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古代日本の東北地方~蝦夷(えみし)の歴史を探る

古代の日本の歴史は西日本に寄っているところがあり、北海道~東北の歴史はなかなか捉えきれていないところがあります。果たして蝦夷とはなんだったのか。松岡正剛の千夜千冊 蝦(えみし)夷 高橋崇https://1000ya.isis.ne.jp/1413.html [1]を参考に追求してみます。―――――――――――――――――――――
古代東北の日本列島ならびに日本人における位置と役割と意義と、日本中央が「蝦夷としての東北」をどのように扱ってきたのか、東北民はそれに対してどのような対抗を見せたのか、総じて古代東北とは日本の何であったのか

(中略)

日本が東国と西国に分かれて発達していたということを知らなかった(中略)。のみならず、蝦夷が「東国・ひな・あずま・みちのく・蝦夷・日高見・日の本」などと多様に呼ばれてきたことも知らなかった。
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ちなみに、松岡正剛の千夜千冊 蝦(えみし)夷 高橋崇https://1000ya.isis.ne.jp/1413.html [1]は、様々な諸説,書籍を経て整理された論評で、一方で余さず追求された論考でもあるので要約しながら追求してみました。

弥生時代以降の3世紀から6世紀にかけて、日本列島の北には注目すべきことが連続しておこっていた。要約すると…――――――――――――――――――――――
当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であり、亀ケ岡式土器などを使っていた縄文的生活である。それが3世紀くらいにはこの地に稲作が北上し津軽平野まで届いた。ところがその後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減していった。

一方、この時期は北海道から続縄文文化(3世紀にうまれた)が南下した。この続縄文文化は、狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色とする。

他方、それとともに東北には南方のヤマト文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。

加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していった。
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縄文文化,続縄文文化,擦文文化,西のヤマト文化や稲作と、東北は複数の種族が混成していったのですが、
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この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。

つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。だからエミシは自生したのでも形成されたのでもなく、逆形成されたわけである。

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そこを西の政権が「蝦夷」と勝手に一括りにしただけ。6世紀あたりから、西の政権と東の蝦夷の長い闘いが始まります。――――――――――――――――――――――
6世紀に入って国内安定をはかろうと、地方に国造(くにのみやつこ)、屯倉(みやけ)、部(べ)を置いて、中央の「氏」との関係を築こうとしていった。どの地方にも領内には必ずヤマト政権の屯倉と部が設置されたのである。

屯倉は、そこに朝廷の直轄領や収穫した稲の収納機構が生まれたということ。またそこに部としての部民(べのたみ)がいたということは、部民は大王(おおきみ)家やその一族や氏族に属して生産物や労役にかかわるということだから、その地こそが「王民」が住む地域とみなされたのである。

逆に、国造の任官が及ばず、そこに屯倉もなく部民もいなければ、そこは「王化されていない地域」であり、「王民のいない辺境」とみなされたということになる。蝦夷(エミシ)はそうした王民のいない“化外の民”の地とみなされた。
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支配するため、西の政権が制度をつくり始める。この段階では、まだ服属か小競り合いが起きていた程度か。――――――――――――――――――――
7世紀。わが列島に仏教,海外技術が流れこんできた。蘇我馬子が君臨し、聖徳太子の摂政が試みられ、遣隋使や遣唐使が派遣され、東アジアを見据えたヤマト政権の海国としての安定が追求か試みられるようになった。

645年に蘇我の権力が潰え、大化改新以降になると、国内支配態勢の強化の一方、海外政治は白村江の海戦で失敗し、百済との同盟関係はあえなく水泡に帰した。日本を自立させる方に舵をきることになる。

阿部比羅夫の活躍で、ヤマト政権は初めて東北社会とその実態を知る。政府は「陸奥国」「出羽国」を設け、服属者には位階を授与。さらに、国造管理外の地域に、移民を送りこむ方針をとるようになっていった。

これを中央では「柵戸」「編戸」といった。王化政策が積極的にとられ、養老年間には「柵戸一千人」を陸奥鎮処に廃したという記録がある。

こうして天智時代には屯倉・部民が廃止され、国造は国司・群司となり、国と評(群)が設置されていく。しかし、そのころ「陸奥国」はわずかに仙台平野と大崎平野のあたりに特定されたにすぎず、それより北の岩手や青森はあいかわらず広大な「蝦夷」のままだったのである。
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西の政権は渡来人。大陸での復権を目指したが、それも潰え、日本国内統一,東北地方の制圧に舵をきりました。城柵を設けたあたりは、いよいよ戦争になったと言ってもよいと思います。
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8世紀。いよいよ「日本」の確立、律令国家に向かう。

平城京が造営渦中の709年に蝦夷一団が反乱をおこし、これを制圧するために巨勢麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯が征越後蝦夷将軍として北に向かうという事件がおこった。これをきっかけに中央政府は東北にそれなりの任官を置き、城柵を設けるようになった。

724年に大野東人が陸奥守となって多賀城を築き、秋田城が築かれていく。東北任官の者たちはそれなりに東北経営に乗り出した。むろん生産力と交易のためだった。

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力の原理で制圧しようとすれば、当然、反抗をまねくことになります。
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このような状況で、当然に東北出身や東北移民者の出世頭も登場する。牡鹿群出身の道嶋宿禰嶋足(丸子嶋足)は丸子一族を従えて陸奥においても中央においても活躍。坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)と並ぶほどだった。一族の道嶋三山は宮城県栗原に伊治城を築いた。

このような動きは藤原仲麻呂の専横時代におこっている。仲麻呂が中央と陸奥・出羽を直結して統治権力を伸長しようとした。そのため、陸奥や出羽の任官たちが仲麻呂にとりいった。

ところがここに大事件がおこる。中央政府の東北最前線の最大の拠点であった多賀城が、780年に焼き打ちされた。伊治公アザ麻呂の決起だった。アザ麻呂は蝦夷の族長で、中央からも信頼が厚く、部課を率いて蝦夷征討に加わってもいた。それが寝返った。こうして古代東北戦争に突入する。

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この後、蝦夷には阿弖流為(アテルイ)が登場し、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討したのが801年。面白いのは東北出身や東北に移民した。ある意味、東北に同化した一族もいたというあたり。

冒頭に、古代歴史は西日本に寄っていると書きましたが、阿弖流為の他にも、有力な氏族がいたのではないか。今日は、古代から蝦夷の歴史を大きく俯瞰しましたが、次回はこのあたりを追求してみたいと思います。

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