2022.10.22

三内丸山遺跡の大型掘立柱建築物の考察

三内丸山遺跡の大型掘立柱建物

縄文時代の住居と言うか、建築物に関し考えています。最もそれらしく復元されている青森県の三内丸山遺跡ですが、よく言われる竪穴式住居の他に高床式倉庫はあるわ、三階建てで屋根も壁もない大型掘立て柱建物はあるわで、中々の混乱ぶりと言えます。

三内丸山遺跡の大型掘立柱建物の遺構の様子 

大型掘立柱建物の再検討

特に大型掘立柱建物に関しては、
大林組による三内丸山遺跡の工学的分析 ジオフロント株式会社

に詳細が報告されています。

>1平方mに16tの荷重が加わっていた
>建物の総重量は約71tの規模となり、この構造だと荷重は1平方mあたり16tちかくになり、地盤調査の結果とも整合性がとれる。

との話ですが、そもそも建物重量71tはかなり重いと思います。4.2m×4.2m×2列が建築面積で35㎡位です。鉄筋コンクリート造2階建て延床150㎡(建築面積75㎡)で230tなので、平屋なら75㎡で半分として115t、35㎡に換算すると53t余り。現代の鉄筋コンクリート造より重いものが建っていたとなります。

地面が敷き固められて強くなった、或いは強くした上に建てたとして、当時は木材しかないのでそんなに重いものは造らなかったでしょう。この16t/㎡の地面の耐力をどう考えればよいでしょうか。

遺構には6か所の穴と直径90㎝~1mの木造の柱の根元と思しきものがあったと言います。この木造の柱らしきものを柱と考えてしまうと長大な柱と言う発想になると思いますが、この大きな径の柱らしきものを基礎、或いは杭と考えるとその上部にさらに別のものがあったと言えると思います。例えば木製基礎(遺構にあった)の上にさらに土があったとすると土の重さも加算されます。仮に2mの高さの土があったとすると土の重さは、2t/m3×0.785㎡(1mφの円の面機)×2m=3.12t。地面耐力が上に乗るものの重さで固められ頑丈になったとして16t/㎡×0.785㎡(1mφの円の面機)=12.56t。土の重さを引いて9.44t/木製基礎一本当たりなので6本で56.64tの建物がその上にある。35㎡で56tの重さは木造家屋より相当重い。石があったり、屋根も割としっかりあるなど、結構な建物があったと考えざるを得ないように思います。

竪穴住居以外の可能性

現在でも木造住宅の基礎として「松杭」が使われますが、木製杭を打ち込みその上に石を敷いたりして木造床張りまで頑丈に創る方法があります。

現代の松杭基礎 画像はこちらから

[/caption]因みに中国では4700年前(紀元前2500年)に大規模木造建屋があったと思われる基礎の遺構を発見したとの記事が2019年にありました。三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉で約5900-4200年前とされるので、三内丸山にも伝播した可能性は十分にあり、従来の竪穴式住居や復元された3階建てで屋根も壁もない不思議な建物とは異なる建物があった可能性は十分にあると思います。
中国最古で最も完全な大型木造建築が出土

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posted by sai-yu at : 2022年10月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.10.15

古代日本の東北地方~蝦夷(えみし)の歴史を探る

古代の日本の歴史は西日本に寄っているところがあり、北海道~東北の歴史はなかなか捉えきれていないところがあります。果たして蝦夷とはなんだったのか。松岡正剛の千夜千冊 蝦(えみし)夷 高橋崇https://1000ya.isis.ne.jp/1413.htmlを参考に追求してみます。―――――――――――――――――――――
古代東北の日本列島ならびに日本人における位置と役割と意義と、日本中央が「蝦夷としての東北」をどのように扱ってきたのか、東北民はそれに対してどのような対抗を見せたのか、総じて古代東北とは日本の何であったのか

(中略)

日本が東国と西国に分かれて発達していたということを知らなかった(中略)。のみならず、蝦夷が「東国・ひな・あずま・みちのく・蝦夷・日高見・日の本」などと多様に呼ばれてきたことも知らなかった。
―――――――――――――――――――――
ちなみに、松岡正剛の千夜千冊 蝦(えみし)夷 高橋崇https://1000ya.isis.ne.jp/1413.htmlは、様々な諸説,書籍を経て整理された論評で、一方で余さず追求された論考でもあるので要約しながら追求してみました。

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posted by sawane at : 2022年10月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.10.15

続縄文時代と古墳時代の境目はどこか

みなさん、こんにちは!
これまで縄文(リンク)~古墳時代(リンク)と「墓制」の切り口から日本人の精神・本質を追求してきました。
しかし!実はそれで終わりではないのです!今回はそんな教科書にも載らない「“縄文時代」について追及を深めていきます!!

■「続縄文」とはなにか?
冒頭に「続縄文時代」という単語を使用しましたが、実は時代区分としての続縄文時代はないといわれています。北海道を中心に広がっていたとされる続縄文文化は縄文式以降の縄文の付く土器のある時期を「続縄文時代」、縄文の付かない土器のある時期を「擦文時代」としていますが、必ずしも時代や文化変化の仕組みと1:1対応の因果関係である保証はなく、時代と文化は別種であるという見解が鈴木信(リンク)によって提唱されています。
そのような点から本記事でも以後「続縄文期」と表記していきます。

ではなぜ、「続」と付くのか。それは縄文-弥生-古墳と時代が変化し、農耕が盛んになっていった内地に比べ、北海道では農耕の痕跡がなく、高度の漁撈狩猟民としての生活の跡が見られるためである。また、そもそもの縄文文化と同じ自然環境が整う時期が後氷期の温暖期以降であり、少なく見積もっても本州に比べて3500~1500年遅れて縄文的環境が形成されていったとされている。
また弥生的文化(水稲耕作化)とは関わらず、ほとんど縄文文化の“技術複合体”の文化形式になっており漁撈狩猟民としての特化した経済を構築させていたことから縄文・弥生と同位ではあるが別系統の文化区分として「続縄文」と名付けられている。

■続縄文文化の範囲は?
青森県の砂沢遺跡(弥生時代前期後葉)と垂柳遺跡(弥生時代中期中葉)に検出された「弥生水田」は、弥生文化の「一要素」が本州北端にまで達した事実をよく示しているが、これらの水田跡は北東北の限られた範囲に「」として確認されたまでであり、稲作文化が「」として広がっていたことを裏付けるものではない。
また、砂沢遺跡と垂柳遺跡の稲作民は縄文文化の要素である土偶を用い、土器にはクマ崇拝を想わせる獣状突起を付け、石器の組成も縄文時代をほぼ踏襲している。つまり、弥生時代の北東北は、「弥生文化」の“要素”である「稲作技術」を部分的に導入し、コメの生産を一時的に行ったが、金属器の積極的な導入や階級社会を発展させるなどの状況にはならなかった。つまり、西日本のような弥生文化が進展した地域ではなかった。

弥生時代中期後葉以降になると、稲作関連資料は一斉に消え、弥生土器に一般的な壺や高坏等の器種はほぼ消滅、単純な器形の甕(深鉢)が主体となり、東日本各地の文様が不規則に混じり合うようになり、「続縄文文化」の“要素”を濃くしていく。

・北東北は「「ボカシ」の地帯」
藤本強は弥生時代以後の日本列島の文化を「北の文化」・「中の文化」・「南の文化」の3つに分け、「北の文化」の中心は北海道、「中の文化」は本州・四国・九州の文化、「南の文化」の中心は沖縄県とした。そして、これら3つの文化の中間にある2つの地域、即ち、東北地方北部から渡島半島にかけての地域と九州地方南部から薩南諸島にかけての地域を「「ボカシ」の地帯」と呼んだ。

青い文化圏と黄色い文化圏の中間地帯には、緑色の文化圏が形成されると仮定すれば、「ボカシの地域」は(北の文化)と黄色(中の文化)の中間に位置する緑色の文化圏と言うことができる。即ち、「ボカシの地域」は青と黄色の様々な文化要素がモザイク状に組み合わされている地域(両文化がもつ様々な文化要素を混淆させた地域)であって、(セスナで航空飛行するかのように)それぞれの文化要素を近距離(ミクロ)で俯瞰すれば、青い文化要素と黄色い文化要素がモザイク状に組み合わされている状況が見えるが、(人工衛星の画像のような)超遠距離でマクロに見れば、「ボカシの地域」は緑色に見えることとなる。
この緑色には地域ごと、時期ごとに濃淡があって、その濃淡は青と黄色の文化要素の強弱によって常に変動する。このように捉えることによって、北東北という地域の様相も「文化」として把握することが可能となる。
この理解の下で、弥生時代から古墳時代の北東北の様相を俯瞰してみると、弥生時代前期から中期中葉の様相は、それまでの「縄文文化」に「弥生文化」と「北海道続縄文文化」のいくつかの“要素”が加わった『北東北弥生文化』、弥生時代中期後葉から古墳時代の様相は、北東北弥生文化が北海道続縄文文化の“要素”に包み込まれた『北東北続縄文文化』と把握することが可能である。つまり、弥生時代中期中葉から後葉への過渡期に、北東北の文化は弥生文化的な状況から続縄文文化的な状況に変遷したと考えられる。

・北東北で起きていたアカルチュレーション
アカルチュレーションとは、異なる文化を持つ集団が直接的に接触し続けることで、一方のみ、もしくは両集団の文化が変動する現象である。主に文化人類学や社会人類学で用いられる用語で、「文化触変」、「文化変容」、「文化の接触変化」などのように訳されている。
弥生時代から古墳時代にかけての北東北は、北海道続縄文文化との長期的な接触によって、アカルチュレーションを常に起こしていた地域であると考えられる。

■続縄文文化要素の南下
・気候寒冷化説 網走市で出土した古墳文化系の竪櫛、北東北がルーツの赤穴式土器( 弥生系土器) の道内出土例、北海道よりさらに北のサハリン南部や択捉島にも分布している続縄文土器の存在、これらはいずれも南下とは逆の動きを示している。よって寒冷化が直接の原因とは考え難い。
・北方文化の影響説 鈴谷式の出土例は道内で徐々に増加はしているが、少数で分布も限られる。また、後北C2・D 式は鈴谷式の分布圏であるサハリン南部からも出土している。よって、鈴谷式を使用した集団が後北C2・D 式の集団を広く動かすほどの影響をもっていたとは考え難い。
・鉄器などの物資獲得説 続縄文土器に伴う鉄製品や玉類、須恵器等を見る限り、肯定要素は増加している。

■古墳文化要素の北上
中期の例ではあるが、大釜館遺跡から出土した土師器(宇田型甕)の北上の背景に、「鉄器関係の技術拡散と物資流通」があると述べた井上雅孝・早野浩二論文は、古墳文化圏の土師器の北上理由を明瞭に述べたものとして高く評価されるとともに、この説は続縄文文化の南下理由として妥当性の高い「鉄器獲得説」と対になる点が興味深い。筆者による拙稿では、古墳文化要素の北上理由として“砂鉄獲得説”を提出した。この説は古墳時代前期の玉類を豊富に保有していた青森県七戸町猪ノ鼻遺跡の土坑墓群(古墳時代前期)、137点の細型管玉が出土した同町舟場向川久保遺跡の土坑墓(弥生時代中期)、玉の保有率が異常に高い同町森ヶ沢遺跡の土坑墓群(古墳時代中期)、これら3遺跡が不自然なほど近接している状況違和感を覚えたことが発端となっている。
「特別」と見なすべきこれら3遺跡が発掘調査件数の決して多くない、きわめて限定された狭い空間の中に続々と見つかったことは偶然とは考え難い。装身具を贅沢にまとった人物がこの地区に長期的に存在していた状況を想定すべきと考える。
ただしこのような奢侈品の入手にあたっては、相応の「交換財」が必要だったはずであり、弥生時代中期から古墳時代という時代性に照らせば、それはやはり「」であったと考えられる。
しかし当時、ここに製鉄技術があった可能性は限りなくゼロである。そこで「鉄の原料」はどうであろうかと調べたところ、かつての青森県域は砂鉄の豊富な地域として有名であり、全国生産量の約半分、東北地方の8割以上を占めていたことが判明した。
なお、この説は北海道続縄文文化の南下理由の1つに加えることも不可能ではない。つまり、北海道続縄文文化人は鍛冶に関する技術は持っていなかったが、砂鉄が「交換財」になり得ることを知っており、北東北の集団と接触する中で砂鉄を獲得、産出エリアを掌握し、古墳文化人との交易 を行っていた可能性も考えられる。には「淋代層」と呼ばれる浜砂鉄があり、距離的に近いとは言いがたいが、坪川と小川原湖を利用した水運が可能であったと想定すれば、陸運距離はわずか4Km 強である。
国内における砂鉄を原料とした鉄生産の開始時期は不明であるが、古墳時代前期頃から認められるようになる「砂鉄利用」の複数事例 や東日本における鍛冶関係遺跡の出現 などから砂鉄獲得説が提唱される。

以上の点から境界としての明確なラインはなく、弥生・古墳文化と続縄文文化が混ざりありその中でまた新たな文化形態を築いていったことが窺える。決してどちらかがどちらかを滅ぼすようなことはせず、交易・技術の交換を通して(アカルチュレーションを起こしながら)北東北の続縄文は形作られていったのである。

参考URL
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/129326
https://intojapanwaraku.com/culture/74308/

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posted by yanagi at : 2022年10月15日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.10.07

縄文文化の伝統を受け継ぐ「続縄文時代」―1万年以上にわたって育まれた北海道の続縄文時代とは、どのような時代だったのか―

北海道南西部を含む東北地方では、縄文時代晩期に1キロ平米あたりの人口密度で関東の5倍以上もの人々が暮らしていたことがわかっており、内浦湾沿いの遺跡からは、発達した漁労具が多く発掘されていて、漁が盛んに行われていたと考えられています。また、弥生時代が始まった後も米作りを受け入れず、縄文文化を継続させたとされています。

今回は、北海道の縄文時代とはどのようなものだったのか、弥生時代が始まった以降の「続縄文時代」とはどのようなものだったのかを見ていこうと思います。


大船遺跡

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posted by anase at : 2022年10月07日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.10.01

もうひとつの日本「日高見国」

こんにちは。

今回は、日本国がどのように建国されたのか?その謎に迫ろうと思います。

 

日本国は元々2つの国に分かれており、それらを大和朝廷が統一したという説をご存知でしょうか?これは、中国の文献、日本書記等に書かれている説ですが、日本人のほとんどがそんなことは知りません(学校で教わることは絶対にありません)。

 

具体的には、「倭国(わこく)」と「日高見国(ひたかみのくに)」という2つの国に分かれていたというものです。そして、いつの頃からか、2つに分かれていたのがひとつに統一され、「日本国」と名乗るようになったというのです。

 

倭国といえば、「邪馬台国」や「大和朝廷に連なる原始的国家」などと連想できますが、その倭国と対立する日高見国という国があったという説を聞いてもピンと来ないですし、イメージが浮かばないですよね。

 

しかし、そういった記録が古代中国の正史『旧唐書』と『新唐書』に残されており、わが国でも、その説がいろいろなかたちで記録されているのです。

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posted by asahi at : 2022年10月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.10.01

【縄文再考】竪穴式住居と暮らしの工夫

縄文人の世界観~万物の命の巡り、命の再生が自然の摂理2

の記事では

“”【竪穴式住居】

縄文人は既に高床式の建物を造る技術があったにもかかわらず、竪穴式住居を捨てようとしなかった。また縄文人は好んで、日当たりの悪い、やや湿った場を居住地として意識的に選んでいる。””

 

という投稿がありました。

 

縄文人はなぜ竪穴式住居に住んでいたのでしょうか?

機能性、また竪穴式住居が建てられた場所から追求してみます。

 

■竪穴式住居の雨対策

竪穴(50-60cm)を掘っただけの住居なので、雨が入れば水が溜まるなど、あまり快適ではなかったと考えてしまうでしょう。

実際は屋根や建物周りに土手をつくるなどの工夫を凝らし手いたようです。

 

>雨漏りしにくい屋根であったとしても、竪穴なので、地面から雨が流れこんできそうにも思えます。

中には、ドーナツ型の土手を作り、その上に屋根をかぶせた竪穴式住居もあったそうです。

なるほど、これなら雨が流れこんでくるということはありませんね。

 

土手の外側に水抜きの溝を掘った遺跡も見つかっているそうです。(リンク)<

 

また2020年に発掘された三河遺跡でも50cm積み上げた周堤が見つかっています(リンク)。

 

また周堤のほかにも雨漏りがしない工夫がいくつかありました。

 

竪穴式住居の屋根は茅・草・土などで葺かれていたと考えられています。

 

現在でも茅葺の民家がありますが、何層にも重ねて厚くすることで雨漏りしにくくなるそうです。

またかまどで火を焚くことによって茅にヤニ(タール)がつき、防水効果を高めるのだとか。<

 

中世まで使われていた竪穴式住居では生活の知恵が塗り重ねられているようですね。

 

■竪穴式住居が建てられたのはどんな場所?

様々な意見があり、明確な情報を判断するのは難しいですが、

川の近くに集落があるということが言われているようです。

 

>集落は、暮らしに必要不可欠な「水」がすぐ近くにある場所につくられました。

 

八ヶ岳周辺には遺跡がたくさんありますが、川がたくさんありますし、明らかに沢を意識した場所に集落がありますね。

 

また、標高900m前後に遺跡が集中しているのですが、それは八ヶ岳の伏流水が湧き出ている標高なんです。

 

川が近くにあれば上流でも下流でも「水」は確保できるのに、あえて冬は寒いとも思える、標高900mの伏流水が湧き出る場所を選ぶ。そこには、縄文人の水に対する何かしらの信仰があったのでしょうね(リンク)<

 

 

生活に必要な水と水が入り込まない竪穴式住居の工夫、住みにくいと考えられる

場所でも集団を統合する信仰による定住地。

 

継続して追求していきます。

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posted by hanada at : 2022年10月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.09.22

【縄文再考】最新研究から、縄文と大陸文化、多様性

皆さん、こんにちは。縄文~弥生~古墳時代へとやや大ぐくりにして日本人の期限を追究してきましたが、今回は、今年の2月に中公新書より刊行された篠田謙一国立科学博物館館長の『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』をご紹介しながらさらに追究したいと思います。

画像はこちらから

篠田館長「ゲノムの違いの意味するもの」

以下「人類の起源」より引用します。

「ゲノムデータから集団同士の違いを見ていく際には、同じ集団の中に見られる遺伝子の変異の方が他の集団との間の違いより大きい、と言うことも知っておく必要があります。
本書では集団の期限や関係について調べる目的で、集団間の違いを見てきましたが、それはこのような研究には有効ですが、それ以上の意味はありません。図8-3は世界の各地域の集団から、同じ集団に属する人を二名ずつ選び、それぞれの個人で50万種類のSNPを調べて、系統樹を作成したものです。
枝の長さは遺伝的な差異、具体的には塩基配列の違いの程度に比例しています。どの集団でも同じ集団に属する二人が共通の祖先に至る枝は長く、それに比べて集団同士の間の違いは、中央の部分にとどまっていて、相対的に短いことが分かるでしょう。」

「人類の起源」P258より

要するに日本人二人と中国人二人のそれぞれは、各人ごとに同じくらい違うが、集団的には同じ。その日本人と中国人が所属する「集団」は、トンガ人とは少し違うし、ヨーロッパ人とはもっと違う、と言うことです。

今まで見た目になんとなくそう思っていたのと、結局大差ないことがDNA解析から分かった、と言う幾分拍子抜けの話です。良く分からないのは、個人差が大きいのに集団としては同じとみなすこと。解説がありませんが、集団的な違いの根拠とする遺伝子(DNA二重らせん)は、ごく一部に限られていると思います。なら「(個人差より)違いが少ない」との結果が出るのは当然です。

それよりむしろ重要なことは、日本人と中国人は人類集団としては「同じ」とされていることです。

縄文時代の集団的多様性

同書よりもう一か所引用します。

「双方のハプログループの分布を見ると、N9bの系統が東日本から北海道にかけての地域で多数を占めるのに対し、M7aの系統は西日本から琉球列島で多数になるという、東西の地域差が認められています。」
「同じM7aの系統でも西日本に分布するもののほうが成立年代が古く、東に行くほど新しくなることもわかったのです。そこから、この系統は中国大陸の南部沿岸地域から西日本に侵入して東へ向かったと推測されています。」
「縄文人が旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団によって形成されたという事実です。縄文人のDNA分析によって、およそ一万三000年のあいだ続いたこの時代には、列島に均一の集団が居住していたのではなく、私たちが想像する以上に集団の多様性に富んでいたことが明らかになりつつあります。列島の内部では、地域によって遺伝的に異なる多数の集団が居住していたようです。地域間の人的交流は限られ、広範囲に及ぶものではなかったでしょう。」

先の日本人と中国人が「集団として同じ」ことと縄文時代前後の列島内に多様な集団がいたことをどう説明すればよいでしょうか。

一つ考えられるのは、縄文時代の前後、大陸と日本列島の間を往来する人々が居たということです。

大陸紅山文化と縄文~日本人の基層はどこ?

かつて古代中国の紅山文明との親近性に関し、以下の通り追求しました。

火焔式土器は、中国紅山文化が影響?

【縄文再考】大陸と縄文~縄文前期から列島と大陸は関わり合い、日本海を囲む文化圏があった

【縄文再考】大陸と縄文②~日本海の海流に乗って大陸から文化が届き、列島産・黒曜石は海を渡って大陸に広がった

【縄文再考】大陸と縄文③~縄文・長江文化の底流にある精神とは?

中国と同じ集団と言うゲノム解析の結果と合致します。しかし、これら大陸の影響を受けた人々以外にも縄文時代には他に多様な集団かあった、と言うのが先の引用です。

弥生時代の稲作も朝鮮半島の西に向かい合う中国山東半島。古墳時代では古墳を創り、その後記紀の史書を起こす所謂「統合階級」が国家を形成します。一方、琉球やアイヌには未だ縄文文化が残りゲノム解析の結果も列島中央部と異なるなど、中国寄りの文化に傾倒する人々と、先住民の棲み分けが見られます。

結局「日本人」が、どのようにして形成されたかは、一民族に限った出自の問題ではなく、その後の日本の歴史の分析に答えがあるように思います。

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posted by sai-yu at : 2022年09月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.09.16

古墳時代~経済,軍事で実権を握った豪族

歴史上は、この古墳時代に、日本に王朝や豪族が数多く現れます。

古墳時代の豪族がどのような役割を果たしていたか。
以下から抜粋して追求してみます。

歴史人
https://www.rekishijin.com/
専門技術に秀でた古代豪族に支えられた天皇とは?
https://www.rekishijin.com/22555

追求する中で、豪族はどのような存在であったのか。
探りたいと思います。

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posted by sawane at : 2022年09月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.09.14

日本人の精神が宿る古墳

 

こんにちは!前回(海外の墓制から見る日本人のルーツ )前々回(土葬から古墳への進化の過程~弥生時代の埋葬・墓制より考える~)とお墓から見る弥生人の死生観や日本人のルーツについて迫っていきましたが、古墳について>古墳の根幹にある墓としての文脈を見出す必要があるのではないだろうか。とあった様に中国のお墓と違い日本人が古墳にどういった精神性を遺していったのか今回迫っていきます!

前回は>日本の古墳は、喪葬空間として、いかなる「場」を形づくろうとしたものか明確にされているだろうか。中国の場合、その「場」の意味を失わず高次に昇華させることが、社会性・秩序の維持装置機能を生み出した。
とあったが、日本人は中国のように古墳に“室”としての意味を見出していたのだろうか。

以下リンクより
「黄泉の国」の原点は古墳にあり?

Q 古墳には形以外にも特徴的な部分があるのでは

A 古墳の周辺には焼き物の埴輪(はにわ)が並べられます。元々は円筒形や朝顔形というシンプルな、弥生時代の壺や壺を載せるスタンド(器台)から変化したと思われる物が並んでいましたが、4世紀後半ぐらいから動物とか武器や武具、家といった身近な物をかたどった埴輪を並べるようになります。おそらく、被葬者の生前の活動などをジオラマのような形で残す機能もあるのでしょう。被葬者の生前を顕彰する意味合いも古墳には込められているのです。
時代が下ると墳丘の裾に張り出すように設けられた「造り出し」が出現し、ここに埴輪が集中して置かれします。当初は墳丘の天辺を中心に置かれていた埴輪ですが、時代が下るとその多くが墳丘の下に降りてくるのです。時代によって古墳の構造は変化しますが、その時代ごとに埴輪が置かれる儀礼のステージ(舞台)が造られます。古墳にとって埋葬にともなう儀礼は、埋葬とならんでとても重要な要素だったといえるのです。

Q 死者をまつることで精神世界に繋がる部分もあるということでしょうか

A 古墳は死者を埋葬する施設ですからね。朝鮮半島から横穴式石室が伝わると、墳丘の横から通路を使って埋葬場所である石室内に何度もアクセスできるようになります。つまり死者の世界に簡単に立ち入れるようになり、死に対する意識も急速に強くなっていったでしょうね。石室に至る通路が長くなると、「奥の暗がりに死者の空間がある」という意識が一層強まり、それが古事記、日本書紀など日本神話で語り継がれてきた「黄泉(よみ)の国」という発想の原点にあるとする研究者は多いですね。
引用終わり

ここで出ていた「造り出し」というものは古墳自体を大きな一つの舞台と見立て周りを埴輪等で飾っていたのではないか。そのため死者の空間(石室)内に供えず地表部で埴輪を大量に配置し飾っていたのではないだろうか。

またリンクより
弥生時代後期、日本列島に木槨もっかくや石槨など棺を保護する施設である「かく」が伝来したが、それとともに埋葬施設の背景にあった思想も伝わってきた。その思想とは、人は死ぬと精神的な要素である魂気と肉体的な要素である形魄は分離し、「魂気は天に帰し、形魄は地に帰す」(『礼記』)というような死生観・魂魄こんぱく観であった。

この考えに対応して、古墳では、遺体は隙間のない棺と槨に納められ、辟邪へきじゃのための複雑な手続きのもとに、墳丘の内部に密封された。
一方、魂気は、船に乗って他界に赴くと観念されていた。奈良県天理市東殿塚古墳の埴輪にヘラで描かれた、鳥に先導されて他界へと赴く船の絵や、三重県松阪市宝塚1号墳などで造出周辺に置かれた船形埴輪は、その証である可能性が高い。さらに、奈良県広陵町巣山古墳の周濠の底からは、直弧ちょっこもんが彫られ赤く塗られた実物大の船が発見されたが、それは7世紀の『隋書』倭国伝に記された「葬に及んで屍を船上に乗せ、陸地これを引くに…」の船を髣髴ほうふつとさせるものであった。たぶん当時は有力者が死ぬと、その魂が船に乗って他界へと赴く様子を、葬送儀礼の葬列で擬似的に再現し、屍を船に乗せて他界である古墳へと牽引していったものと思われる。そのためにも古墳の表面には他界が表現されている必要があったのである。古墳は大規模な葬送儀礼を執り行う舞台の一部でもあったのである。

ともある様にやはり「舞台」の意識を強く持ち、縄文時代のような“循環”ではなく、現代に似た一方通行の“他界”へとシフトチェンジされていったのだと推察される。
この特徴もまた縄文時代や中国のとは違い、古墳時代ならではの発展のように思える。

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posted by yanagi at : 2022年09月14日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2022.09.10

ヤマト政権の成立~瀬戸内海を巡る古代勢力の対立~

上立神岩(淡路島):イザナキ・イザナミが周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱とされ、最初に産んだ島が淡路島と伝わる神話

 

古墳時代の様子を考える上で、ヤマト政権成立前後の遺跡・神話を少しふり返ってみます。ヤマト政権誕生と出雲の関係性を紐解くと、古代勢力が瀬戸内海で対立していた痕跡が見つかります。日本書紀をはじめとする神話によった部分も多くありますが、当時の瀬戸内海を巡る各勢力と伝承との関連を検証してみたいと思います。

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posted by asahi at : 2022年09月10日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

 
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