍事力を盾に、次々とカルタゴの交易相手を屈服させていき、ここに両国の利害は真正面から衝突することになりました。商船は撃沈され、商業権益を奪われて、貿易立国のカルタゴは、国家存亡の危機に陥ります。

ついにカルタゴは、国家の存立を賭けて、ローマとの戦争に踏み切り、おびただしい傭兵を雇い入れます。これが第1ポエニ戦役でした。しかし、ローマの正規軍に対して、金で雇われた寄せ集めの傭兵は歯が立たず、民兵は訓練不足で役に立ちません。商船を改造した軍船は、ローマのガレー船に近づくこともできず、次々に沈められていきます。カルタゴは、23年間持ちこたえましたが、ついに敗れ、ローマは、地中海の制海権と権益を奪い取ります。敗れたカルタゴには、膨大な賠償金が課され、報酬を受け取ることができなくなった傭兵たちの反乱も加わって、国内は大混乱に陥ります。

この事態を収拾したのが、ハンニバルの父、ハミルカルでした。
「稲妻」と呼ばれ、優れた将軍であった彼は、各地に点在するフェニキアの植民市のうち、殆ど未開であったスペインの「カルタゴ・ノヴァ(カルタヘナ)」に目をつけ、一族を率いて移住します。そして、現地の民族を味方に引き入れ、カルタゴのアキレス腱であった軍事力を充実させて、ローマの脅威に備える一方、現地の金銀をカルタゴ本国に送り、財政の建て直しを図ります。ハミルカルのこの行動と、本国の政治家たちの奔走により、ようやくカルタゴは復興していくのです。
(中略)

敗れたカルタゴの人々は、海上に逃れ、海賊となって、その後もローマに抵抗を続けます。それは、一つの民族の怨念と言えるでしょう。後に三頭政治の一角を形成するポンペイウスが鎮圧した海賊とは、このカルタゴの遺民たちのことです。
こうして、カルタゴは、歴史の中に消えてゆきました。ローマはその後、千年の繁栄を謳歌し、敗者たちを貶め、嘘の歴史を作り上げました。しかし、わずかに残る断片的な文献は、これらの歴史が作為的なものであることを、如実に伝えてくれます。後世の史家や文学者達は、それらを渉猟し、真実に迫ろうとして努力を続け、最近では、カルタゴに対する評価は、依然とは全く違ったものになろうとしています。歪められた歴史の是正には、実に2千年余りの月日を要したのです。

 

■(ざっくりと)フェニキア人とは何者か?
フェニキア人は、エジプトバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍する。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。
フェニキア人の建設した主な主要都市には、アラドス(現在のアルワード島)、ティルス(現在のスール)、シドンビュブロス、ベリュトス(現在のベイルート)などがある。後期青銅器時代には、これらの都市が存在していたことがアマルナ文書から確認できる[4]。フェニキア人は海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。

しかし紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。アッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝ペルシア帝国)に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。しかし、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によってティルスが征服されると、マケドニア系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となった。
一方、紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。

 ■そしてこのフェニキア人は秦氏に繋がり、日本に繋がっていると言われている。
そのくだりは次回の投稿とさせてもらいます。

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2020.04.30

表に出ることなく、裏で日本を操ってきた秦氏

秦氏が日本に渡来してきた経緯については諸説があります。 秦が滅び亡命してきたという説をはじめ、万里の長城建設等の苦役に耐えられず、秦韓に落ち延びた後、日本へ亡命してきたという説、秦の末裔を名乗ることで異国において優遇されようと目論んだという説など、秦氏の出自については枚挙にいとまがありません。

また、新撰姓氏録では秦氏の出自が秦始皇帝に由来していることが明記されています。その信憑性には疑問が残るも、可能性については留意する必要がありそうです。日本の歴史において重要な役割を果たしてきた秦氏ですが、中国の文献においても、不思議とその出自に関する記述を殆ど見出すことができません。秦の末裔というのが本当なら、中国にも秦氏の出自に関する記述が残されているはずですが、皆無に等しいのです。

秦氏は如何にして、都の造営に携わるほどの政治・経済力を携えてアジア大陸を横断し日本に辿り着いたのでしょうか? その高貴な文化と芸術的な感性、そして特異な宗教的背景を振り返る限り、秦氏は元来、高貴な王族級の民族の出であることに違いありません。

秦氏の出自については、これまでるいネットで多数投稿されてきました。 今回はその一部を紹介します。

【秦氏=忍者=諜報組織⇒日本の産業界を支配してきた】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=335027

秦氏は常に歴史の裏方で活躍してきた。彼らがいなければ、今日の日本はありえず、伝統文化も存在しえなかった。忍者と財閥、このふたつを握ることで、秦氏は日本の歴史を裏で動かしてきたといってもいい。

<忍者と秦氏> ・忍者の歴史は古い。文献に残る忍者の初見は聖徳太子が組織したという「志能備」、もしくは「志能使」と表記される組織である。『日本書紀』によると、「大伴細人」なるをもって志能備の任に当たらせたとある。大伴氏は物部氏と並ぶ古代豪族のひとつ。軍事的な力をもっていた。軍事の基本は情報であり、インテリジェンスである。その意味で、大伴氏が諜報活動を行ったという記述は十分、信頼性のあるものだが、忍者の歴史を俯瞰するに、実際の任務を担ったのは、実は秦氏であることが見てとれる

【徐福と秦氏】http://bbs.jinruisi.net/blog/2018/08/3172.html

縄文後期~弥生時代(紀元前五世紀中頃から三世紀中頃まで)に掛けて「伊韓(唐)島の周辺と五島列島、壱岐・対馬を含んだ地域で発達した」と言われる太平洋・インド洋を繋げた大航海の伝承と航海技術の伝承が有り、秦の始皇帝時代(紀元前二百二十年頃)に中国沿岸部に、「海人族」として倭人(ワィ)と呼ばれる部族が存在した。

徐福伝説において始皇帝は、不老不死を求めて方士の徐福に「東にある」と言う蓬莱の国(日本列島の事と推測されている)へ行き、「仙人を連れて来るように命じた」とされている。 この徐福の航海を可能にしたのが、中国沿岸部に居住していた倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)が持つ大航海技術だったのである。 この徐福伝説の徐福が日本列島へ住み着いた征服部族、「秦氏」の先祖と言われて居る。

【 秦氏とユダヤ王族の関係】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=334596

日本書紀には、弓月君(ユヅキノキミ)が3世紀末、朝鮮半島より渡来したことが秦氏の基であると記されています。当時、中央アジアには、弓月部族が元来居住していたと考えられる弓月国が存在しました。そこはイスラエルの祖先の地からも近く、布教も熱心に行われた結果、景教の一大拠点ともなり、シルクロードの通過点として最終的に日本の奈良まで繋がることとなります秦氏が景教の信奉者であることからしても、弓月君の故郷が、この中央アジア近辺にあった可能性は極めて高いと考えられます。

つまり、秦氏のルーツは中央アジア方面まで遡ることがわかります。そして景教の信奉者として全国各地に神社を建立し、さらにエルサレムの都に倣って平安京の造営に大きく貢献したことからしても、秦氏は中央アジアからさらに西に存在するイスラエル国のユダヤ王系でなければ成し得ないと考えられるのです。

【八咫烏と山窩と秦氏、三つ巴の闘い】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=334241

現在の日本は、1000年以上も前に日本を統一した“大和朝廷”の流れを汲んでいますが、この大和朝廷による統治を受け入れず、その支配を逃れて山野に隠れた「海人(出雲)の国」の人々が中心である“サンガ”は、現在までも大和朝廷(現在の日本)に敵対し、隙があれば常に国家転覆を画策していました。

そして、大和朝廷に敵対する者たちから天皇家を守る裏の存在として組織されたのが“闇の八咫烏”と呼ばれる人々の存在であり、両者は歴史の主要な舞台で1000年を超える争いを続けています。

また、大和朝廷に敢えて逆らう事をせずに、人知れず大和朝廷に融け込み、気配を絶っていったのが、いわゆるユダヤの外来系の“フリーメーソン”の人々であり、彼らの源流は近代ではなく、1000年以上も前の“倭国”の“秦氏”で、明治維新の裏舞台には、この3つの組織による権力闘争があったようです。

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posted by tanog at : 2020年04月30日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List