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古代日本の東北地方~蝦夷の有力豪族の出自に迫る

前回の「蝦夷(えみし)の歴史を探る」 [1]中で「他にも、有力な氏族がいたのではないか」というあたりが次のポイントだと考えていました。そこを切り口に追求してみました。

具体的には、安倍氏です。
>安倍氏は俘囚長(俘囚の中から大和朝廷の権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布している。ウィキペディア [2]

俘囚(ふしゅう) [3]とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者であり、説をそのまま受け取れば、蝦夷の中から出てきた有力な氏族です。

安倍氏は平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族として知られていますが、出自はよくわかっていません。そこを追求してみたいと思います。

安倍貞任(あべのさだとう)

今回も、松本正剛の千夜千冊 [4]を参考にさせて頂きました。
北上幻想 いのちの母国をさがす旅 [5]

北上幻想 いのちの母国をさがす旅 [5]に、安倍氏に関する面白い歴史が書かれています。
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>(前略)宗像の社には、宗像の女神たちが祀られている。海の沖津宮、島の中津宮、浜の辺津宮があって、それぞれが宗像三神にあてがわれている。

>宗像三神はすべてが海の女神であり、アマテラスがスサノオと誓約(うけひ)をしたときにアマテラスの吐く息から生まれた女神たちである。その末裔は海流に乗り、海人たちの活動に応じて、日本の列島・群島のそこかしこに散っていった。

>その逆に、宗像三神と交流した記憶が九州に届いてもきた。そのひとつ、中津宮の大島は「お言わずさま」ともよばれ、そこにはなぜか安倍貞任と宗任の墓がある。

陸奥(みちのく)の俘囚の物語に消えたはずの安倍氏の末裔がここに流れてきたのだろうか。それとも宗像神と安倍氏とはもともとどこかでつながっていたのだろうか。あるいは、その後の歴史にわれわれが失った母国の一族を結びつける何かの動向があったのだろうか。
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宗像大社は日本最古の神社のひとつで、福岡県宗像市にある。
そこに、東北の有力豪族であった安倍氏の墓がある。
古代日本の東北=蝦夷にとっては敵であった九州に埋葬されているというのは大変興味深い事実です。

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安倍一族の消息はたしかに日本列島各地に残響している。『筑前国風土記』には安倍宗任には3人の子があったと記され、長子は肥前松浦に渡って松浦党の祖になり、次男は薩摩に行き、そして三男が筑前大島に渡ってきて、宗像の杜に拠点をおいたと説明されている。

>一方、宗任たちは前九年の役で坂上田村麻呂に捕縛され、いったんは京中に連れてこられようとしたのだが、都には入れず、伊予に流されたときに逃亡を企てたので、治暦3年(1067)に太宰府に再配流されたなどという記録もある。『再太平記』では後三年の役の折に、八幡太郎義家が宗任を筑紫に下らせたというような物語をつくっている。
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安倍氏は、征夷大将軍(=蝦夷を征伐する)に捉えられ、前九年の役(平安時代後期の中央政権との戦い)で滅亡しました。
・宗像大社に墓がある事実を合わせると、朝鮮半島にも近い,朝鮮半島を望む海辺の立地。朝鮮半島にルーツをもつ出自ではないか。
・朝鮮半島で敗北して海を渡り日本に辿り着いた。しかし、時の中央政権も実は敵で、さらに海を介して東北に渡り陸奥国を興した。
恐らく、安倍氏は結局渡来人ではないか。安倍氏一族の消息が日本各地に散逸しているあたりも、敵が多かった証左ではないかと考えられます。

次回は奥州藤原氏あたりを切り口に追求したいと思います。その後、徐々に土着の蝦夷たちはどこにいたのか。解明していこうと考えています。

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