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日本人の精神が宿る古墳

 

こんにちは!前回(海外の墓制から見る日本人のルーツ [1])前々回(土葬から古墳への進化の過程~弥生時代の埋葬・墓制より考える~ [2])とお墓から見る弥生人の死生観や日本人のルーツについて迫っていきましたが、古墳について>古墳の根幹にある墓としての文脈を見出す必要があるのではないだろうか。とあった様に中国のお墓と違い日本人が古墳にどういった精神性を遺していったのか今回迫っていきます!
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前回は>日本の古墳は、喪葬空間として、いかなる「場」を形づくろうとしたものか明確にされているだろうか。中国の場合、その「場」の意味を失わず高次に昇華させることが、社会性・秩序の維持装置機能を生み出した。
とあったが、日本人は中国のように古墳に“室”としての意味を見出していたのだろうか。

以下リンク [4]より
「黄泉の国」の原点は古墳にあり?

Q 古墳には形以外にも特徴的な部分があるのでは

A 古墳の周辺には焼き物の埴輪(はにわ)が並べられます。元々は円筒形や朝顔形というシンプルな、弥生時代の壺や壺を載せるスタンド(器台)から変化したと思われる物が並んでいましたが、4世紀後半ぐらいから動物とか武器や武具、家といった身近な物をかたどった埴輪を並べるようになります。おそらく、被葬者の生前の活動などをジオラマのような形で残す機能もあるのでしょう。被葬者の生前を顕彰する意味合いも古墳には込められているのです。
時代が下ると墳丘の裾に張り出すように設けられた「造り出し」が出現し、ここに埴輪が集中して置かれします。当初は墳丘の天辺を中心に置かれていた埴輪ですが、時代が下るとその多くが墳丘の下に降りてくるのです。時代によって古墳の構造は変化しますが、その時代ごとに埴輪が置かれる儀礼のステージ(舞台)が造られます。古墳にとって埋葬にともなう儀礼は、埋葬とならんでとても重要な要素だったといえるのです。

Q 死者をまつることで精神世界に繋がる部分もあるということでしょうか

A 古墳は死者を埋葬する施設ですからね。朝鮮半島から横穴式石室が伝わると、墳丘の横から通路を使って埋葬場所である石室内に何度もアクセスできるようになります。つまり死者の世界に簡単に立ち入れるようになり、死に対する意識も急速に強くなっていったでしょうね。石室に至る通路が長くなると、「奥の暗がりに死者の空間がある」という意識が一層強まり、それが古事記、日本書紀など日本神話で語り継がれてきた「黄泉(よみ)の国」という発想の原点にあるとする研究者は多いですね。
引用終わり

ここで出ていた「造り出し」というものは古墳自体を大きな一つの舞台と見立て周りを埴輪等で飾っていたのではないか。そのため死者の空間(石室)内に供えず地表部で埴輪を大量に配置し飾っていたのではないだろうか。

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またリンク [6]より
弥生時代後期、日本列島に木槨もっかくや石槨など棺を保護する施設である「かく」が伝来したが、それとともに埋葬施設の背景にあった思想も伝わってきた。その思想とは、人は死ぬと精神的な要素である魂気と肉体的な要素である形魄は分離し、「魂気は天に帰し、形魄は地に帰す」(『礼記』)というような死生観・魂魄こんぱく観であった。

この考えに対応して、古墳では、遺体は隙間のない棺と槨に納められ、辟邪へきじゃのための複雑な手続きのもとに、墳丘の内部に密封された。
一方、魂気は、船に乗って他界に赴くと観念されていた。奈良県天理市東殿塚古墳の埴輪にヘラで描かれた、鳥に先導されて他界へと赴く船の絵や、三重県松阪市宝塚1号墳などで造出周辺に置かれた船形埴輪は、その証である可能性が高い。さらに、奈良県広陵町巣山古墳の周濠の底からは、直弧ちょっこもんが彫られ赤く塗られた実物大の船が発見されたが、それは7世紀の『隋書』倭国伝に記された「葬に及んで屍を船上に乗せ、陸地これを引くに…」の船を髣髴ほうふつとさせるものであった。たぶん当時は有力者が死ぬと、その魂が船に乗って他界へと赴く様子を、葬送儀礼の葬列で擬似的に再現し、屍を船に乗せて他界である古墳へと牽引していったものと思われる。そのためにも古墳の表面には他界が表現されている必要があったのである。古墳は大規模な葬送儀礼を執り行う舞台の一部でもあったのである。

ともある様にやはり「舞台」の意識を強く持ち、縄文時代のような“循環”ではなく、現代に似た一方通行の“他界”へとシフトチェンジされていったのだと推察される。
この特徴もまた縄文時代や中国のとは違い、古墳時代ならではの発展のように思える。

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