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続縄文時代と古墳時代の境目はどこか

みなさん、こんにちは!
これまで縄文(リンク [1])~古墳時代(リンク [2])と「墓制」の切り口から日本人の精神・本質を追求してきました。
しかし!実はそれで終わりではないのです!今回はそんな教科書にも載らない「“縄文時代」について追及を深めていきます!!

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■「続縄文」とはなにか?
冒頭に「続縄文時代」という単語を使用しましたが、実は時代区分としての続縄文時代はないといわれています。北海道を中心に広がっていたとされる続縄文文化は縄文式以降の縄文の付く土器のある時期を「続縄文時代」、縄文の付かない土器のある時期を「擦文時代」としていますが、必ずしも時代や文化変化の仕組みと1:1対応の因果関係である保証はなく、時代と文化は別種であるという見解が鈴木信(リンク [4])によって提唱されています。
そのような点から本記事でも以後「続縄文期」と表記していきます。

ではなぜ、「続」と付くのか。それは縄文-弥生-古墳と時代が変化し、農耕が盛んになっていった内地に比べ、北海道では農耕の痕跡がなく、高度の漁撈狩猟民としての生活の跡が見られるためである。また、そもそもの縄文文化と同じ自然環境が整う時期が後氷期の温暖期以降であり、少なく見積もっても本州に比べて3500~1500年遅れて縄文的環境が形成されていったとされている。
また弥生的文化(水稲耕作化)とは関わらず、ほとんど縄文文化の“技術複合体”の文化形式になっており漁撈狩猟民としての特化した経済を構築させていたことから縄文・弥生と同位ではあるが別系統の文化区分として「続縄文」と名付けられている。

■続縄文文化の範囲は?
青森県の砂沢遺跡(弥生時代前期後葉)と垂柳遺跡(弥生時代中期中葉)に検出された「弥生水田」は、弥生文化の「一要素」が本州北端にまで達した事実をよく示しているが、これらの水田跡は北東北の限られた範囲に「」として確認されたまでであり、稲作文化が「」として広がっていたことを裏付けるものではない。
また、砂沢遺跡と垂柳遺跡の稲作民は縄文文化の要素である土偶を用い、土器にはクマ崇拝を想わせる獣状突起を付け、石器の組成も縄文時代をほぼ踏襲している。つまり、弥生時代の北東北は、「弥生文化」の“要素”である「稲作技術」を部分的に導入し、コメの生産を一時的に行ったが、金属器の積極的な導入や階級社会を発展させるなどの状況にはならなかった。つまり、西日本のような弥生文化が進展した地域ではなかった。
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弥生時代中期後葉以降になると、稲作関連資料は一斉に消え、弥生土器に一般的な壺や高坏等の器種はほぼ消滅、単純な器形の甕(深鉢)が主体となり、東日本各地の文様が不規則に混じり合うようになり、「続縄文文化」の“要素”を濃くしていく。

・北東北は「「ボカシ」の地帯」
藤本強は弥生時代以後の日本列島の文化を「北の文化」・「中の文化」・「南の文化」の3つに分け、「北の文化」の中心は北海道、「中の文化」は本州・四国・九州の文化、「南の文化」の中心は沖縄県とした。そして、これら3つの文化の中間にある2つの地域、即ち、東北地方北部から渡島半島にかけての地域と九州地方南部から薩南諸島にかけての地域を「「ボカシ」の地帯」と呼んだ。

青い文化圏と黄色い文化圏の中間地帯には、緑色の文化圏が形成されると仮定すれば、「ボカシの地域」は(北の文化)と黄色(中の文化)の中間に位置する緑色の文化圏と言うことができる。即ち、「ボカシの地域」は青と黄色の様々な文化要素がモザイク状に組み合わされている地域(両文化がもつ様々な文化要素を混淆させた地域)であって、(セスナで航空飛行するかのように)それぞれの文化要素を近距離(ミクロ)で俯瞰すれば、青い文化要素と黄色い文化要素がモザイク状に組み合わされている状況が見えるが、(人工衛星の画像のような)超遠距離でマクロに見れば、「ボカシの地域」は緑色に見えることとなる。
この緑色には地域ごと、時期ごとに濃淡があって、その濃淡は青と黄色の文化要素の強弱によって常に変動する。このように捉えることによって、北東北という地域の様相も「文化」として把握することが可能となる。
この理解の下で、弥生時代から古墳時代の北東北の様相を俯瞰してみると、弥生時代前期から中期中葉の様相は、それまでの「縄文文化」に「弥生文化」と「北海道続縄文文化」のいくつかの“要素”が加わった『北東北弥生文化』、弥生時代中期後葉から古墳時代の様相は、北東北弥生文化が北海道続縄文文化の“要素”に包み込まれた『北東北続縄文文化』と把握することが可能である。つまり、弥生時代中期中葉から後葉への過渡期に、北東北の文化は弥生文化的な状況から続縄文文化的な状況に変遷したと考えられる。
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・北東北で起きていたアカルチュレーション
アカルチュレーションとは、異なる文化を持つ集団が直接的に接触し続けることで、一方のみ、もしくは両集団の文化が変動する現象である。主に文化人類学や社会人類学で用いられる用語で、「文化触変」、「文化変容」、「文化の接触変化」などのように訳されている。
弥生時代から古墳時代にかけての北東北は、北海道続縄文文化との長期的な接触によって、アカルチュレーションを常に起こしていた地域であると考えられる。

■続縄文文化要素の南下
・気候寒冷化説 網走市で出土した古墳文化系の竪櫛、北東北がルーツの赤穴式土器( 弥生系土器) の道内出土例、北海道よりさらに北のサハリン南部や択捉島にも分布している続縄文土器の存在、これらはいずれも南下とは逆の動きを示している。よって寒冷化が直接の原因とは考え難い。
・北方文化の影響説 鈴谷式の出土例は道内で徐々に増加はしているが、少数で分布も限られる。また、後北C2・D 式は鈴谷式の分布圏であるサハリン南部からも出土している。よって、鈴谷式を使用した集団が後北C2・D 式の集団を広く動かすほどの影響をもっていたとは考え難い。
・鉄器などの物資獲得説 続縄文土器に伴う鉄製品や玉類、須恵器等を見る限り、肯定要素は増加している。

■古墳文化要素の北上
中期の例ではあるが、大釜館遺跡から出土した土師器(宇田型甕)の北上の背景に、「鉄器関係の技術拡散と物資流通」があると述べた井上雅孝・早野浩二論文は、古墳文化圏の土師器の北上理由を明瞭に述べたものとして高く評価されるとともに、この説は続縄文文化の南下理由として妥当性の高い「鉄器獲得説」と対になる点が興味深い。筆者による拙稿では、古墳文化要素の北上理由として“砂鉄獲得説”を提出した。この説は古墳時代前期の玉類を豊富に保有していた青森県七戸町猪ノ鼻遺跡の土坑墓群(古墳時代前期)、137点の細型管玉が出土した同町舟場向川久保遺跡の土坑墓(弥生時代中期)、玉の保有率が異常に高い同町森ヶ沢遺跡の土坑墓群(古墳時代中期)、これら3遺跡が不自然なほど近接している状況違和感を覚えたことが発端となっている。
「特別」と見なすべきこれら3遺跡が発掘調査件数の決して多くない、きわめて限定された狭い空間の中に続々と見つかったことは偶然とは考え難い。装身具を贅沢にまとった人物がこの地区に長期的に存在していた状況を想定すべきと考える。
ただしこのような奢侈品の入手にあたっては、相応の「交換財」が必要だったはずであり、弥生時代中期から古墳時代という時代性に照らせば、それはやはり「」であったと考えられる。
しかし当時、ここに製鉄技術があった可能性は限りなくゼロである。そこで「鉄の原料」はどうであろうかと調べたところ、かつての青森県域は砂鉄の豊富な地域として有名であり、全国生産量の約半分、東北地方の8割以上を占めていたことが判明した。
なお、この説は北海道続縄文文化の南下理由の1つに加えることも不可能ではない。つまり、北海道続縄文文化人は鍛冶に関する技術は持っていなかったが、砂鉄が「交換財」になり得ることを知っており、北東北の集団と接触する中で砂鉄を獲得、産出エリアを掌握し、古墳文化人との交易 を行っていた可能性も考えられる。には「淋代層」と呼ばれる浜砂鉄があり、距離的に近いとは言いがたいが、坪川と小川原湖を利用した水運が可能であったと想定すれば、陸運距離はわずか4Km 強である。
国内における砂鉄を原料とした鉄生産の開始時期は不明であるが、古墳時代前期頃から認められるようになる「砂鉄利用」の複数事例 や東日本における鍛冶関係遺跡の出現 などから砂鉄獲得説が提唱される。
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[9]以上の点から境界としての明確なラインはなく、弥生・古墳文化と続縄文文化が混ざりありその中でまた新たな文化形態を築いていったことが窺える。決してどちらかがどちらかを滅ぼすようなことはせず、交易・技術の交換を通して(アカルチュレーションを起こしながら)北東北の続縄文は形作られていったのである。

参考URL
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/129326
https://intojapanwaraku.com/culture/74308/

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